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bouen
平成二十八年にすべての消防無線はデジタル化された。アナログ方式による一五〇ヘルツ帯周波数の利用を止め、二六〇ヘルツ帯においてデジタル波に移行した。デジタル化された電波を受信することができるレシーバーは消防関係者にしか販売されておらず、現在では一般のアマチュア無線技士が消防無線を受信することは難しくなっている。だからと言って傍受できないわけじゃない。
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誰かの手が誰かのゆびさきに触れた。誰かの手が誰かのゆびさきに触れたような気がしただけかもしれないが私にはそう思えない。私はワンルームの部屋にいて部屋の中にあるものはすべてが手に届く範囲にあり、それ以外は何ひとつ手に入らなかった。それでも外の世界で何が起こっているのか手に取るようにわかった。私の部屋には私に必要なすべてが揃っていた。すべての必要なものの中から受信機を手に取り電源を入れてツマミを回す。そうすると無信号時に発生するノイズが徐々に減衰し、ある閾値を超えてクリアな音声が流れ出す。ツマミを回していると、子供の頃にテレビで見た、古生物学者が繊細な手つきで土を撫で恐竜の化石の輪郭を浮き上がらせるシーンをいつも思い出す。大人になったら古生物学者になりたかった。小学校の卒業文集にそう書いていた。いま私はアパートの一室に籠りながらあらゆる無線を傍受している。傍受できる無線はすべて傍受し、傍受するために傍受している。子供の頃になりたかった自分になることはできなかったがそれでも構わない。モンタナ州で化石を発掘する古生物学者とアパートの一室で無線を傍受する私の姿にいったいどんな違いがあるのだろう。サッカーは上達すればするほどプレー中の仕草が格好良く見えると思う。ギターやピアノなんかもそうだろう。私には化石研究も同じように格好良く見えた。私が無線傍受している姿もいつかそうなるはずだった。受信機のツマミを回し続けると、時折、誰かと誰かが話している声が聞こえる。私は受信機のツマミを回し続けた。受信機のツマミを回しながらこれが世界の手触りなんだって思った。私の世界は私の目に見える範囲にしか存在しないけれど、それでも確かにその外側を知覚することができる。そうしてしばらくツマミを回していると遠くの方からサイレンの音が聞こえた。私は立ち上がってカーテンに近づき隙間から外を覗いた。光の加減で今が夜であるとわかった。月は低い位置にあった。サイレンの音はすでに私の部屋から離れつつある。その姿は見えないがいくつかの消防車が出動していると確信できる。私はカーテンの隙間を開けたままにして、部屋に戻り再度受信機を手に取った。周波数を合わせると間の抜けた声が聞こえた。リバースディレイがかかったような声。私はスクランブルキーを押し音声反転秘話解読機能を有効化した。「……から各局……、指令場所の一般住宅の……、██付近にて煙が出ている模様……」「██本部了解、……██本部から出動各隊……」私はもう一度立ち上がり、カーテンの隙間を覗いた。数キロ離れたところに煙が立っているように見えるが、暗くて断定できない。しかし明らかに消防車の数が増えている。サイレンの音量でわかる。私は家にいるがそれでも街がどのような状態にあるか、すべて理解することができた。いや、むしろ外にいない分、俯瞰的に街の様子を捉えることができた。現場がいかに混乱しているか私にはわかる。私は街の秩序をコントロールできる。であるならば、人命救助の責任の一端は私にあるはずだ。考えている時間は無かった。私は急いでチャンネルを合わせて一つ深呼吸をしてから、話始めた。……落ち着いて聞いてください、住宅の二階部分に子供が取り残されています。……怪我は無いですが、少し煙を吸ってしまいぐったりしてます、救助要請を出します、どうぞ。そこまで話してベッドに受信機を放り投げる。十秒弱話しただけなのに、こんなにも体力を消耗するなんて。横にでもなろうかと考えていると突然受信機から、また間の抜けた声が聞こえた。ベッドに投げた時に秘話解読機能が無効化されたのだろうか。私は受信機を手にとって機能を再有効化する処理を行なった。すると女性とも男性ともつかない声で「すべての海が凍りつくまで決して近づいてはいけないよ」と聞こえた。「私は忠告した。君なら守ってくれると信じているからね」……あの、私の連絡は伝わりましたか、どうぞ。「あぁ、聞こえてるよ」「君には聞こえてるのか、██さん、ねえ、██さん、頼むから聞こえているなら返事してくれ」そしてしばらくノイズ混じりの音声が続いて、交信は終了した。
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この文章は二〇二三年三月のある夜に友人から送られてきました。今回、許可を得て載せています。
受信機はその後、捨ててしまったそうです。彼女はインドア派でしたが、最近は街の様子が知りたいと言うので、よく一緒に散歩してます。この前は海に行ったのですが、彼女はどうも少し疲れてるみたいです。自販機でコーヒーを買ってベンチに座りしばらく話していたのですが、彼女が突然立ち上がり海の向こうをさして「あなたに見える?」と聞いてきました。何が、と返すと「見えないの? 本当に見えないの?」と少し錯乱した状態になったのでベンチに座らせ落ち着かせてから、一体どうしたのかと問いただすと、こう言ってました。「私たちはずっと海の向こうから見られている」
誓って、僕にはほんとうに何も見えなかったです。ええ。海はいつものとおり穏やかでした。