闇と光のあわいで跋扈する者達
久しぶりの豊田市美術館は、ホー・ツーニェン「百鬼夜行」展。妖怪をテーマにした独自の映像作品を堪能することができた。
ホー・ツーニェンの作品に接するのは2回目。1回目の出会いは2019年の愛知トリエンナーレ豊田会場だった。豊田市内の旧旅館「喜楽亭」にて「旅館アポリア」が展示(上映)されていたのだ。かつて旅館として使われていた建物まるっと1棟が映像インスタレーションの舞台となっていた。短編映画のような作品の連作で構成され、音と映像の洪水に圧倒されたのを覚えている。あれは「鑑賞」ではなく「体験」だった。
さらに特筆するべきだったのは、作品のテーマだ。太平洋戦争中の日本軍についての考察で、日本人が扱おうものなら炎上してしまうところを、外国人という立場を通して真正面から肯定も否定もなく取り上げていたのが新鮮であり、同時に不思議でもあった。なぜシンガポールの作家が扱うのか、そして反日本軍の立場を顕わにしないのかと。(この答えについては「かもべり/ソーシャルディスタンスマガジン」に大きなヒントがある→★ また、この記事をもとに自分でも考えてみた→★)
※ちなみに「旅館アポリア」については2021年12月4日〜2022年1月23日、前回と同じ旧旅館「喜楽亭」にて再現展示されるとのこと。
今回は妖怪を切り口としているので、もう少しライトな作品かと思って見に行ったらとんでもなかった。「旅館アポリア」の映像表現をさらに洗練させ、さらには「マレーの虎」として有名な二人の人物を取り上げ、「虎」をコンセプトの中心に置くことで、はっきりとしたメッセージ性を持つ作品へと昇華していた。
もちろん主となる題材は太平洋戦争中の日本軍で、その中でもスパイ養成所として機能した「中野学校」出身者にスポットをあてている。東南アジアのアーティストが「日本」という魑魅魍魎の棲む国の謎に迫ろうとするだけでなく、さらに踏み込んで人間の不可解さ、というか可塑性について描いているようだった。アニメーションの特性をフルに生かし、現実と妄想の世界を自由に行き来する。人と虎の境界線は曖昧で、どちらにもなれるし、妖怪は自然のパワーや暴力、制御不能な力が人や動物の姿に変化したもの。一度は顔を失った者が自らの意思で再び顔を取り戻すことだってあるのだ。
(「百鬼夜行」のスクリーンは大小2枚ある。奥の大画面では巻物式に左から右へと妖怪たちの映像が流れゆき、手前の小画面にはさまざまなタイプの眠る人が入れ替わり立ち替わり現れる。下の写真のように2つの画面を合わせて見ると、百鬼夜行が人々の夢から生まれた存在のように見える)
外の世界はいつもの庭園。紅葉には少し早い。
同時開催のコレクション展は「絶対現在」。「いまここ」に注目するための作品を選び出して展示したもの。「いまここ」は昨今流行りのマインドフルネスの中心となるアイデアだが、展示側もそれを意識していたようで、最後のコーナーは「庭/瞑想」というタイトルのもと、石庭ぽさを演出するための作品が2つ、絵画もまた禅寺の庭を思わせる、李 禹煥(リ・ウファン)の作品が並べられていた。河原温の「Todayシリーズ」はじめ半分以上の作品が以前別のテーマのコレクション展で見たものだったが、「いまここ、という時間について考える」テーマを持った今回のほうがわかりやすく見えたのが面白い。