とある美大卒の花にまつわる思い出話
昨日、商店街で芍薬の花を買ってきた。お花屋さんというより、市場で買い付けてきた物をざくざく並べました、みたいな印象の素っ気ない店で買ったので、背の高さも茎の太さも葉のつき方もかなりワイルド。こりゃ結構しっかり整理しなきゃなあ、と剪定鋏を片手に右から左から芍薬を覗き込む。少し緊張しながらパチン、パチン、と鋏をあてて、葉を落としていく。
こういう時いつも決まって思いだす景色がある。美大受験のために毎日予備校に通っていたあの頃のアトリエだ。
3年通った予備校は、美大の実技試験に備えてデッサンや色彩、立体造形を学ぶ場所だった。課題が与えられ、鉛筆や筆を握り何時間もモチーフと向き合う。石膏像、工業製品、野菜に果物、魚や貝、そして花々。そう、花。私は花を描くのが、圧倒的に苦手だった。
初めの頃は、特に疑問もなく見たまま花を描いていた。他のモチーフと変わらない、描くべきもののひとつ。そんな自分のデッサンを見て、講師のひとりが言う。
「花はさあ、キレイに咲いてるタイミングで描かないと。葉のつき方とか、花の向きとかも、見栄えよくなるように絵の中でいじって描いちゃっていいからさ。」
完全に思考停止した。そんなこと言われたって、いま目の前にあるこの花の名前も知らない。どのくらい開いて、どんな風に葉がつくのが美しいのかなんて、さっぱり検討がつかない。どうしろって言うんだ…と困っているうちに、花びらは大きくばらんとほどけてしまう。
そこからはまあ、ひどいもんだった。今なら、よくモチーフになる花についてだけでも調べるとか、いろんな人の花の写真や絵を見て引き出しを増やすとかしろよ…と思えるのだが、あの頃そんなことまで理解は及ばなかった。物を描くというのは物を理解すること、それがないまま、見たままを写すことに意味はないんだ、と気付けたのはここ数年のことだ。遅すぎ。結局受験生の間の自分は、なにか花が出てくる度にのそのそと手を止め、迷い迷い鉛筆を動かし、首を傾げながら色をつけていた。東京藝大試験前日のデッサン課題ではたまたまアトリエの中で一番の点数を貰えたが、その奥の方にはどう見たって開きすぎのポピーが描かれている。それが予備校で描いた最後のデッサンだった。
一浪の末、念願の美術大学に入れた私だったけれど、花との距離感は変わらないままだった。自分の専攻は花や植物、自然からインスピレーションを受けることをとても大切にしていたはずなのに、苦手意識からちょっとこう、視界の端のほうへ追いやっていた。漠然と後ろめたい気持ちに蓋をして、好きなものを好きなように表現しながら気ままに4年間を過ごし、就職した。花に興味を持てるようになったのはそれからだ。
新卒で入ったインテリアの会社は、さまざまな図案を扱っていた。その中には、国内外のいろんな作家やデザイナーが描いた花がたくさんある。それを見たり、自分からも図案を依頼するうちに、ああ、こう描くのがキレイなんだなあ、バラはこの位の開き具合、モクレンはこんな枝振りが絵に映えるなあと思うようになっていった。花の形も、名前も、色もたくさん覚えた。それからやっと、自分でも花を買ったり、飾ってみようと思えるようになったのだ。その会社はもう辞めてしまったけれど、仕事を通していちばん変わったのはそこだったかもしれない。
それからさらに数年が経って、2020年のいま。外出自粛が謳われ、多くの人と同じく仕事は在宅で行う日々。そんな中、少し前に引越をして家の中に余裕ができるようになったこともあって、室内の光でも大丈夫な観葉植物を育てはじめ、何日かに一度の買出しの時に切り花を買ってくるようになった。毎日、朝の始業前に水を変え、昼の日差しに合わせて少し場所を変える。そうやって、ちょっとずつ出てくる新芽を見つけ、開いてくる蕾を楽しみにこの”おうち時間”というのを過ごしている。変化をずっと見ているから、盛りを越えたことにも気付けるし、萎れていく様にも面白さが見出せるようになった。
今なら描けるかもしれないなあ、と思う。今度の休みには鉛筆とスケッチブックを買ってこよう。大きい画材屋さんには行けないけれど、2B、HB、2Hくらいあればなんとかなるかな。ちょっと季節がずれてるけど、どうせならポピーが描きたい。
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