君にだけバレたい、その正体は
この企画が発表される少し前、なんとなく3年前に書いたライナーノーツを読み返していた。書きたいことも削りたいことも山ほどある。あの頃はまだ高校生だった。3年の月日が経って、自分自身に変化があったからこそ恥ずかしい。そう思っていたところにこの企画の発表があった。
3年前のライナーノーツは良い意味でも悪い意味でもあの頃の私にしか書けないもの。ならば、今の私にしか書けないものもあるはずだ。
さまざまな媒体で解説してくださっていることを咀嚼した上で、ここでは自分の声を聞いてみるつもりだ。
書き始める前に溜めていたメモは既に熱を帯びていて、なんだか嬉しかった。3年後どころか明日の朝恥ずかしくなるかもしれないけれど、やっぱり、書きたい。
クリープハイプ 7thアルバム
「こんなところに居たのかやっと見つけたよ」
ままごと
私にとってアルバムの1曲目は、このアルバムにどう入り込んでいくか、どう引き込まれていくか、或いは引き込んでくれるか、というように色々な感覚がある。『ままごと』はこのアルバムに引き込んでくれたな、と思った。
店着日にアルバムを手にして、初めて聴くあの瞬間。イヤホンを両耳に、歌詞が書かれたブックレットを開いて、体育座りのように膝を抱えて再生ボタンを押した。早速聴こえてきたのは「このまま そのまま 二人でいよう」と歌う尾崎さんの声で、同時にブックレットの文字を追った。ずっと前から知ってるこの声。これだよこれ!と言いたくなるようなクリープハイプの音。「向き合ってもらうからとりあえず」と言われた時にはもうそばにいて、すっかり引き込んでくれていた。
「届きそうだから背伸びしてみる 唇はまだ早いからここにね」という歌詞は愛くるしさがぎゅっと詰まっていて、絶妙に残された余白による想像力の掻き立てられ方もクセになる。背伸びをして頬にキスをする姿が初めに浮かんだけれど、背伸びはしても一線は超えないという対比、内面の揺れのような恋の未成熟さも浮かび上がる。
この曲に描かれたどんなやり取りにも、二人の間には愛が感じられる。多分、「雪見だいふく1個ちょーだい」って言われたら渡しちゃうんだろうな。(小言付きかもしれないけれど)
そんな二人を想像しながら聴くと、思わず頬が緩む。
あー、あなたの音楽がたまらなく好きだよ。これからもあなたの音楽は絶対にままごとにしない。
人と人と人と人
さぁライナーノーツを書くぞ、と"つくる"を押すと2年半ほど前の下書きが残っていた。全くと言っていいほど記憶がなかったおかげで少しワクワクしながら下書きを開くと、書かれていたのは大阪の話だった。
書き終えていたのは冒頭だけだったけれど、ふと「大阪は一人だ」というワードに目が留まった。
そうだ、私は大阪に行くとかなりの頻度で道に迷う。端に立ち止まり、周りを見渡す。見慣れない景色のせいか、ひとつひとつの光景が印象に残る。たくさんの人が行き交う光景もそのうちのひとつで、それを見て「一人だ」と感じた。
あんなにたくさんの人が行き交っているのにみんな他人だ。もちろん私のことを知る由もない。むしろ、知られていたら怖い。
だから「まだ出会わないことで生きている街」なんだと自らの感覚として理解した。
当たり前であることにすら気づかない当たり前や、それによって見逃してしまう感情や物事を見つけることができるのが尾崎さんの才能だと、改めて思う。
青梅
バンドサウンドが際立つ2曲のあとにまた違ったインパクトがある、某マッチングアプリに書き下ろされたこの曲。VIVA LA ROCK 2023の帰り道、電車内のアプリの広告に書かれたバンドのロゴに瞬時に反応してしまったことを不思議とよく覚えている。
そういえば、真夏の戸田球場でも選手のアップ中に流れていた。
打ち込みやiPhoneのマイクで録るという手法など、前作の香りが微かにしている。今作ではこれが良いアクセントになっていて、アルバムを通して聴くってこういうことだよなと思わせてくれた。
曲の中で時間の経過を感じさせる表現はいくつかあるけれど、「夏をもとめて」「もう夏をとめて」「この夏をとめて」と移り変わる表現は気持ちの温度も同時に感じられるのが好きだ。
「ふたりで酸っぱい顔してる」と歌う甘酸っぱい声もたまらない。私もあの声で歌ってみたいな。
生レバ
「2024年11月16日」で披露されたときの炎の熱さが鮮明に残っているから、私の『生レバ』はしっかり火が通っている気がする。
意味が無いと言い切ったサビを聴いて、尾崎さんのエッセイ『カスみたいな言葉にこそ音と同じ速度が宿るのがエモい』(新潮2022年7月号)を思い出した。言葉というよりも"言葉ではない何か"であるこのサビは、見事に音に乗っている。意味が無いのにただただかっこいいと感じるのは音で勝負出来ている証拠でもあるのだろうが、どこか不思議な感覚だ。
それにしても、なぜカオナシさんは突然「生レバ……好きでしたっけ」と尾崎さんに聞いたのだろうか。それがずっと気になっている。
I
私は小学生の頃から「好き」を抱く相手の性別を気にしたことがなかった。特別、異性が好きだとも同性が好きだとも思わない。好きになった人が好き、ただそれだけでそれが私の中の当たり前だった。
だから、同性を好きになったときも葛藤する気持ちはなかったし、周りの友人も気にすることがなかったからそこに対する悩みはなかった。
ある日、"それ"はハッキリと拒絶された。顔も知らない他人に拒否されるのならどうでもいいと流せただろう。でも、切っても切れない、そんな相手に拒まれた。
そうか、私はおかしいんだ。育ち方を間違えた。存在するだけで目障りで受け入れられない。生まれてこなければよかった。すべてを壊してしまったのだから、私はいなくなるべきだ。そんなことまで思った。
3年半以上前の話だが、その感情は残り続けている。
この曲がリリースされたのは2023年の9月。思い出したのは、やっぱりあの時のことだった。空音さんとの『どうせ、愛だ』をクリープハイプ側の視点でもう一度制作した形になっていて、それが私にとって大きな意味を持った。
「好きで好きで好きで好きで 一秒でいいから会いたい」という歌詞はストレートな書き方ではあるけれど、純粋で、明るく甘い「好き」「会いたい」ではないことは痛いほど分かる。
私はどうすればよかったんだろう。何がいけなかったのだろう。私の気持ちは犯罪ですか?そんな感情が「は?」に込められている。
許すことが何なのかも、許されたいことが何なのかも分からない。何もかも煩わしいけれど何が煩わしいのかが分からない。この「分からない」は心底不快だ。だから、不明確な神様という存在に気持ちをぶつける。
きっと、これからも。そして、それでもやりきれない気持ちをこの曲に委ねるのだろう。
インタビュー
私は応援しているプロ野球選手に対して、内に秘めている何かは何なのかと思うことがよくある。喋るのは苦手だと言っていたからそれもひとつの理由なのかもしれないけれど、彼の言葉の奥をもっと知りたくなってしまう。特にヒーローインタビューでは、求められている言葉があるような空気を感じるし、それが嘘だとは思わないけれど心の内は見えない。
「この何かが何か知りたい」を聴いた時、ぴたりと言い当てられたその言葉に強く惹かれた。同時に、でもインタビューってそういうものだよなと俯瞰する自分も居て、そのどこか空虚な感情をシューゲイザーの音が包み込んでくれた。
結局、選手に限った話ではなく、インタビューを通して受け取る言葉では純粋な感情の源には触れられない。もっと言えば、感情のすべてを言葉に乗せることはできない。
だからこそ、私の中で脈動する「知りたい」という思いを頼りに、あなたの言葉の奥に触れようとしてしまうのだ。
べつに有名人でもないのに
バラードでありながら歌詞からは不穏な空気も漂うこの曲。タイトルだけ見て、皮肉が込められた曲だと予想していたが、まさかこの曲調だとは思わなかった。
良い意味で釣り合わないそのアンバランスさと、尾崎さんの柔らかいところもあるのに突き刺さってくるような声が型にはまらないバラード曲を生み出している。音とメロディが今までにないものでも、「クリープハイプだな」と感じさせる理由でもある。
「それが恥ずかしいってことが恥ずかしい」「それが嬉しいってことが嬉しい」という歌詞の書き方にいつも魅了される。
数年前、この書き方について触れたメールをラジオに送ったら「バレてるんでしょうね、やり口が」と言っていたことが忘れられない。でもまさに、この書き方だからこそ、こんなにも惹きつけられるのだ。
この曲を聴くと、尾崎さんの「絶対不祥事起こすと思う」という話をつい思い出してしまうのはここだけの秘密。
星にでも願ってろ
弾き語りで何度か聴いていて、音源化を熱望していた。音源化してくれてありがとうございます。本当に嬉しい。
カオナシさんの生み出す曲は私の嗜好そのものであると断言出来る。やや剥き出しの表現かもしれないが、己の感性、思考、欲求といった部分を最も刺激されるのはカオナシさんの楽曲だ。アルバムを通して聴いていると、脳内の回路が切り替わる感覚がよく分かる。
確実に鋭さがあって、冷風を浴びせるような言葉であっても、気が沈むどころかむしろ心酔してしまう。カオナシさんにはそんな力がある。
この曲の「僕」は「あの娘」の言動ひとつで良からぬ方向へ転がりそうな危うさがある。それは、この好意が私利私欲やたちの悪い依存のように感じるからだ。
「あの娘が幸せで居ますように」と願う気持ちは本心だろう。本人は本心だと信じて疑っていない。そうなると、「でも孤独に寝てますように」という願いの方が気持ちの純度は高いように感じる。愛している君へ、どうか満たされないでくれ。あわよくば僕の手の中で幸せになってくれ。それが「僕」の底意ではないだろうか。
そんな私は、今日もあなたを想って星を困らせている。こんなにも心を乱されるのに、あなたを想うことが生きる理由になってしまう。
なんだ、前述した解釈は自己紹介も同然か。てんで笑えない!
dmrks
解説や曲を聴く前にタイトルを読めたことで、それなりにインターネットの海を泳いできたなと実感した。
バカっぽいって、こんなにも的確に音で表現出来るんだと思った。イントロとアウトロで鳴る、あの跳ねるような音(バニラ味のバカっぽい音)が耳に残る。『生レバ』が「音だけでかっこいい」なら、『dmrks』は「音だけで面白い」。(バカっぽい感想)
この曲は初めて聴いた時から色が頭の中を占拠する。曲を聴く時は頭の中で登場人物を思い描いたり、自身の経験に重ねたりすることが多いけれど、この曲は頭の中がカラフルに彩られる。カラフルと言っても綺麗というよりかは風邪をひいた時に見る夢のようなイメージだ。
そんな摩訶不思議な色の中で投げやりな言葉が並ぶ。私の中で感情をぶつけるといえば『身も蓋もない水槽』や『社会の窓と同じ構成』などが思い浮かぶのだが、この曲もその系譜に連なる一曲だと思っている。激しい歌い方をしているわけではない。でも、摩訶不思議な色の中、バカっぽい音の中で少し冷めた歌い方をしているのが逆にどうしようもない感情を乗せる。
「dmrks(黙れカス)」という強い言葉を、少し淡白な歌い方で放つのがたまらなく好きだ。
喉仏
尾崎世界観のどんな声が好きなのかと問われたら、この曲は隠しておきたくなる。それほど歌声が心の真ん中を射抜いてくる。軽やかなメロディに乗るその歌声は、同じように軽やかな印象もありながら、電流が走る瞬間もあるから隙が無いのだ。
いつも曲は曲、MVはMV、というように離して考えているけれど、この曲はあえて合わせて考えてしまう。
クリープハイプはあのMVのようなパフォーマンスをしないからこそ面白い。同時に、あんなふうにただそこに居るだけでも、ただそこに居てくれるだけでいいと言ってくれるのがクリープハイプだと再確認するきっかけにもなった。
奥に隠していても、ツバの流れすらも見逃さない。いつだって声にならない声を見つけてくれる。
今はMVの映像が浮かぶけれど、自分の目で観たライブの景色を回顧できる日が楽しみだ。
本屋の
初めて聴いた時、小説を読んでいる時のように情景が浮かんでいったあの感覚が忘れられない。『幽霊失格』のAメロに近い書かれ方が、この曲は終始されているように感じた。
「登場人物はどんな人なんだろう?」「ここではどんな景色が見えるんだろう?」と残された余白から想像していくのではなく、描写をなぞるようにして脳裏に浮かぶ。その比較的細かい描写の中に、掴みきれない、でも何か分かるなという感情が生まれるのは新鮮だ。
つい最近、最寄り駅にあった本屋が知らないうちに無くなっていた。頻繁に行っていたわけではないけれど、「散々迷って何も買わずに帰った」ことがある。寂しさを感じながら、それを思い出せたことに愛おしさも感じた。
こうして買取価格一円のありふれた日に気づかせてくれるのはいつもクリープハイプだ。私だけでは何も感じることはなく、消えていくだけだったものがいくつもある。
そんなクリープハイプが、これからも私の夜道を照らしてくれるのだろう。ただ明るく照らすだけではない。迷っても止まっても寄り添ってくれる、私の唯一の光だ。
センチメンタルママ
独特の倦怠感を独特の世界観で描いているこの曲。ブックレットの文字を追いながら「ママ」と「悪寒」に気づいた時はニヤけてしまった。尾崎さんの言葉遊びを見つけると宝物を見つけたかのように嬉しくなるのは、好きになった時からずっと変わらない。
風邪のことを歌っているけれど、「死にそうなほど今を生きてる」で思い出したのは持病で入院していた時のことだ。痛みに耐え続けるだけの長い夜。痛くて苦しくて辛くて、夜中に一人で泣きながら声をあげていた。
あの時ほど、「死にそうなほど今を生きてる」と思うことはないだろう。(っていうか、これに関してはなくていい)肉体を通して感じる痛みが、何よりも"生"というものに近い。
私は幸慈さんと同じく風邪に干されているタイプの人間なのだが、昨年コロナに感染した時は珍しく構われた。節々が痛いってこんなにも文字通りだったのか。喉も痛くて、息ができないほどの鼻づまり。その時のSNSを見返すと、『殺人級の鼻づまりのためにブリーズライト貼ったら鼻の通りがよくなったおかげで空気が喉に直撃して痛い。クソかよ。』とつぶやかれていた。相当参っている。
昨年の自分にこの曲を聴かせてあげたいよ。
もうおしまいだよさようなら
この曲を聴いて思い出したのは「今夜は月が綺麗だよ」の静岡公演。最後の拍手を聞いた尾崎さんが、弾き語りで『大丈夫』を歌ってくれた時のあたたかさをこの曲でも同じように感じた。もこもこの毛布をかけてもらったような気持ちになる。
「また今度」「またおいで」の「また」って、無性に安心する。次があるということ。当たり前ではないと分かっているけれど、だからこそ当たり前のようにそこに居てくれるということが幸せなのだと思う。
クリープハイプにはまっすぐに、「また」と言える。それは耳触りの良い言葉を並べるのではなく、普通に、当たり前にライブをするということを体現し続けてくれているからだ。そんなことを言える日々が戻ってきて本当によかった。
私は今、ツアーの当選画面を眺めて、また会いに行けるということの幸せをぎゅっと抱きしめている。
(曲ハラで訴えられなくてよかった!)
あと5秒
あの日が最後だと分かっていたら、最後のコンビニで一番いらないものが欲しかった。
尾崎さんがこの曲の歌詞を載せてくれた6月は彼の誕生月だった。なんで私のこんな気持ちまで分かるんだと、もはや笑ってしまった。
土曜日の約束をスキップされてから話していなかった彼に送った「誕生日おめでとう」への返信は、無残にも1日経っていた。無視をすることはないけれど、すぐに返すような相手でもない。返ってくるだけいいのかな。でも、その優しさの先っぽが痛かった。
理由は分かっているし、仕方ないことだと思っている。でも、一緒に過ごした時間はそんなものだったのかと悔しくて、悲しかった。そんなものか。そんなものだよな。いかにも広告みたいだと思った。
あの日が最後だと分かっていたら、最後のコンビニで一番いらないものが欲しかった。残っているのは、かき集めても足りない思い出だけだ。
天の声
尾崎世界観の日、クリープハイプの日、サイン会……今年はことごとく当たらなかった。本当に馬鹿な考えだけれど、もう縁が無いんだと思った。『2024年11月16日』で欲しかったグッズは私の整理番号が呼ばれる頃には売り切れていて、蚊帳の外だと思った。そして、そんなことを思ってしまう身勝手な自分があまりにも惨めで何よりも嫌になった。
あの日、そういうお前に歌うと言って歌ってくれた『天の声』。紛れもなく私のため曲だ。
みんなが楽しそうにしている中、一人で居ることを選ぶ。そうやって今までずっとやってきた。いつもどこかズレていて、輪に入れないし、入りたくない。今日もまた煩わしいことばかりだ。
でも、尾崎さんが「大丈夫それなら曲の中でぶっ殺すから」って言うなら大丈夫か。そんなことを思ってしまう。思わせてくれる。だって、こんな人間を見つけてくれる人なんて他に居なかった。なんとなく死にたい夜に、同じ温度で居てくれた人なんて他に居なかったんだよ。
「君は一人だけど 俺も一人だよって」というのは、尾崎さんが変わらずやってきたことだ。私が何年もお守りにしているのも、一人を肯定してくれる尾崎さんの言葉。ここでもう一度、歌詞として伝えてくれたことが嬉しかった。「君は一人じゃないから」という言葉を嘘だと言い切ってくれたことも本当に嬉しかった。人は一人では生きていけないとかそういうことではないし、ちゃんと突き詰めたところが見えている。
見失わないようにここだと示してくれたこの歌詞を受けて、やっぱり一人で生きていくために必要だと思った。
突っぱねて、ひねくれていた私のことまで見つけてくれてありがとう。結局、君にだけバレたいとずっと思っていたんだと思う。(チケットやグッズのことに関してはもう少し大人になろうと思うけれど)そうやっていつも見つけてくれる、そうやってきてくれたよなということを私自身も見つけられた。
お茶の間まであとちょっとのところで、たとえ閉店セールでも長く続けていてほしい。「ずっと太客です」なんて言葉はすごく危ういものだけれど、そうやって疑い合いながら長くやっていきたい。
少しずつ書いていたから、この12月はライナーノーツにじっくりと向き合った。何かを好きでいるということは恥ずかしいことだという話。じっくりと向き合って書くことで、それを強く感じた。
このライナーノーツの根源は「好き」だ。フェスに行けばクリープハイプだけを観て帰るし、他のアーティストの曲は聴かない。なんだかおかしさも感じるほど好きなクリープハイプへの気持ちを綴るというのは、心の内側を晒すようだった。私のための曲だなんて、まず人に言えない。めちゃくちゃに何かを好きでいるということは恥ずかしいことなんだと感じた瞬間だった。
言い換えれば、好きだからこそ恥ずかしい。「好き」を確実なものとするような感情が「恥ずかしい」なのだと思う。その恥ずかしさも、クリープハイプは全部まるごと大切にしてくれている。見つけることができて、好きでいられてよかったと思わせてくれる。
『こんなところに居たのかやっと見つけたよ』
大好きで、特別なアルバム。これから何度も私の心を守ってくれると思う。素敵なアルバムをありがとうございます。
最後まで読んでくれてありがとう。良いお年を!