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半生 ~情報収集における半生感

半生はんなま とは何か?

新年なので今の心持とかを書いておいて今年の年末に振り返りたい。
…という訳で、あわてて書き始めている。
これは今後、自分がつくるZINEを作るときの基本姿勢にもなると思う。

和菓子の分類(やや唐突ですが…)

  1. 生菓子(団子、大福などその日のうちに食べないと風味の落ちるもの)

  2. 半生菓子(もなか、甘納豆)

  3. 干菓子(せんべい、おこし)  

という分け方になるらしい。
半生は、その名の通り水分が少ないひなびたお菓子で
おばあちゃん家のちゃぶ台の菓子皿においてありそうな風情だ。
生菓子や干菓子に比べて、より地味&滋味にあふれ表舞台にでてくることはない(感じ)。
しゃしゃり出ないからこその”踏ん張りの中腰姿勢”、
その美学(?)に勝手に共感さえしてしまう。

半生な態度とは何か?

さて唐突すぎる”半生”を定義するに前に、
情報収集周りの三つのエピソード(?雑感)。

○町中の掲示や告知/古典芸能を身近に感じた京都生活

 わたしは、2000年代初頭、京都に半年だけ住んでいた。その頃スマホはなく歩きながら検索するというすべはほぼなかった。
そんな中、ただ町を歩いているだけで「都をどり(芸妓と舞妓の舞踏公演)」「井上八千代(京舞)の練習稽古」などの公演を町に貼られているお知らせ・ポスター・掲示板(町内会な)で、たやすく知ることができた。

 情報入手がストレスフリー、あるいはバリアフリーというか、古典芸能が自然に空気みたいにそこにあるなって気がした。千葉育ちの私はこのことに相当ビックリした。
 もちろん自身のバイアスはかかっていて、京都の地元民は観光しない、古典芸能も見ない…「ポスター?見たことない」という側面もあるだろう。
 ただ今でも思うのだが、一番情報を入手しやすいのは、町中の掲示だと思う。ワクチン・助成金そのほか…社会的弱者にとってそれらが、かろうじてセーフティネットになっていることは確か。ベタだけど確実性のある情報発信、それは町中で、文字で掲示・告知するってことだと思う。

○考現学/最近読んだ絵本から学んだ態度

 これは、考現学者が書いた絵本。考現学というのは、カレーライスは店によってどんなかけ方をするか、おばあさんはどんなはきものをはいているかなど、町の観察を丁寧に記録し、それを根拠とし社会を考察していく学問のことをいう。

 この歩いて行ける距離にあるものを「つぶさに観察して得られるもの・・」(”もの”としか呼びようがない曖昧な雰囲気)の感触に私はいつも魅せられている。もしも自分に強みがあるとしたら、この指三分先さんぶさきに残るライブ感(違和感)を保ち続ける”しつこさ”だ。この’ある種の嗅覚’を情報収集において、自分の”こだわり”にしてところがある。

○フライヤーやフリペ/ある店頭観察から思ったこと

 2010年代後半の出来事。あるお店に行って「イベントのフライヤーはありますか?」と聞いたら、はぁ?って顔をされた。つまり「ネットに情報があるから、フライヤーはないよ」ってこと。

 ”フライヤー(ビラ・チラシ)文化”ってのは、90年代をピークにネットに移行していった気がする。「昔はネットがなかったから情報に飢えていて死にもの狂いで探したし、その価値が高かった」みたいなことを聞くことがあるが、「モノ」の記憶が色濃かったのがネット以前(90年代まで)だったんだと思う。その頃が私の青春時代でもあった。

(昔話がむさ苦しいのですがもう少しおつきあいください…)

 あれは今から10年ほど前だったと思う…東京下北沢にある本屋店頭である男性を見かけた。髪はボサボサ、サンダル履き、部屋着感満載の服…おそらく近所にお住まいなのだろう…
 この男性が、ものすごい勢いで店頭にある各種フライヤー・フリーペーパーをかっさらって、またたく間に退散したのである。本当に一瞬の出来事だった。私がそのことの一部始終を入店前に確認できたほどに一瞬だった。
そのとき私は思ったのだ、
「あれは、私だ」。
ドッペルケンガ―?!

この男性は店内に入らず、目的はただそれ一択「フライヤー」を目指してここまでやってきたのだ。そこに”何か”があるからそうしているのだ。
ではその”何か”とは何だろう。一つの可能性と仮説。

  • この人は「タダで、何かを得ようとしている」(さもしい?)

  • フライヤー・フリーペーパーと言えども何らかの広告だからフリーなのだ。

  • だとしたら、この人がこの後、家に帰ってする編集作業(取捨選択)って、はかなき消費活動なんだろうか?

…否、私はそうは思わない。
「いや、兄さん…店入って本買おうよ」っていう教訓話もしたくない。
この男性は、自分の徒歩圏内、まさしく地続きにこれらのフライヤーを手に入れた。今や本こそ、どこでも買える。それに対して自分で歩いた先で見つけた紙片(フライヤー)こそ、言われぬ「一回性の尊さ」があると思うのだが、伝わるだろうか?

「元気は、’寝て’貯めるか’出て’もらうか」の二択

↑これは友人が言った名言です。これに倣うなら
「情報は、ネットで得るか(つながって貯めるか)、外出てもらうか」の二択、なのではないだろうか?
 外に出て直にじかに人と触れ合う・会話する・対話することを否定するつもりは全くない。ただ、情報としてはすでに死んでいる紙(←養老孟司さん風に言うと)や看板や掲示…こういった町中にある「知らせ・報せ」に出向いていく姿勢というか、気づく姿勢というか…そういったセンサーはいつでも張っていたい。

再び半生とは?

で、ここでもう一度「情報収集における半生な態度とは何か?」

それは、

もう場所の限定性は問われないネット社会で、
それでも自分の身体で感じることができる範囲を見極めること、
その自分のサイズ感を愚直に保つこと…

こむずかしい話にしてしまったが、
簡単に言えば「自分で町の空気を感じること」
ただそれに尽きるのかも。

 もしかしたら、地縁とかご縁の話をしているのかもしれない。
膨大な選択肢を無視して、今偶然目にした・手に入れたそれこそが
「そのときの最良である」と信じることなのかもしれない。

…ちょっとスピリチュアル?…
何言ってんだか…?
2023年初頭、何をか思う…はこれにて終了!
理屈っぽくてかたい。
どこかでほぐして書いてみるかもしれない予感。


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奥光子∣ガシガシ編集部
表:書いたもので「恥ずかしさの先頭に立つ!」 裏:読んだあとに「なんとはなしにおしゃべりしたりお散歩したくなるような…」そんな”かの地”まで帆走おねがいします。