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キメ顔で待っていられる…ような文章

ベタってなんだろう?

翻訳家の文章

村上春樹は翻訳されることを前提として、
注釈が必要になる日本固有の、独自性の高いモノは物語に登場させない…という話を聞いたことがある。

村上春樹もそうだが、翻訳家の書く文章(エッセイなど)は
余白があって、抽象度が高くスッとした印象が私にはある。
いわゆる土着的な土臭さがないというか…

これ見よがしな「オチ」はなくて淡々とした日々のあわい
味わう。余白とか、割り切れなさ…みたいなのを予め含んでいるのは
翻訳する中で、否応なしに身につく文章所作なのだろうか?
自分が空洞になって”ことば”を橋渡しして、他人が書いた文章を
読者に届ける作業って、どういうことなのかとても気になる。

一方、自分の書く文章っていうのは、ことごとく
「ハイ、今ここ!ハイライト」
「はい、ここカメラ寄って!」
みたいな作為というか私の指示・魂胆が見え見えだ。

筆者の私自ら…鼻を膨らませて
「ハイ、ここ笑うとこ」みたいな期待を浮かべて
キメ顔で待っていられるような感じ。
読者の解釈を余地を残さない。
読んでてウルサイんだろうな。
私がこう思えば相手もこう思うはず!
っていう思い込みで一杯=それがベタってことなんだろうか?

これは私の書きグセで、長所でもあるハズですがーー。

日々は、そんなにドラマチックではなくて、
はかない日々の彩りを丁寧にかき集めたような文章に憧れるけれども、
残念ながらそれは私の持ち味・持ち分ではなさそうだ。
オチをつけたがるたち

髪の毛がベタ塗り(漫画の話)

唐突ですが、私は漫画に描かれる髪がベタ塗りの人物が
そこはかとなく好きです(※漫画はあんまり読まないほう)。

髪の毛がベタ塗りの人物は、主人公ではなく脇役であることが多い印象。
そして、総じてそのまんまだけど、キャラクタ設定定も「ベタ」な感じがする。
その一例は、『キャンディキャンディ』のステア?古いけど。
でもね…三つ子の魂百まで。

いがらしゆみこ『キャンディキャンディ』
カメ🐢を飼っているパティと付き合うんだよね?

ベタ塗りっていうくらいだから、一面隙間なく埋めて塗ることを指している。

人生の後半戦の味わいはワビとかサビなのかもしれない。
きっと「余白」がいるんだろう。

でも私自身は未だに欲が深すぎて全然「余白」とか「余裕」とかが
分からない。

そんなものだから、今年も「やりたいことを、隙間なく、遠慮なく、
がむしゃらに、一心不乱に」全部やりたい!って感じだ。

この文章を書き始めたとき、どう終わるのか予測がつかなかったけれども
自然と今年は(今年も)「やりたいことは全部やる😤」
っていう姿勢を述べることになった。

これもまたベタな話だな。
きっとそれでいいんだと思う。

ではSee you👋
ごきげんよう。


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奥光子∣ガシガシ編集部
表:書いたもので「恥ずかしさの先頭に立つ!」 裏:読んだあとに「なんとはなしにおしゃべりしたりお散歩したくなるような…」そんな”かの地”まで帆走おねがいします。