page.2 アバター理論
先のページで少し触れたが,喧嘩の実態について,その“当事者たち”になんらかの共同体意識を認めるような立場を〈共同化原理〉と呼ぶのだった。
この原理を考えることによって,個別に論理体系を持つはずの個人が,なぜしばしば喧嘩や論争を起こすのかを説明することができる。また,いわゆる自然発生的な喧嘩,意図的に行わないような喧嘩と,特にネットなどでしばしば行われる喧嘩凸や,嗜好としての論争について,それらの本質は特に変わらないということが帰結する。
この原理がその“当事者たち”に認める共同体意識というのは,次のようなトピック「 A は B か否か」に対して,その“当事者たち”は,少なくとも「 A は B か否か」ということをそのままにしてはおけないという意味で逼迫した状態にあるということである。もう少し一般的には,ある命題の真理値に対して,彼らはそれを“共有”しなければならないということである。このような意味で,共同化原理は喧嘩に参加するアバター間に共同体意識があることを認める。
ここで次のような反例を考える人がいるかも知れない。すなわち,「我々は特に相手となんらかの命題の真理値を共有しようと思っていなくても,相手の主張を口頭や文字に書いて,「それは違う」といって否定することが出来るのであり,それを論理を以て争うこともできるではないか。よって共同化原理の考え方は,喧嘩一般に通用せず,喧嘩を行う人間の意思に依存しているうえに,自然発生的な喧嘩しか語れないもっと狭窄な理論ではないか」ということである。
このような疑義に解答することで,〈共同化原理〉を補完するのが,次に説明する〈アバター理論〉である。
先程から,喧嘩の“当事者たち”と強調して言ってきたが,本書が喧嘩の当事者として認めるその本質は,いわゆる“自然人としての個人”ではなく,喧嘩における“主張”とその“論理”である。単独の人間に限って喧嘩を成立させる権能を授かるのではなく,“主張”とその“論理”があれば,むしろそれこそが,喧嘩の実現をしていく本体である。
A氏とB氏の喧嘩について,いくらB氏の主張を聞いたところで,それがB氏の論理体系であるかの完全な保証はA氏には得られないかも知れないが,少なくとも喧嘩の対象として論理体系を認定することはできる。このように喧嘩の相手(A氏)に認定される対象となる論理体系がB氏のアバターである。相手(A氏)に認定される対象ということであるから,つまりB氏の側からいえば,当該喧嘩で行った主張とその論拠として示される諸命題が,当該喧嘩における自分のアバターである。
このように喧嘩の主体をアバターとして捉える考え方を〈アバター理論〉と呼び,これに従えば先述の疑義を次のように解決出来る。
すなわち,プレイヤーとしては互いにトピックの是非を共有する必要はないと思っていても,なんらかの事情によってあえて喧嘩をするような場合についても,その喧嘩の態様を作出するために作られるアバターは互いに共同体にいると考えることが出来るようになる。つまりそのときアバター感には共同体意識を認めることが出来る。むしろ,なんらの共同体意識も認めないのであれば,喧嘩はもはや成立しない。なぜなら,互いに存立する体系が別だと認識しているのであれば,そこにどのような命題のペアを考えたとしても矛盾し得ないからである。矛盾しない,すなわち論理的に互いに真となり得るのであれば対立しないので,トピックが存在し得ない。従って,このような認識のもとでは喧嘩は発生しない。