進軍する赤いワニ
サプリは、トローチと一緒に土吐き蛙を捕まえに行く約束をした。トローチは蛙があまり好きではなかったが、あまりにサプリが楽しそうに誘ってくるので、スマートフォンの月間カレンダーに、「サプリ 蛙」と打ち込む羽目になってしまった。
サプリとトローチは恋人同士。二人は出逢って八ヶ月ほどになるが、一緒に遊ぶと奇妙なことばかり起きる。
三ヶ月前、トローチが原宿で遊びたいと持ちかけると、サプリは原宿で遊ぶのではなくて、代々木公園の原っぱで呑気に空でも見ていようと言った。トローチは自分のための黄色いワンピースとサプリの浮浪者みたいな服装を仕立て直すために渋谷に行きたかったのだが、サプリは間尺に合わない頑固を発揮して絶対に行こうとはしなかった。
「君が渋谷に行くというのなら」とサプリは目も合わせずに言った。「君との関係もご破算だね」
トローチとサプリが代々木公園の原っぱに寝そべって、雲一つない空を見上げていると離れたところで爆発音が三回した。遠すぎるわけでもないが近すぎるわけでもない。トローチの左腕に頭を置いていたサプリは頭を右に傾けて、トローチに向けてニコリと微笑んだ。原宿駅を使って帰る時、赤色蛍光灯をちかちかさせた救急車が五台、綺麗に整列して駅前にとまっていた。サプリは何食わぬ顔で改札口を通り抜けていったが、トローチは何が起きたのか気になった。トローチが六本木にある自分の家に帰ると、六十四インチの液晶の向こう側で、先ほど通った原宿駅で黄色いワンピースを着た若妻風の女が真っ赤に削り取られた頬を押さえながら、「私はこの程度にすんで、まだ助かった」とインタビューに答えていた。テロップには『死者十五名。重傷者三十七名。竹下通りで原因不明の大爆発。テロの可能性』とある。
トローチが驚いたのは言うまでもない。
二ヶ月前、サプリは「世界哺乳類研究機構は危ない」と口癖のように言いはじめた。トローチにはそれが不愉快だった。それというのも、トローチのお父さんは『世界哺乳類研究機構』の東京支部の所長を務めていたからだ。トローチにとって、お父さんは誇りであり、輝きだった。
トローチは「なんでそういう意地悪を言うわけ?」と怒った。
「お父さんのこと、悪く言わないで」
サプリはトローチの頭を優しく撫でながら言った。
「ぼくは君のお父さんを悪く言っているつもりはないよ」
トローチは身を縮こませて、こんなの卑怯よと小さく呟いた。いつも手さえ握ってくれないのに。
「ただ、世界哺乳類研究機構は沈没寸前なんだ。哺乳類のおっぱいからはミルクが出なくなってきているからね」
トローチは「サプリのエッチ」と頬を赤く染めた。
だが、これもサプリの予言通りとなった。「世界哺乳類機構」はある夜を境に事実上瓦解した。強大かと思われた組織もレンガを一つ引っこ抜いてしまえば、あとは崩れていくだけだった。サプリには、そのレンガがどういったものであるかをはっきりと分かっていたみたいだった。トローチのお父さんは大きな所長室の中で首吊り自殺をした。トローチのお父さんに大きな責任をなすりつけた者がいたのだ。おかげでトローチは家なし子になってしまった。トローチは一週間泣きじゃくりながら、街を彷徨ったが、サプリがようやく探し出してくれた。
ずぶ濡れのサプリは呟くように訊ねた。
「ぼくたち出会ってしまって、本当によかったのだろうか?」
「あなたがいなかったら、あたしはどうなっていたのか分からないわ」
最終的にはトローチはサプリの家で暮らすことになった。結果として、二人はいっそう楽しむようになった。
そして一ヶ月前、二人で夕食を取っているとサプリが会話の文脈を無視して、突然叫んだ。サプリの淡色の瞳が潤んだ眼の中で揺らめいていた。
「もうじき地震がくるよ。おまけにどデカイやつが!」
トローチはスパゲッティをフォークで巻きながら訊ねた。動揺するよりも、自分の恋人の少年のような無邪気さに心を弾ませた。古ぼけたアパートのワンエルディーケーの一室すらも、トローチにとっては一つの喜びの国になっていた。
「それって本当なの?」
「来るよ。日本列島まるごと沈んじゃうような強烈なやつ!」
サプリは今まで以上に興奮していた。トローチは今までの教訓からサプリの予言は絶対であることを信じていた。サプリへの絶対意的な信仰を後押ししていたのは先日の後悔だった。もし先月のサプリの予言にきちんと耳を傾けてさえいれば、微力でもお父さんの力になれたのではないか。恋人であるサプリのことを信じなかったばかりに罰が下ったのだと、トローチは強迫的なまでに信じ込んでいた。それでもサプリの予言をうまく飲み込むことができず、トローチは呆然と、半ば夢でも見ているかのように興奮しているサプリの様子を眺めていた。
「こうしちゃいられないよ。明日にでもどこかに旅立たないと!」
翌日の朝一番に、家財道具をリサイクルショップに持ち込んで、銀行口座に入っているお金もできる限り、金やプラチナに変えた。銀行も沈んでしまえば、日本通貨に価値がなくなるからだ。二日後、サプリの勘に従ってタイのバンコクへ旅立った。
スワンナプーム国際空港に降り立った時、到着ロビーにいた人たちが次々と二人のところにやってきて手を握ってきた。浅黒い人たちがまるで今しがた奇跡を目撃したかのように、目をまんまるにして顎が外れたかのように口蓋をがぽっと開けていた。空港の無機質なアナウンスが、一時間ほど前に東京都心を震源地とする直下型の大地震が起きたことを伝えていた。
空港の出発ロビーに設置された大型液晶モニターに映し出された、東京上空からヘリコプターで撮影された映像を見てみると、新宿の街はほとんど波に沈んでいた。別の映像では、佇立したビルを土砂で邪悪色に染まった波が切断し、押し流してしまった。しまいには富士山が噴火したという緊急速報が流れ、日本上空が大黒煙で覆われていると宇宙センターからの衛星写真が届けられた。
あちらこちらで、羽田発のジャンボ機から降りてきた人たちの生還を讃える声が聞こえた。よくぞ生き残ったというわけだ。何人かのスーツを着た中年男たちは鼻血をどくどく流しながら、その場に根っこのように立ち尽くしている。女子大学生風のバックパッカーは、「お父さんとお母さんが」と叫びながら、空港のサービスカウンターでど派手に咽び泣いていた。トローチはその様子をぼんやりと見ながら、あの人にもサプリのような人が隣にいたら、こんなことにはならなかったのかも知れないのにと、ぼんやりと思った。
空港内は終末的な雰囲気に静まりかえっていた。日本のカタストロフィを目にしてもショックを受けるどころかある種の快感さえ感じたのはトローチにとっても意外なことだった。日本はもう過去の国だった。アイデンティティの置き場所だと思っていたところは、しがらみがこんがらがった腐った過去そのものだった。今こそ自分は生まれ変わり、全てはサプリのものになるという予感に胸がときめいた。サプリは瞑想的な眼で映像を見終えると、「哺乳類の終焉は近づいているんだ」と独り言のように呟いた。
「そして、これからはじまるんだよ」
トローチはそれを聞いて、キャッと嬌声を上げた。サプリは口元を緩め、青白い肌とは対照的な真っ赤な舌で唇を舐めて、微笑みを浮かべた。トローチに向けて微笑んでいるようで、その背後を透かしてみるような遠い目をしていた。
「本当に不思議な人。あなたの心は複雑な知恵の輪みたい。いつかあなたの心を読み解いて見せるわ」
二人はその場から歩き出した。サプリはいつものノーテンキなサプリにすぐに戻った。空港内のフードコートをぷらぷらと歩きながら、ナマズの唐揚げでも食べようか、お腹空いちゃったねとかなんとか言っていた。トローチはサプリの柔和な横顔を見ながら、茶色の髪をわずかになびかせた。
それから二週間後、日本列島は完全に姿を消したと報道された。それを聞いたトローチは海上に頭を出したウミガメが潜水する様子をイメージした。世界は日本の沈没を大げさすぎるほどに取り上げた。でも、今やそんなことすらもサプリとトローチにとってはどうでもいいことだった。二人は新しい生活を楽しみはじめていた。世界もすぐに次のニュースにとりかかった。
それがここ三ヶ月間の間に起こった出来事だった。
二人はバンコクの安宿に住んでいた。新たにはじまった暮らしに二人はてんやわんやの大忙しだったが、そんなある日に、突然サプリが土吐き蛙を捕まえに行こうと言ってきたわけだ。トローチには、土吐き蛙がどのようなものなのかは分からなかったが、とにかくサプリのいつも浮かべる柔らかな笑顔が輝いて見えたから、文句の一つも言わず、バンコクから離れた遠い田舎の山々の方へ出かけることにしたのだった。
サプリは緑色のシャツ、トローチは真っ赤なワンピースといういでたちで、黄色い列車に乗って出かけた。持ち物はシャベルだけだった。トローチはどんなことがあってもサプリの後を付いて行くことを心に決めていた。サプリについていけば、何があっても大丈夫だろうという安心感があったからだ。トローチはサプリそのものだった。サプリが視界から消えただけで、自分が幽霊になったような気がした。トローチの狂信は異性のトイレの中にまでも及ぶほどになっていたのである。「人たらしのサプリくん」と恋人の頬を突いてからかってごまかすことでバランスをとっていた。
スラム街を強引に横断する形で走っていた車窓の風景も、いつしか湿地帯に変わっていた。四時間近く電車に揺られていたが、決して退屈ではなかった。トローチは期待したような目をして、いつまでも、幼児のようなあどけなさの残るサプリの顔を見つめていることができた。サプリは長い前髪をカチューシャであげて、猫のように小さい額を車窓の方に向けていた。サプリは脳みそから湧き上がってくる考えにひどく集中しているようだった。トローチはこんな風に思案に耽るサプリをいつも、『卵の殻に閉じこもっている』と表現した。その比喩に則るなら、殻を破るのはいつも突発的な一人笑いだった。特にこの日はその一人笑いが頻発した。腹膜から込み上げてくる痙攣をとめることができないみたいだった。殻に閉じこもっては割れて、また閉じこもっては割れた。トローチは頬杖をつきながら、母性にたたえた眼差しでサプリが一人で笑うのを眺めていた。車窓からは鬱蒼とした熱帯雨林で覆われた巨大な山が近づいてきていた。
終点の木造建築で今にも崩れ落ちそうな駅舎に着くと、今度はすぐに駅舎の前に停まっていた、窓ガラスの割れた軽トラックに乗りこんだ。サプリは平然と運転席に座ったのでトローチも疑いもせず助手席についたが、どんな段取りで物事が進んでいくのかも分からず、放心し切ったような顔をしていた。
サプリの運転する軽トラックは未舗装のがたがた道を鬱蒼とした山の頂上めがけて駆け上った。軽トラックが岩や木の根っこに乗り上がって跳ねる度にトローチはしたたか頭を天井に打ち付けて、瞼の裏に星が浮かんだ。シートの革は破けていて、リスのような小動物がクッションとして詰め込まれていた。強烈に鼻をつく腐臭や車内に入ってくる土埃でトローチは幾度となく吐きそうになった。一方、運転席に座ったサプリは目的地に近づけば近づくほど、例の一人笑いはもう止めようもなくなって、クスクス笑いは大笑いにまで高められた。ハンドルを握りながら、無邪気そうに大笑いしはじめるので、トローチは平常の飄々とした様子をまるっきり失っているサプリに驚いてしまった。そうして軽トラックは頂上についた。サプリはハンドブレーキを引いて停車させると、「土吐き蛙を捕まえたら、後ろの荷台にどんどんのせていくんだよ」と言った。トローチは返事どころではなかったが、こくんと頷いた。
そこは鬱蒼と茂った森だった。人工を凌駕するありのままの自然だった。思想も道理も拒絶するように立ちはだかる虚無そのもののように木々の幹の向こう側は暗黒だった。
「ここは人間も立ち入ったことのない森なんだよ」とサプリは言った。それから顔を青くしたトローチの唇に軽くキスをした。その瞬間にまるで胃のむかつきをサプリが吸い出してくれたかのようにトローチには思えた。
不気味なほどに巨大に育った木々は上の方で膨大な数の緑色の葉を傘のように広げていたので、ほとんど太陽を覆い尽くしてしまった。巨大なバケモノの吐息みたいな生暖かい風が四方八方から吹きつけてくるが、それでいて鳥の鳴き声ひとつ聞こえなかった。二人で獣道に足を踏み入れると、地面は沼のようにぬかるんでいた。実に気味の悪い場所だったが、それでもサプリは場違いなほどに興奮しきっていた。トローチはまるで不安にならないサプリを見て安心することができた。
「あたし怖いわ。だって、今にもケダモノがやってきそうなんだもの」
トローチは猫なで声で、サプリの二の腕をつかんだ。
「大丈夫だよ。土吐き蛙を捕まえにきただけだもんな。別にちょっかいをかけにきたわけじゃないからね」
「土吐き蛙ってどんな動物なの?」
「動物じゃないよ。爬虫類なんだ」
「あら?爬虫類だって動物よ」
サプリは怪訝な顔をした。ほとほとうんざりしきったように眉に皺を集めた。サプリがそんな表情をするのは珍しいことだった。
「動物って概念からして曖昧なんだ。なんせ動くものなら何でも動物ってことにしてしまったんだから。動物と呼ばれていても無機質なものはこの地球にたくさん蔓延っている。とにかくシステマチックな哺乳類はもうおしまいだよ。これからは爬虫類の時代がやってくるんだ」
「それで、その土吐き蛙ってどんな爬虫類なの?」
トローチはサプリの腕に体を密着させながら訊ねた。
「彼らは本来とても深い地下に生息しているんだよ。地下でどうしているかというと、せっせと土を生成しているんだ。ミミズなんかよりも多くの土をつくり出す。彼らがいなかったら、そもそも地球に大地は存在しなかっただろうね」
「どうして、彼らを捕まえるの?」
トローチは思わずサプリの首に両腕をまわして唇にキスをした。とろんとした目でサプリを見つめた。空気がジメジメしていて、蒸し暑い。湿気と不安が、情欲を駆り立てるのだ。
「ぼくは新しい国を作りたいんだ。新しい大地を築きあげる計画なんだ。土吐き蛙に土をたくさん吐かせて、ぼくらだけの国が作りたいんだよ。哺乳類に敵対する国をさ」
「それってすごい素敵だけど、そう上手くいくものかしら?」
「たくさん土吐き蛙を捕まえなくっちゃね」
サプリは笑った。手に持ったシャベルをぬかるんだ地面に突き刺した後で、首に絡みついたトローチを楡の大木に押し付け、とても激しいキスをした。それからサプリはトローチの右太ももを持ち上げて、赤いワンピースの中に細い右腕を入れた。
サプリとトローチが泥に塗れながら絡み合う様子を瞬きもせずに見ていたのは、真っ赤なワニだった。ワニは思った。
「二つで一つ。知恵の輪だって、ここまでややこしくはないだろうな」
このあたりには、ワニが食料の保存として使っている真っ赤な沼があって、そこには蝿やカブトムシのような小さな動物からピラニア、犬、猿、ゾウまでが死体になって折り重なっていた。動物というのはどいつもこいつも複雑な動きをする。獲物が複雑な動きをすればするほど、ワニの食欲をそそった。
「あとは」ワニは考えた。
「こいつらはややこしいがゆえに上玉だ。死体のこいつらを早く沼に積み上げたいものだな」
ワニはまだ人間を食べたことがなかった。そして予感があった。複雑すぎるがゆえに人間の味に虜になるだろうという予感。
「女の方は簡単に殺せそうだ。あの白い太ももを一本食いちぎっておけば、それで終わりだろう。だが、男の方は分からない」
それからワニはくえっと鳴いた。「分からない」
行為が終わると、トローチは「こんなの初めて」とため息をついた。陶然とした表情を浮かべ、額から流れ落ちてきた汗を舌で舐めていた。サプリは何事もなかったかのように泥のついた下着とズボンを穿いた。それからシャベルを握り、全てお見通しだというような態度で「ワニさん。ここに出ておいで」と言った。赤いワニは渋々出てきた。トローチはキャッと声をあげて、サプリの背中に隠れた。赤いワニはゆっくりと前に進んだ。厳かな動きで四本の足を動かし、サプリの足元に来た。サプリは子どもでもあやすかのように言った。
「君の沼に連れて行ってくれないかな?」
赤いワニはサプリの背中から顔だけを出しているトローチに向かって、一回顎を大きく開き、威嚇をした。トローチはワニの赤く焼けただれた口の中を見た。いくつもの細い骨が歯茎に刺さっていた。
サプリは「土吐き蛙を探しているんだ」と言った。「たぶん、君なら知っていると思うんだけどさ」
サプリの顔をじっと見つめたワニはその場で一回りしてから、のそのそと歩き出した。サプリとトローチはワニについて行った。トローチはワニについて行った方が良いと思った。仲間外れになりたくない。それにきっと分かり合える。お友達にだってなれる。この赤いワニはサプリの知り合いのようでもあるみたいだから。
真っ暗な獣道を赤いワニの案内で通っていくと、突然開けた沼地が現れて、その沼地の上から巨大な太陽が熾烈なオレンジ色の光を放っていた。太陽は沼地から上空に向けて三時間ほど歩けば着きそうな距離であるように感じられるほどに近く、実際うだるような暑さだった。沼地から湯気が立ち上っていた。
だから、その獣道のトンネルを抜けた時、トローチは眩い光に思わず目を閉じた。瞼の裏が真っ赤になった。再び目を開けると、真っ赤な血の沼に積み重なった幾千もの死体が見えた。その凄惨な光景を見たトローチは唖然としていたが、サプリはぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでいた。
「こんなにたくさんの土吐き蛙が見つかるなんて思いもしなかったよ」
確かにどの動物の死体も太陽にやられたように仰向けになって、だらりと開いた口の端からドロドロと赤黒い土を吐き出していた。これが土吐き蛙なのだ。
サプリは興奮のあまりに「トローチ!!」と叫んだ。赤いワニは相変わらず瞬きもせずに乾いた眼でサプリを見ていた。
「大地の源泉というのはここだったんだよ。土吐き蛙から吐き出される泥がこうやって固まって、大地が形成されてきたんだ。数十億年も前から、土吐き蛙たちがこうやって大地を作り続けてきた。土吐き蛙は地上にいるよりももっとたくさん沼の奥底に潜んでいるはずだよ。だって本来は大地の奥底にいて土を吐き続けているんだからさ。墓の奥の方からね」
サプリもまた赤いワニを見た。サプリは興奮のギアをさらに一段階上げて、息をぜいぜいつかせながら言った。サプリの甲高い声が裏返っていた。
「土吐き蛙の親はこの赤いワニなんだよ。赤いワニは死の象徴なんだな。きっと、そうだよ。こんなに食欲旺盛なのは死以外にありえないからね」
トローチは、ここでようやくサプリとどこかで決定的に掛け違えていることに気がついた。トローチはもう帰りたいと泣きべそをかいた。
「あたし怖いわ」
「どうして?」
「どうしても怖いのよ」
「それが世のあり方というやつだよ。それは認めなくちゃいけないよ?トローチ。皆が皆死を踏みしめて生きているんだ。真実なんだから仕方がないじゃないか」
トローチはかぶりを振った。
「違うわ。あなたとあなたが怖いのよ」
トローチはサプリと赤いワニを指差して言った。涙声だった。
「こんなおぞましいことを平気で見ていられるなんて、どうかしているわよ。あたしは目をつぶらないと太陽が眩しすぎて生きていけないわ」
サプリは俯いて、それでも興奮した声の調子を失わずに言った。
「死者と生者は繋がっているんだ。死を踏みしめることで。君のお父さんともさ。それこそが有機的というものだよ」
サプリが独り言を呟いている間、赤いワニはトローチの泣き顔をじっと見ていたが、のしのしとトローチの方に近づいてきた。赤いワニは人間の味を試してみたくて仕方がないのだ。トローチは叫んだ。
「やめて!近づかないで!」
それでも、赤いワニはにじり寄ってくる。瞬きひとつすることなく。
トローチは泣きながら、来た道を全速力で駆けた。それを赤いワニが追って行き、さらに沼からはさらに数えきれないほどの赤いワニたちが顔を出し大軍をなして、トローチを追いかけた。
サプリはしばらく俯いたまま、赤いワニたちがトローチを追いかける様子が視界に映らないようにしていたが、赤の大群が行ってしまうと、こう呟いた。
「トローチは赤いワニから逃げおおせることができるだろうか。いや、あまり関係がないな。死者と生者は繋がっているんだから」
サプリはシャベルを持ち、口笛を吹きながら、重い沼の土を掘り返しはじめた。赤いワニの大群は赤いワンピースのトローチを追いかけて、人里まで降りて行った。それから、どうなろうとも・・・。