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夜の冷臓庫

 夜中に目を覚ますと、ワンルームの片隅で冷臓庫が血を流していた。
 ぼくが寝ぼけていただけなのは事実とはいえ、冷臓庫に入れておいた大量のケチャップがあたりに飛び散っているのを見たら、誰だってびっくりすると思う。ぼくが冷臓庫から麦茶を取り出そうとしたら、冷臓庫の内臓光に照らされたぼくの手が血に塗れたみたいに見えたんだから。そこは猟奇的な事件の現場みたいだった。自分が自分でないような気がして、しばらくの間、ぼんやりと自分の手を眺めていたわけだ。
 どうしてケチャップが冷臓庫とか床に飛び散っていたのかは分からない。この部屋には、ぼく一人しかいないし、犬も猫も飼っちゃいない。ぼく以外の存在として考えられる可能性は幽霊だけど、生憎ぼくは幽霊なんぞ信じていない。まだ冷臓庫の何かしらの誤作動の方が可能性としては高いと思うね。冷臓庫が床にケチャップを絞り出すだなんて、ぼくに対するちょっとした氾濫みたいなものだし、冷臓庫に二本の腕が生えてこないとできない芸当だとは思うんだけどさ。右手で自分の腹を開けて、左手で取り出したケチャップを床に絞り出す、コミカルな顔をした冷臓庫。バカみたいだ。
 まあ、とにかく、ぼくは血塗れでクソッタレな床と冷臓庫を雑巾で拭きはじめたわけだ。よく分からないトラブルみたいなことがぱっと突然起きて、よく分からないままに対応に追われる。一つの摂理だとは思うよ。
 それにしてもわびしかったね。午前三時に暗闇の中、雑巾掛けをしている自分ってやつがさ。孤独というやつが染み入ったよ。おかげさまで、ぼくは昨日の彼女とのことを思い出しちまった。昨日のことで世界が反転したとか、そういう大袈裟なことが起こったわけじゃない。実際の話、大したことではないんだ。少し、ぼくが間違えたってだけだ。でも、最後に彼女が見せた憐憫と軽蔑の混じったみたいな眼差しはちょっとばかし気になった。ぼくは何も食べたくなかったから、昨日はさっさと部屋に帰って寝ることにした。だから夜中に目を覚ますことになったんだけどさ。
「夜中に冷臓庫の周りを雑巾で拭う男」
 はたから見れば、何かの象形文字のように見えたかも知れない。その歪んだ形をした象形文字が石膏で固まっていくみたいに、新しい漢字に形成されていくのをぼくは頭の中で思い描いた。でもきっと、ぼく以外の人間には、その漢字の意味するところは分からないだろう。夜中に冷臓庫まわりの床を拭いている人間の気持ちを表す漢字なんてものはさ。そもそも、新しい漢字がこれから生み出されるなんてこともないだろうな。
 二十分かけてケチャップを拭き終えると、もうばっちり目が覚めちゃって、眠れそうになかったから、三百五十のビール缶を一本取り出して、しみじみと飲みはじめた。でも、やっぱり何かを胃に入れたくなるような気分ではなかったな。ビールを飲んでいても、大したことを考えていたわけではない。ただ、さっきまで見ていた夢のことについて考えていた。
 夢の中のぼくは誰かに拳銃を突きつけられていた。誰かっていうのはよく覚えていないけど、とにかくそいつに馬乗りにされて、ぼくは尻の下でもがいていたってだけだ。ぼくの脳天に押し付けられた銃口が火を噴いたかと思ったら、目が覚めた。
 ぼくの見た夢と、冷臓庫がケチャップに塗れていたことには何か関係があるのかも知れない。まあ、あそこまで酷い夢は、もう見ることはないとは思うんだけどさ。

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