薙ぎ払われたその後に
また少しご無沙汰しましたね。
どうもこんばんは。
前置きはあまりいらないと思うので
![](https://assets.st-note.com/img/1685103327838-ggAa8Zj013.jpg?width=1200)
大阪ですね。
日本センチュリー交響楽団様の公演です。
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毎度のことながらピアニストメインの記事になることはご容赦いただき。
ファンの中では周知のことだろうが、プロコフィエフ ピアノ協奏曲第2番といえばこの御仁以外に思いつくことはあまりないだろう。
2020年の代役公演・2021年コンクール・そして本日2023年5月である。
2021年のコンクール以来であるので約2年ぶりの演奏となれば皆足を運ぶ以外の選択肢はほぼなかっただろう。御多分に漏れず私も東京から参戦である。
素直に言えば、この曲の破壊力と衝撃力は2020年12月が圧倒的過ぎていた。
あまり通常の定期公演では取り上げられないこの曲であるが、2021年以降国内のプログラムに載ることが増えつつあるこの曲だが(今年は異様に固まっていて今日を入れて認識しているだけでも4公演ある)、本日を迎える間に1度別のピアニストで曲を聴いたがこの御仁を越えたかと言われると首を縦には振れない。もちろんどんな演奏がいいかは人による。
良い・悪いではなく私にはあまり刺さらなかったというだけだ。
相変わらず前置きが長い。
さて演奏であるが、今回スケジュールの都合で前半しか聞いていないので、ご容赦頂こう。
1曲目:イベール ディベルティメント
先日N響の定期公演でも取り上げられたラビーシュの喜劇の付随音楽である。
たしかドタバタコメディ的な感じの劇だったと思うが、各曲のコミカルさというのは聴いていてとても楽しい。
そして、今回が初日本センチュリー交響楽団
初の出口大地マエストロである。
初めての曲がイベールというのはなかなかの縁だなと思うのだが、これが良かった。
一言で言うなら、なんとヤンチャな組み合わせだろうかと。
マエストロの人柄もあるのだろうか。音がポップだ。クラシック音楽の演奏を捕まえて何がポップだというツッコミが聞こえてきそうだが、ここは敢えてスルーしていこう(おい)
想像より小柄なマエストロなのだが、放つ陽の気に密かに当てられる陰キャの私…(聞いてねえ)
眩しいが似合う男というのはこう言うことを言うのかとこれまた密かに思う。
そんなマエストロがひとたび指揮を始めれば、そこからおもちゃ箱でもひっくり返したようにポップで少しいたずらっ子な劇の幕開けである。
もちろんヤンチャといえど崩壊しているわけではない。しかし音が跳ねるというのはこういうことを言うのだろうと思う。にこやかに進行し、時に踊るように展開するいたずらっ子な指揮の見事さに各セクションがこれまた応えて鮮やかな色彩を展開する。コンミスの方動きがロックだ……いいぞ…
ワルツではまさにいたずらっ子本領発揮とでもいいたげにニコニコしながら曲を停滞して見せる。良い笑顔しやがるぜ…
おかげでワルツ終わりの拍手(これは客側の悪戯心なのか本当に終幕だと思ったのかはさておき)
パレードからのドタバタフィナーレである。
N響のときはジャンパーとダンサーがいたな…
なんてことを思い出しつつ、楽団・指揮者が変わればこうも印象が変わるんだからクラシックってやつは面白い。
実に素晴らしき始まりであった。
2曲目:プロコフィエフ ピアノ協奏曲第2番
イベールのあとにこの曲をぶっ込んでくるマエストロのヤンチャさは嫌いじゃない…笑
天から地へ落とすかのような選曲である。
個人的な緊張もここが最高潮と言えるだろう。
さぁここからが長いわよ皆の衆…(簡潔にはまとまらない)
まったくもって務川慧悟その人はいつもある意味変わらない。相変わらず、さらりと登場するその姿はその後に弾かれる曲の禍々しさを感じさせないほどだ。
さて、約3年ぶりの実演である。
オーケストラの扉をノックするような低音で始まる。1楽章。扉が開けばそこからはピアノが波のようにさざめき始める。
そしてこの出だしの主題が始まるその1音。この音をなんと表現すれば良いのか今だに納得のいく表現ができない。ひやりと広がる1音。奏でられた瞬間のすーっと冷たく澄んだ空気が広がるような感覚に何と名前をつけたら良いのか。
あの1音が会場の空気を一変させると言っても私は差し支えないと思っている。冷たく奏でられた瞬間にピアノからブワッと何かが広がるような。その瞬間から私の目も耳も身体も呼吸でさえも自由に動かせなくなるのだ。その威力は毎回更新され続けている。そして今日も…
手足を縛られるように爪先から頭に向かってくるこの冷たくも美しい感覚。毎度のことながら本当に強烈である。
この曲の導入の美しさ・儚さをうまく伝えられない。
イントロダクションだけでこれである。
そこから徐々に熱を上げていく。
ピアノが主導しながらオケが歌い出す。
イントロダクションを抜け、ピアノが相変わらず主導権を握りながら、徐々に技巧的にシニカルに道を走り始める。オケを携えて、妖艶さを纏いながら進んでいく。
そしてとうとうオケを置いてけぼりにして、ピアノが孤独に語り始める。
これから歩み始める孤独で、悪魔的な、自らの内に抱え込まれている力の姿を。
普段の目の前のピアニストと野心とはあまり結びつかない。冷静で作り込まれた世界の構築とそこへ強制転送するような制御力こそこの御仁の代名詞と言えるだろう。職人的と言っても良い。
故にこの長大なカデンツァの悪魔的で、内に蓄えた黒い野心など似ても似つかない。
しかしそれは語られるのだ。
目の前のピアニストから。
あのカデンツァから感じる、暗く叫ぶような、嘆くような音楽はなんだろうか。
常に新しい音楽を追い求めたプロコフィエフの孤独だろうか。それとも何かへの憤りだろうか。
ここに詰められているのは単純な叫びなどではなく、一種の憎悪みたいな概念なのかもしれない。
哀しみなのか憎しみなのか。訴え続けるピアノの音は痛切さを伝播させる。
一見乱暴に見えるほど力強く、叩きつけるように弾き出される音を後押しするようにオケが叫ぶ。
胸ぐらを掴むが如く叩き込まれる音の凄まじさは現地に居たものならば、言わずもがなだろう。
ほんの少し深淵を覗かせてやっただけだとでも言いたげに1楽章冒頭のさざなみに帰っていく。
2楽章で唐突にオケとピアノが失踪し始める。
何かから逃がれるかの如く並走する。
メカニカルにも映るこの楽章の恐ろしさについて、
お分かりいただけるだろうか。ピアノは両手でほぼ同じパッセージを弾き、並行状態のまま走り続ける。オケはオケで疾走を続ける合間を縫うように差し込まれるのである。気を抜けば崩れる均衡。
そして目の前のピアニストは完全にこの曲を自分のものにしたのだなと思う。前に見た時も凄まじかったのだが、まだ実験をしているような試行錯誤を繰り返しているような、完成しきらないからこその危うさがさらにこの曲の黒さを際立たせている感があった。(と言ってもこれは今思えばであり、当時からしたらやっぱりコンクール用に練習していただろう曲なので、完成というか解釈はできていたのだろうが)それがどうだろう。
相変わらず悪魔的な色合いにも関わらず丁寧に運ばれる指の動きはまさに務川慧悟その人で、鍵盤を滑る指は何を弾いていてもあまり変わることがない。
まったく恐ろしい男だ。
そうこうするうちに2楽章を走り切る。
さて、3楽章である。
本日最大の注目ポイントがここである。
ずるずると大きな何かを引き摺るように始まる3楽章。ピアノがこれまた不可思議な妖艶さを纏いながら闊歩する。私を見ろと誘惑する。
さてここの何がポイントなのかといえば、アクセントである。数多の音源を聴いてみたが、どこにも当てはまらないのがこの御仁の演奏である。
言葉にするのはとても難しい。
3楽章は特になぜここに?というところにアクセントもしくはスタッカートがついていると思うのだが(楽譜見てないから耳で聴き取ってるだけ。楽譜真剣に買おうかな…)、妖艶に闊歩しながら我々に不敵に微笑みかけるのである。
3楽章急にピアノのみになる箇所があるのだが、ここの旋律に被さる形でいくつかアクセントが飛び出る。ここの表現はどんな楽譜の指示記号がついているのか不明だが、誰のどんな演奏よりも妖艶で、一度聴いてしまえばこれでなくては物足りないのだ。(たしか6音源くらい聴き比べ、実演でも確認したが1人もそんな演奏はしていない。むしろ淡白に進行することが多い気がする)
そして相変わらず奏でられるこの妖艶さを凌駕する者はおそらくそうそう現れないだろう。
これだけでも一聴の価値があると言うものだ。
そして4楽章である。
再びオケとピアノが疾走を始めたと思いきやピアノがいきなり先行し始める。
コンクールのときも思っていたが、このピアノの飛び出し、おそらくコンクールの時はもっと速いスピードで弾きたいのだろうなと思って本番を見ていた。そこには明確な意志があった。さて、この部分を今日はどうするのかと考えていた。
そしてやはり飛び出した。
それが想像よりも倍くらいのスピードである。
ユジャワンのスピードを思い出す。早弾きの天才と言っても良い彼女のスピードよりもさらに速いのではないかとすら感じるほどの超スピード。
この部分決して技術的にも優しくないであろう場所だが、このスピードでなければならないのだろう。
ここでも一見乱暴に見えるスピード。
そこに加わるオケはまるで列車や装甲車のようだ。超速で疾走するが如く追随する。この興奮を、全くやってくれるぜと言う感覚をどう伝えれば伝わるだろうか。
そして超速で駆け抜けた後、ふとピアノは立ち止まるのである。
孤独を嘆くように、自分のやりたいことはこれなのだと誰かに理解を求めるように。
そして奏でられる旋律のなんと切ないことか。
プロコフィエフという作曲家について、私が知っていることは限りなく少ない。しかし、おそらくあまり人に弱味を見せるような人間ではなかったのだろうなと思う。この曲自体かなり初期に作られたものを復元しているのが現在の版だが、音楽院時代のプロコフィエフはどちらかといえば煙たがられている節があったと記憶している。入学前の評価と入学後の評価に乖離がある人物(おや?どこかで聴いたことがあるような)。
ここからは少し私の妄想に付き合ってほしい。
常に新しい音楽語法を追求していたプロコフィエフ。当時のロシアの音楽を聴いてみると確かにプロコフィエフのようなゴリゴリとした質感の音楽というのはあまり見られないかもしれない。
ピアノ協奏曲第1番と第2番、仕上がりを比べれば歴然だろう。時に人は安定を破るものを煙たがる性質があるものだ。残酷なほどに。
プロコフィエフからしたら新しく見つけたものをさぞ自慢したかっただろう。こんなものができたと。
それはそれは誇らしかったのではないか。きっと他の人にも気に入ってもらえるだろうと、数多の人の度肝を抜いてやろうと考えたのではないだろうか。
そんな思いとは裏腹に評価は二分されるわけである。
この曲の中でプロコフィエフの人間らしさを感じる瞬間が差し挟まるのはそういう強固な自信そして野心の陰で少しだけ孤独を嘆く自分がいるのではないかと思ってしまうのだ。
そう思わされてしまうのだ。この目の前のピアニストのピアノを聴いていると。
だからいつも泣いてしまうのだ。
差し挟まる切なすぎる旋律があまりにも真に迫るものだから、大声をあげて泣いてしまいたくなるのだ。
それでも立ち止まらずに進んでいく。
誰にも邪魔はさせないとでも言いたげに曲は進行していく。
これを野心と言わずしてなにを野心と呼ぶのか。
孤独を野心の中に強烈な個性の中に隠して進み続けることを選んだのかもしれないと思う。そして、曲は終盤に一気に加速し、唐突に終わりを迎える。
全くもって、この人のピアノというのはどうしてこうも人を従わせるのだろうか。
これほど強烈で破壊的な音楽の破壊的ではない形の部分を明確に掘り出してしまう。
それにしてもオケの皆様お疲れ様でしたの気持ちでいっぱいである。
この協奏曲ピアノが強烈だが、それに付き合わされるオーケストラも相当難関なのではないかと思う。
なんせピアノがあんだけ複雑だというのにその間に突っ込まれるわけで、それが少しでもずれればキマらない。出口マエストロのアンテナとオケの実力あってこその最高の実演の時間であった。
ここだけの話、音源ですらオケとピアノが合わないものが存在する。それだけ、技術的に難しいと言えるのだろう。個人的なMVPはやはりヴィオラだろうか。というかよく聞こえた…上手く言えないが、ヴィオラの疾走感はヴァイオリンともチェロともことなり実にクールだ。かっこいいんだよなぁ…刻み音…
全くもって今日聴いたものはおそらく私の中で過去1のプロコフィエフのピアノ協奏曲だったと言っても良い。
そんなわけでソリストアンコールの時間である。
正直この協奏曲聴く方も体力がいる。ほぼ金縛りのような状態の私からするとほぼ瀕死である。
それでもソリストアンコールというのはいつ聴いてもそれをさらに越えてくる。
今日は何を弾くのかとぼんやりステージを眺めていたその瞬間の1音で、何の曲なのかを察知した。
ラヴェル「鏡」の中の1曲「Ⅱ.悲しい鳥」である。
間違えようがなかった。
そして、あれほどの大曲を弾き切ってなお、決してブレることのないコントロール。
1音奏でられただけで世界は静寂。
こんなことがあるだろうか。あれほど独善的で破壊的な曲の後に、これほど構築された完成された世界をすぐさま引っ張り出すのだ。
何がどうしたことか。
私に取って鏡という曲は特別だ。
何度聴いたかわからないほどに。
通して実演で聞いたことがあるのはたったの1回だ。
その中で1曲だけ取り出されるとしてⅢ.洋上の小舟とⅣ.道化師の朝の歌以外はあまり取り出されない。
そんな中にあってⅡ.悲しい鳥である。
あまりの感動に震えていた。涙が止まらなくて、少し声が出ていたかもしれない。
完璧な世界があるとしたら今この瞬間は間違いなく完璧だった。
焦がれ続けて聴いてきたアルバム。本当に発売されてから何回聞いたのかももう思い出せない。
文字通り擦り切れるほど聴き続けている。
それでもあれほど作り込まれた録音の世界などその時点を切り取るに過ぎない。
過去に固執してなんの価値がある?と言われているように、さらに研ぎ澄まされたコントロールと丁寧さで眼前で奏されることの幸福をいくら言葉を連ねても言い表せない。
もうはい。本当に…
そうして気がつけば時間が経っていた。
これを書いている今、帰路にある。
本当にどうかしている。
それにしても本当にどんどん大きい存在になっていくお方だ。
繰り返し繰り返し同じように塗り替えられていく凄みは留まるところを知らない。
これだから務川慧悟という人は目を離せないのだ。
油断していれば遠いところにいて、こちらはおいていかれる。
恐ろしさだったり、完璧さだったり、一見したところでは常人のそれとはつかない世界の中で、人らしい部分が浮き出される瞬間のはらわたを掴み取られるような名前のつかない感覚をこれほど明確に叩き込まれるのはこの人の演奏だけだ。
少なくとも私にとっては。
全てが薙ぎ払われた先であっても、誰も寄せ付けない要塞のように構築された場所であっても、必ずその中の弱さや尊さを美しさをありとあらゆる形でこの人は魅せてくれる。
それはたぶんこの先も変わらないのだろうし、もっとたくさんの人がそれに取り憑かれていくのだろう。
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マジで一瞬で終わりました昨日。
半泣きのまま帰りました。というか何も聴きたくなかったし、何も見たくありませんでした……
早く帰らないとって半泣きのままダッシュしてたのに大阪駅で迷子になったポンコツです。
どうも今回も長いですねー。
コンクール以来初演奏ということだったし、プロコフィエフ務川さんのお陰でめちゃめちゃ好きになってしまったんで、責任取ってもらいに行ってきましたはい(何を言っている?)
責任………………取ってもらえましたわ………(やめろ)
今日の感想をまとめると…
でんぐり返るくらいスーパー最高でした。
今宵もお後がよろしいようで(殴)
それにしてもあれですね。相変わらず超高速で進化していくのなんなんですか。
成長期ですか?(おい)
おかげさまで相変わらず、これからも付いてくしかないなーってなりました。
一生振り回されることになりそうです。
一生振り回されていたいです(やめろ)
そして日本センチュリーさんも出口マエストロも超よかった…ヴィオラ…かっこいかったよヴィオラ…(語彙)
今回はスケジュールの都合でどうしてもその日中に帰らなくてはいけなくて交響曲が聞けなかったのですが、今度は聴きたいですね…はいぜひ………
さて。次は6月ですな!
しかもフランスプロです。
初出しのフランクです。
いやーどうなることやら…
帰国早々とんでもない公演ぶち込んでくれましたので、帰国期間中の演奏会はどれも注目です。