1音の価値と新しい形
今年の夏も暑いですね~
こんばんは~皆様いかがお過ごしでしょうか。
いつものことながらこちらが更新されます!(知ってる)
さて本日はこちらですね。
ラフマニノフです。ピアノ協奏曲です。3番です。
大阪での公演以来ですね!
聴きに行けませんでしたので、都内で聴けるなんて行く以外にないですね!!
残念ながら私は務川慧悟信者なのでそっちメインの感想なのでご容赦を……
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ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番
ここまで演奏する側にも、聴衆にも知れ渡る有名な曲もなかなかないだろう。
ラフマニノフのピアノ協奏曲といえば2番・3番があまりにも有名で、ラフマニノフ弾きというブランドの上で、この2曲の協奏曲のソリストに名指しされることの意味は、おそらくかなり大きい。
もちろん、弾かないから弾けないわけでも、ピアニストとして二流扱いされるわけでもないだろうが、実際の演奏会で演奏したことがあるというのは、たぶんに意味が付いてしまうものかもしれない。
特に3番を演奏することの意味はおそらく聴衆が想像するよりも大きい気がする。
実際、御仁も語っているが、ピアニストにとって、協奏曲の王様、登らないわけにはいかない山だというのは、その通りなのだろうと素人ながらに思う。
そんな中で、2022年とうとうこの御仁も日本国内においてではあるものの、演奏機会が回ってくるわけだが、残念ながら私は聴きに行けずに苦汁を飲んだ。
次にいつ演奏されるものかと思い待ち焦がれた3番。
それがとうとうやってきてしまった。
これは公言していることだけれど、私はラフマニノフの3番が苦手だ。
何回か動画を漁っては、途中で聴くのをやめてしまうのを繰り返し、
何がそんなに素晴らしいのか、すごいのかをずっと図りかねたまま過ごし、ようやく最後まで聴き通すことができたのが、藤田真央氏の演奏だった。
といっても実演ではないのだが。
理由はいくつかある。
一番の理由は、超絶技巧、超難度の曲であるがゆえに、展開を捉えきれず、途中でわからなくなってしまうことにあって、上記の演奏を聴いて以降、なんとなくその展開を薄く捉えられるようになってから、少しずつ聴く機会を増やした。
とはいえ、一度ついてしまった苦手意識はなかなかなくならない。
結局、今日までに実演で聴いたのは2回のみ。それも昨年まとめて2回聴いただけだ。
それからいくつかの音源や動画を見てみたが、やはり捉えるのが難しく、難儀していた。
おそらく、聴きどころのポイントになるのは2つだろう。
・1楽章カデンツァを大カデンツァで弾くのか、小カデンツァを弾くのか
・アタッカで迎える3楽章をどのスピードで展開するのか
もちろんそれだけではないという反論はごもっともであり、ラフ3を苦手とする私から見たポイントであって万人にとってそうだとは言わない。
だが、確実に聴衆の意識が集中するもしくは着目しやすいポイントなのではないだろうか。
これとて私には捉えるのが難しい。
楽譜が読めない私にとっては基本的に耳が頼りで、1楽章のカデンツァなどは大・小カデンツァの違いがまず判らない。そしてカデンツァがいつから始まるのかすらなかなか捉えられずにいた。
今回、せっかく務川慧悟その人が弾くのに、わけわからなかったなんて悲しい聴き方は当然できない。
それゆえにかなり予習には気を使った。
いろいろ教えていただいたりしたフォロワー様方には感謝しかないが、なんとか上記2つのポイントは捉えられるようになっての当日である。
さて、前置きが長くなってしまった。相変わらず前提条件の説明が長い私である。
ラフマニノフが初めてのアメリカツアーに向けて作曲したいわば野心作の1つといえるかもしれないこの曲が、船旅の間にかかれ、かなりギリギリに仕上げられたというのは、実は結構最近知った。
それで、この超絶技巧、オーケストレーション、ピアノとオーケストラの掛け合いを作り出すというのはとんでもないことだと思う。
出だし、オーケストラの少し不穏さのあるパッセージから始まり、ピアノがスタートする。
この時点でオーケストラとピアノは濃密に絡みあう。
いつも通り、出だしからいつもの御仁である。
冷静かつ丁寧に展開していくピアノ、少し焦燥感のあるパッセージが続く。
そこにあって、きらめくようなピアノ、ロシアらしい濃密で甘さのあるオーケストラ。これは解説に引っ張られていることは承知の上で、ある種、船旅を思わせるような揺蕩いを見せる。
それにしても、本当にラフマニノフを弾く時のこの御仁の色気はいったいどこから出ているのか。いつもながら恐ろしい。
そして、シティ・フィル×Mo.藤岡氏の演奏も見事というしかない。
そうして濃密に絡み合いながら曲は、1楽章の第1の山場へと向かっていく。焦燥感を煽りながら、少しずつしかし着実に上り詰めていく。
緊張感が最高潮に達したとき、オケとピアノが決壊する。
そして気が付くのだ、今日の御仁の気合の入り方を。あの緊張感と異様な空気を。先の展開を予感させる片鱗。
一度上り詰めても決壊しきらず、またたおやかな海へと戻っていく。
さざ波のように、そうしてカデンツァへ誘われていく。
御仁はどちらを選択するのか。
正直、どちらを弾いてもおかしくはなかった。
そして、奏されたのは大カデンツァだった。
大小カデンツァはどちらにしろ演奏する難易度が高いのは変わらない。
しかし、あの御仁の技術があって大カデンツァを弾くのだ、我々聴衆が無事でいられるはずもない。
痺れるような空気、こちらの呼吸を制限するような緊張感。
こういう演奏をさせたときのあの御仁から立ち上る異様さは、ファンであるならば誰もが理解している。
理解していてもこちらは金縛りだ。
そうして、鐘を思わせるパッセージの音の恐ろしいほどの美しさ、カデンツァの終わりにならされるきらきらとした音質。
まるで織られた帯が端から紐解かれていくように滑らかに変わっていく。
そうして、我々が滅多打ちにあった先で、美しく受け継がれるフルートの音色。これほどの官能的瞬間はそうそうあるものでもない。
そこから始まる木管楽器の展開。そうして少しずつ緊張が解かれる。
息をついた瞬間だった。
曲は再度、ピアノのみに。
こんなことがあるだろうか。
カデンツァを終えたばかりだ。
あの異様とも思える空気が終わったと思えば、このカデンツァの先で、あれほど、丁寧にこの部分を弾くピアニストがどれだけいるだろう。
まるで大カデンツァがついでとでも言えそうなほど、この部分を本気で演奏しているピアニストが。
もちろんいないとは言わない。どの演奏家であろうとも、いつだって手抜かりできるほど、この曲は優しくない。
そんなことはわかっている。
それでも、言わずにはおれない。
気を抜いた瞬間にこれほどの本気を魅せられて、涙をらえる方が難しい。
こんなに聴かせる演奏を、泣かせる演奏をする音源を私は知らない。
あまりにも優しく、あまりにも美しい。
緩急などというありきたりな言葉は使いたくない。
本当に、どれだけ語彙を総動員しても、この瞬間の幸福を言い表す的確な言葉を思いつけない。
動揺しているうちに1楽章冒頭へと回帰し、幕を閉じていく。
驚くべきことに、まだ、1楽章である。
2楽章。一般的な展開であれば緩徐楽章である。
しかし、この協奏曲はただの緩徐楽章では終わらない。
たおやかに展開するオーケストラ。
それにしてもシティ・フィルさん…音が素晴らしすぎるな…(今更)
そこにピアノが再開する。
常日頃から思う。
務川慧悟その人は、いったいどこまで音を丁寧に扱うのだろう。
1楽章、荒々しくあっても決してないがしろにされない1音。
そして2楽章。1音1音奏でられる、どこを切り取っても美しく、涙が出る。
そうこうしているうちにまたもや波は荒立つ。
左手の上降音の響き、またも打ち鳴らされる鐘の音。
その先に切なくも美しい旋律。
どうしてこんなにも泣きたくなるのか。
毎度毎度、自分でもどうかしていると思う。
でも、本当に幸福だと思う。
出会えたことに感謝してしまう。
時に美しく、時に恐ろしいこのピアニストに。
展開していくワルツ。
ここでも発揮される音への尊敬。
決して見逃されることのないスタッカートやアクセントへのこだわり。
おそらく、ファンの中で共通言語ともいえる気がするが、この御仁の演奏を1度聴いてしまえば、他の奏者の演奏では満足できなくなる。
きっとこれが理由だろう。
見逃されてしまうかもしれない1音へのこだわり。
今回、チケットを取るのが遅かったこともあるけれど、上手を陣取って演奏を聴いた。
上手であることの最大のメリットはピアノの音を最高のバランスで聴くことができる。
手元という視覚的メリットを犠牲にすることになるが、それでも一定の価値がある。
オーケストラの音に埋もれることなく、しっかりとどのように演奏しているかを捉えることができる。
そして、今まで知らなかったその音楽の形を見つけることができる。
楽譜を読むことのできる人からすれば、もしかしたら、今更になるのかもしれない。でも、その1音へのこだわりと解釈は当然奏者により変わる。
だからこそ、おそらく楽譜を読める人の方がその本当の価値がより明確に分かるのではないだろうか。
クラシックにおける楽譜に書かれる1音1音にはすべて意味がある。
それは通説的に語られる言葉だが、それをここまで見える形で再現する人間がいったいどれだけいるのだろう。
クラシックを真剣に聴き始めて日の浅い人間が言えることではないのはわかっている。それでも、着実に評価を積み重ね続ける目の前のピアニストがそれを証明している気がする。
本人がいつかのMCでも言っていたが、演奏家というものはある意味、不完全なまま本番に臨まなければならない。その意味するところを言葉のまま受け取るとするならばその通りなのだろう。
常に研鑽を続ける、芸術を生業にする者たちは、当然日々変化していく。
そういう意味では、常に不完全。しかし、人間とはそういうものだし、当たり前といえば当たり前。
しかし、この御仁が言うと少々意味が異なる気がする。
常に自分の理想とする音にこだわり続ける。
完璧主義、ともまた少しニュアンスの異なる完璧さ。
己の納得のいく音を追求する。その音を奏でるために必要な知識、自分の体・指先をコントロールする肉体づくり、想定されるすべてにおいて、納得がいくまでこだわり続ける。
これこそがこの御仁の恐ろしいところだと私は思っている。
それは終わりのない作業。しかし、だからこそ、それが本人が納得する形、理想に近い形になったとき、驚くほどの説得力と確信になって我々の前に並べられていく。
そうして、並べられた音から発せられる今まで聴き古されてきた音楽表現にまた新しい輪郭、正しい輪郭を与えていく。
これに気が付いた時の衝撃を的確に言い表すことができない。
千差万別の音楽表現の中にあって、目新しいという意味ではなく、発見をもたらす、それが務川慧悟である。それが日を追うごとにこれまた確信に変わっていく。
そんなことを考えているうちに、2楽章は終盤へ。
またもやオーケストラが美しくラフマニノフらしい旋律を奏でる。
そしてやってくる。
ピアノが高らかに奏でた先を。
さて、3楽章である。
先に述べたポイントを覚えているだろうか(誰だお前)
3楽章に入り、ピアノがトップスピードで駆け抜け始める。
ここの爽快感を楽しみにしている聴衆は多いのではないだろうか。
本当に恐ろしいスピード、さらにこの速度にオーケストラがポイントポイントでパッセージを合わせるという難易度。
真面目にここずれること多いと思うし、というか合わせるとか真面目に無理ゲーでは…
と思うもののそこがかみ合ってしまった!!!
そしてさらにスピードが上がっていく。
ここの緊張感。しかし、血のたぎるような興奮。
ラフマニノフといえばというパッセージが続いていく。
突っ走り続けるオケとピアノ。
スピードが上がっていても、そこに音への妥協はない。また独自の解釈に基づく旋律の立体構造を浮き彫りにする。同じようなパッセージであろうとも、その楽譜に表記されているであろう正しい形を追う姿。
しかしそのまま突っ走らないのがラフマニノフである。
華麗にダンスを踊るように技巧のピアノが煌めきを讃えて舞っている。
それにしてもラフマニノフやっぱり鐘好きだよなぁ………彼にとってロシア正教会の鐘とはどんな存在なのだろうか。そんなことを頭の端で思う。
これは主観の話。
そしてまた濃密で美しい叙情の時間だ。超絶技巧の間に挟まるこのある意味オアシスのような場所。
きっとここにこそラフマニノフにとって重要な何かがありますよ。と言われている気分になる。
派手さに目が向きがちなこの曲ではあるが、そうではない部分に血を通わせていく。
曲がただ派手ではない血の通った、1人の人間が作った協奏の歌であることを知らせてくれる。
そしてさらにスピードが増していく。
このスリル…………やはり実演はこれだから困る。
否が応でも会場全体のボルテージは駆け上っていく。
じりじりと時に後退しながら、しかし着実に上り詰める。登り詰めた先で、歓喜の鐘が鳴る。
最終コーナーである。
和音というものそのすべての音が決して蔑ろにされない鐘の音。あれほどオーケストラすらffで鳴っていてもかき消えない強靭な打鍵。
しかしその音に濁りは感じられない。
無闇矢鱈にかき鳴らしているわけではないのだ。
さぁ終わってしまうぞ。
全ての人を連れてどこまでも行けてしまうような気になる。
終わらないでほしい。
けれど、階段を駆け上った先で鳴らされるラフマニノフ終止。
しかし、誰も急ぐことなくその最後の最後まで余韻を楽しんでいた。
あっという間に終わってしまった。
結局こちらは終わりに号泣していた。
正確にいえば、1楽章カデンツァ後からずっと泣いて止まって泣いてを繰り返した。
ラフマニノフ終止を聴いてしまった瞬間にもう終わったのかと悲しくて泣いた。
アンコールはこれまたラフマニノフ楽響の時3番。
かなり久しぶりだったために不意打ちを食う。
あれほどの大曲を弾き切った後にも関わらず、結局この御仁はこちらでもなにも音を蔑ろにすることなく、奏していく。
少し落ち着いてからおかえりください。という言葉が聞こえてきそうだ。
少々気配にはまだ早い、枯葉の音。
秋を思わせる哀愁の3番をここでチョイスするセンス。
ボロボロのこちらにまだ追い打ちをかけますか………(黙りなさい)
それにしても、本当にこの御仁体力がついたなと思う。
コンクール前、プロコフィエフPコン2番2台ピアノ版を演奏される機会に遭遇した。
そのときの御仁は弾き終わりにぐったりとするほど消耗していた。あの時から少し時間が経って、今である。
今ではむしろ余裕そうにすら映る。
本当に進むスピードが速い人だ。
だからこそ、またこの協奏曲を聴ける日が来ると確信する。
この何も蔑ろにできない優しい人の音楽は、きっとどこまでも磨かれ続ける。
そして、その頃には、この人の音楽に価値を見出す人はもっと増えていることだろう。
1音1音に決して妥協せず、積み重ね続けるように、きっとこの先も実績と評価は積み上がり続ける。
それから後半についても記載しなくては失礼というもの。
後半ホルスト「惑星」なにげ実演が初めてだったのですが、これもまた素晴らしかった…
藤岡さんもおっしゃっておいででしたが、あまりにも有名な火星木星この熱もすばらしかったですが、それ以外の惑星達の表現も見事すぎた……
藤岡さんとも息ぴったり、ミューザ川崎かなり大きいホールかなと思いますが、隅々まで行き届くパワーと響き!
タイトルに引っ張られすぎなのは理解していても気分は宇宙旅行。様々な性質の惑星……
本当に素晴らしかったです。
ラフ3での見事すぎる並走も合わせてブラボーでございました。
ありがとうシティ・フィル…………
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はい。みなさんいつも通り長いですね!
最後までお読みいただきありがとうございました!
相変わらずクソデカ感情がずっと止まらないんですよねー残念ながら………
我ながら落ち着く様子が見えないので、怖くなってきました……….……….
というわけで、ようやく務川さんの弾くラフ3を聴くことができました。
これが…務川慧悟のラフ3………
本当に相変わらず、山の構築の仕方がエグすぎません???????
しかも楽響の時でせっかくしっぽり締まったのに!!!拍手が鳴り止まないからって!!!!ピアノの蓋パタリと閉じて、ブロムシュテットよろしくおててを胸へ………出来過ぎです……………
ちょっと照れちゃってまーーーーーーー(黙れ)
困りました…………本当にどこまでいってもファン泣かせな人ですね!!!!!(血涙)
でもやっぱり演奏を聴きにくれば、うっっっわ!こんなところにこんな素敵なものが!!!!?????をいつだって提供してくれるのが務川慧悟その人ですので、ほんとこれからも着いていきますはい…………
さて、8月とうとうソロリサイタルツアーが幕開けですね!私はサントリーホールのみ参加です☝️
テーマは「死」
またずいぶんと哲学的なテーマを寄越してこられました。
きっとリサイタルも哲学と発見に満ちたものになること必至です。
楽しみにしましょう!!
いや!震えて待ちましょう!!!!