音という美術品
だいぶご無沙汰になってしまいました。
みなさんこんばんは。いかがお過ごしでしょうか。
ちょっと時間が経ってしまいましたが、リハビリがてら書いてみようと思った次第です。
先日はこちらに
はい。
もちろんこのお方。務川慧悟さん日本製鉄音楽賞受賞記念コンサートです!!
実を申せば、チケットの発売日をすっかり勘違いしており、絶望していたのですが、とある女神様により参加することができました………
もう本当にありがとうございます……
一生頭上がりませんよ……
ありがたいことです。
しかもホールに入ってみれば
??????????????
ピアノが2台ありますね(隠れたところにもう1台あって、髙木社長が調律中でした)
動揺が隠せない………
見た瞬間古いピアノなのはわかり、あれ?プレイエル????と思いつつ自信がなかったのですが、プログラムの中身を見て、プレイエル!!!!!
しかも、私プレイエルの実演は聴いたことがなく、まさかまさかの初実演を聞くのが務川さんの演奏になるというミラクルでした………
神よ!!!!!!!!!
いったいなんの褒美なのかと…………
もう本当にチケットお譲りくださった女神様に感謝です🫨🫨🫨🫨🫨🫨🫨🫨🫨🫨🫨🫨🫨🫨
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さて興奮のあまり前置きが長くなってしまった。
構成は前編に同受賞のタカギクラヴィーア社長、
髙木 裕氏へのインタビュー。
詳しい内容は割愛させていただくが、こちらも大変興味深いお話の連続で、楽しませていただいた。
何より、今後の展望をお話しされる中で聴いた、
「クラシックは敷居が高いのではなく、奥が深いのだ」というお言葉は、初心者で、周りにはあまりそぐわないかもしれないといつも心のどこかで思っていた私にとって、救いの言葉であり、希望の言葉であり、自分がクラシックにのめり込んだ理由の一つはその奥深さの輝きに魅せられたからに他ならず、大変嬉しい瞬間だった。
これを聞けただけでも、あまりある幸運である。
そして後編。
いよいよ務川慧悟氏によるミニコンサートである。
1時間程度で確かにミニではあるのだが、プログラムの内容がミニではない。
モシェレス:性格的大練習曲集Op.95より第7番ト長調「優しさ」
ショパン:夜想曲第6番ト短調Op.15-3
ショパン : 舟歌Op.60
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第2番ヘ長調K.280
ガーシュウィン:3つのプレリュード
ラヴェル:夜のガスパール
en)シューマン:子供の情景 Op.17 第7曲 トロイメライ
いや…ミニとは…………………?
しかも前半3曲はプレイエル、後半3曲はスタインウェイ、アンコールはNYスタインウェイのローズウッドしかもホロヴィッツピアノである。
いや…ミニとは…………………?(2回目)
豪華である。
冒頭でも記載したが、プレイエルの実演を聴くのはこれが初めて(当然ホロヴィッツピアノも初)。
まさかこの世で1番好きなピアニストの演奏で実演が聴けるとはなんとも夢のある話だ。
髙木社長ありがとう………………
さて、残念ながら知識不足甚だしい私なので、今回は夜のガスパールの感想が中心になることをご容赦いただきたい。(おい)
前半3曲はプレイエル。そして曲はモシュレスとショパン。確かご本人も最後のトークパートでお話しだったと思うがこのピアノの製造された時期に活躍した作曲家。
モシュレスという作曲家は初めて聞いたのだが、現代ピアノで奏されてもタイトルよろしく優しく響く素敵な曲だ。ショパンもノクターン6番と舟歌である。3曲聴いてみて、説明が難しいのだが、プレイエルを弾くことを想定して組んだものであれば、納得というか、3曲とも揺蕩うように響いていくのがとても印象的だった。
特に舟歌。これは個人的に好きな曲であることが前提となるが、現代ピアノで弾くよりもより輪郭が見えた気がした。どこか冒険に出かけているような鮮やかさというか…
不思議なものだ。現代ピアノの方がダイナミクスレンジはつきやすいはずだが、プレイエル(フォルテピアノ)の方がより感情的に聞こえる気がする。
これがショパンの愛したピアノ、そしてその時代の音かと妙にタイムトリップをしたような感覚だ。
しかしそれを弾くのは2023年現在を生きるピアニストだ。
深い学びとそれを再現する度量なのか、自分の感傷なのか、両方なのかはわからないけれど、目の前にいるピアニストはいつだって変わらない。変わり続けることが変わらないというのはおかしな話かもしれないが、また1つ見たことのなかった一面を今目の前で見ている。どこまでいってもそ底の知れないお方である。
後半。見知ったスタインウェイのピアノが登場しての3曲。
モーツァルトは相変わらず語れるほどのものは持ち合わせていないので、詳しくは記載しないが、なんとも想像していたより早いテンポで進む。そしてやはり目で見た限り、本当に演奏中の感情が豊かになったなと思う。
ガーシュウィン。管弦楽法をラヴェルに師事し、ラヴェルに諭される人物。彼の作風はやはりジャズの影響が大きいと言える。1番有名なのは「Rhapsody in Blue」だろう。彼の書いた3つのプレリュードもジャズ要素満載だ。
しかし、目の前のピアニストはクラシック音楽に深くありながらジャズも弾きこなせるのは以前のカプースチンの段で承知済み。
軽やかに展開されるガーシュウィン。
あの…………いやその……ちょっとお色気がすぎませんか??????(怒られろ)
失礼。男性の色気は30代を超えると急に生成されるようになるのだろうか…………(いい加減にしろ)
ジャズのフィーリングとフランスのエスプリのフィーリングというのは割と共通するものがあるのだろうか。その土地の者でないとなかなか理解できないノリというものは確実にあって、あとはどれほど体に刷り込んだかになるものかも知れない。
そういえば、昨年12月のリサイタル以降、ジャズをたくさん聴きたがっていたことを思い出す。
もしかすると、そういったものを山のように吸収し、昇華した姿がこの演奏なのかも知れないと思う。
いや…それにしてもだな…………昇華の仕方が恐ろしい……。
言葉で表現できればよいが、それはなかなかに難しい。間の取り方、音符と音符の間にある余白、テンポ通りでありながらその中には無数の自由さが存在する。
その塩梅の取り方が素晴らしい。
これでウイスキーでも片手にあれば最高かもしれない(私は飲めんけど)
そして最後である。やはりこれを目当てにしてしまうのは少々傲慢だろうか。
夜のガスパール。
聴くのは昨年12月ぶり2回目。
あの衝撃のリサイタル回から7ヶ月ほど。
あの日の異空間とも言えるリサイタルは今でも鮮明だ。おそらく務川慧悟ファンならば忘れようにも忘れられない4日間だったであろう。
あの完璧に作り上げられ、我々観客すらも制御されたリサイタルという名の芸術作品を目の当たりにして、これが1人の人間からもたらされたということに私は戦慄した。
人間というのは不思議なもので、一度最高を味わってしまえば、同じクオリティのものでは満足できなくなるものだ。おそらく、無意識のうちに我々のハードルはあがっている。
少なくとも私にはそう感じる。自分より幾ばくか若い音楽家に期待してしまっている。
次に見せられるであろうその瞬間を。
私は期待という言葉があまり好きではない。
向ける側からすれば褒め言葉の部類だろうが、向けられる側にとってはただのプレッシャーだ。
とはいえ、プレッシャーというものは悪いものだけではないのも事実。
ただ私は相手にプレッシャーをかけられるだけのものは何も持っていないから、期待するという行為自体が不釣り合いだと思うと同時に、向ける側の勝手な都合だと思ってしまう。ここが自分の1番めんどくさいところだ。
話がいささか逸れてしまったが、複雑な気持ちを抱きつつ、それでも上回ってしまう期待で、始まる1音目を待ち望んでしまう。
沈黙。
ステージから緊張が伝播する。
そこから不思議なもので物音が後ろに遠ざかっていく。
そう。沈黙からすでに音楽は始まっているのだ。
これはたぶんお譲りいただいたおかげで前方にいたことでより如実に体感することになったのだろう。
なんという贅沢か。
そして始まるオンディーヌ。
夜のガスパールといえば、マ・メール・ロワと同時並行で制作された曲。
マルグリット・ロン女史によれば、夜のガスパールは「希望のない愛、そして恐怖と悪夢の幻」(音楽之友社出版、マルグリット・ロン著 北原道彦・藤村久美子訳 「ラヴェル-回想のピアノ」より抜粋)
だと書いている。
元となっているベルトランの詩から想像しても、まさに的確な言い方だなと思う。
オンディーヌは人を誘惑する。人に恋すれど決して叶わない。水の煌めきの中に、蠱惑的な幻想を含ませて彩られる世界。
少し冷たさのある美しさ、そこにほのかに馴染む切なさ。それが音によって、まるで目の前で起こっているかのように。しかしこれはあくまで音楽。
絞首台に導かれていく。遠くで鳴り響く鐘が曲中常に付き纏う。
決して音数は多くはなく、素人の耳で聴く限り、複雑怪奇なパッセージはないように思う。しかし、この遠くに響く鐘の音や、目の前の死刑囚たちの骸、これを音で表現し、さらに目の前の立体物を音で体感させるためには相当な技術がいることは、何度も何度も何度も繰り返し聴き、ようやく音楽の良さというか、曲のほんのひとかけらを掴んだような気になった今、やっとわかるような気がした。
亡霊たちの時間がやってくる。
静かに静かに絞首台を去り、夜が来た。スカルボ。
地を這うように亡霊たちの気配。
そしてそこで時が止まる。
この時間。誰もが息を殺した。
また亡霊たちの手が我々の首に掛かっている。
おそらく誰もがこの瞬間、目の前のピアノの前に静かに座る男の指先に集中していた。
息を呑むことさえ許されない何秒とも何十分とも取れる時間。
まるでその男の指が今我々の首に掛かっている手であるかのように。
そして堰を切ったように暴れ出す亡霊たち。
これはまさしく悪夢だ。
悪夢であるにも関わらず、展開される世界には情熱を感じる。亡霊たちが踊り狂う、狂気的でありながらどこまでも美しい美術品だ。
これほどの曲を作ることが人はできるのかと相変わらず思う。ラヴェルのつくる楽曲のただの音楽ではないもの。それを理解し、目の前に構築する術を知るピアニスト。
決して見ることができないにも関わらず、眼前にさもこの世のものとは思えぬほどの美しい何かがあるように感じる感覚。
これは肌で感じる美術品だ。
これほどを味わうことができるのはきっと音楽の世界にしかない。
そうして圧倒されているうちにパッと消えていく。
本当に数分のうたた寝でもしたのかと思うほど呆気なく。
起きたら寝汗をびっしょりかいて、悪夢を見たことだけ覚えている。本物の夢と同じように。
まったく恐ろしい。恐ろしい人に出会ってしまったものだ。毎回毎回飽きることなく終わりが来ると思う。
万雷の拍手の中、涙が流れた。
この現象にいつも名前をつけられない。
側から見ればきっと気のふれた人間に映る。
それでも構わない。だって実際にそこにはあったのだから。誰が信じてくれなくても。
そんなこんなでアンコールである。
トークパートは他の人にお任せしよう(訳:毎度のことながらあんまり覚えてない)
何を弾くのか考えていて、夜のガスパールの終わりはなんとなく同じラヴェルかプログラムにもあったショパンかとぼんやり考えていたら、どうやら本人にとってもサプライズだったようだけれど、1887年製のNYスタインウェイで演奏されることに。
ローズウッドでできた艶消しのかかった暖かみのあるピアノだ。
巨匠 ホロヴィッツが愛用したことで知られるNYスタインウェイ。
MCを聴きながらホロヴィッツの名前が出たので、あぁカルメンをやるのかなーと思っていたらまさかまさかのシューマンであった。
トロイメライ。ホロヴィッツが好んでアンコールに演奏したらしい同曲を愛用していたとされるピアノで、この御仁が演奏するなんて誰が思っただろう。
シューマンは夢を描いた人だと彼は言う。
先ほどが悪夢だとするならば、トロイメライはさぞかし良い夢だろう。あれほどの緊張感のあとにこんな曲を弾かれてしまったら、わかっていても涙が出る。先ほどとは打って変わる優しさに包まれた音色。ローズウッドのピアノから奏でられる包まれるような優しさ。優しさで始まり優しさで終わるのかと想いを巡らせながら、毎度のことながらこの最後ですっかり骨抜きにされてしまう自分にほとほと呆れる。
だからこそこの御仁のリサイタルに行くのはやめられないのだ。ときに完璧な美術品としてあり、ときに包み隠された優しさをここぞとばかりに暴き立てる。人の心の柔らかさを美しさを解き放つこの御仁の力におそらく人々は惹きつけられてしまうのだ。
一度かの御仁の作る音の世界が心の琴線に引っ掛かったら最後、抜け出すことなんてできるわけもない。一度捕まれば我々に逃げ場はない。そういう力をこの目の前で優しく奏でるピアニストにはあると確信している。
音楽という目には見えない美術品。
それは掴まれたもののみが感じることを許される世界だ。
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リハビリがてらとか言いながらしっかり書きましたね。どうも長々お読みいただきありがとうございました!
5月以降すっかり更新していませんでしたが6月の長野以降真面目に演奏会自体行ってなかったのでご無沙汰しました。
冒頭でも記載しましたが、チケットを取り損ねるうつけものにチケットをお譲りくださったフォロワー様本当にありがとうございました!
改めて謝辞を。
こんな濃厚な1時間を体感できたことは本当に幸せなことでした。二度とないかもしれない貴重な日を味合わせていただきました。
最後に使われていたピアノの詳細を画像にて
実は5月下旬ごろから別件で大変のたうち回っており(いい意味で笑)、とうとう飽き性の私に飽きがきたか!!!!!?????と思いましたがまったくそんなことありませんでした!!!!
飽きるわけないですわあんなすごいリサイタル………
次は7月末ですね。
ちょっと座席があんまりなもんで書かないかもしれないです笑
書いてたら笑ってください。
気がつけばすっかり夏ですね。
昨年の夏を思い出します。
今年の夏はとんでもない暑さですが、皆様お身体に充分ご配慮ください。
ではまた。