救いの求め方

皆様いかがお過ごしでしょうか。
ご無沙汰しております。
少々ばたばたとしており久しぶりになってしまった…!
こちらが更新されます。
つまりはそういうことですね。


大賀ホールだよ

務川慧悟 ピアノ・リサイタル
軽井沢 大賀ホール

こちらですね。はい。
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先日発表された12月浜離宮ホールでの5日間連続演奏会と同プログラム。
Aプログラム・Bプログラムあるうちの今回はBプログラムでの公演。

1.シューマン:子供のためのアルバム Op.68より 第30番『無題』
2.シューマン:4つの夜曲 Op.23
3.ドビュッシー:前奏曲集 第2集より 3.酒の門、5.ヒース、10.カノープ、12.花火
4.ショパン:ノクターン 第6番 ト短調 Op.15-3
5.ショパン :  バラード 第4番 ヘ短調 Op.52
6.早坂文雄:室内のためのピアノ小品集より 第12番、第14番
7.ラフマニノフ:コレルリの主題による変奏曲 ニ短調 Op.42
en1) ラヴェル:水の戯れ
en2) ドビュッシー:亜麻色の髪の乙女

実に内省的なプログラムである。
しかし、個人的には大歓迎のプログラムであるが、これがどういった了見だろうか。
下手をすればどこからも帰ってこられないようなとてつもない空間を作り出した。

1.シューマン
今回は短いものが多いので作曲家ごとに書かせてもらいたい。
子供のためのアルバム「無題」といえば、昨年12月の記憶が新しい。
まるで夢の中へ誘うような優しい始まり。
個人的なことを言えば、プログラムの1曲目がこの曲というのはなんとも意図を図りかねるというか、なぜこの曲が1曲目なのか。と疑問を持たざるを得なかった。
相変わらず優しく、それでいてどこか現実から遠ざかるような、まさに夢の中に入っていくように奏でられる。噛み締めるように目の前で奏でられたこの曲にこちらの耳も目も釘付けになるのに時間はかからなかったのではないだろうか。
子供のために書かれているが、この曲を聴いて、ただあどけない子供が弾いているところを想像すると、なんとも言えない違和感が出るような気がしてしまうのは私の穿った見方だろうか。
そこから始まる4つの夜曲。
ご本人の解説がプログラムにあるので引用すると「シューマンの若い時代の作品の中で最も謎に満ちた作品で、弟の死に際して作曲されたというが、詳しいことはあまりわかっていない。」らしい。
各曲のタイトルよろしく、葬送行進曲の通り、重く始まり、進むにつれて、主題の形が崩れていく。最後には途切れ途切れに………
まるで、どこかに朧げになるように暗い穴の中に入っていくように…
このときふと思い至る。
このための1曲目の「無題」なのではないかと。
幸福な夢を見せているようでどこか、生きていく難しさのようなものを感じさせる無題。
曲が終わる頃にはすっかり我々の頭はどこかふわふわとしたなんとも言えない状態になる。そしてそこから葬送行進曲である。まるで酩酊した状態で葬列に参加させられているような、そんな錯覚。それは視界の端にちらつく違和感を覆い隠すように。
そうして気がついた時には全く異なる世界にいるのだ。
さて曲は進行する。奇妙な仲間に連れられ、気がつけば夜会でダンスを踊っている。
時に人というのは現実を直視することがままならないこともある。
シューマンという人はピアニストが語るように、よく言えば音楽の中に夢を見た人物。悪く言えば、夢という空想に飛び込みそこから出られなくなってしまった人物。
でも、それは誰でも起きうることで、そうすることで救われることもある。
きっとシューマンはそこに救いを求めたのだろう。
求めずにいられなかったのだろう。
目の前で奏でるピアニストの演奏を聴いているとそう感じる。
最後、独唱付きの輪唱。いったいこの曲の歌詞はどんなものなんだろうか。空想から少しだけ覚醒するように、その曲は問いかけてくる気がする。
ちゃんと踏み締めて歩くことはできるのかと。
悲しいこと、つらいこと、誰にも理解されない苦しみと恐怖。生きていれば常にそこにあるできれば関わりたくないもの。
まるで目を瞑るように終曲する。
演奏についての感想がほぼないが、残念ながら奏でられた音はすべて靄がかかったのようにおぼつかない。一つ確かであることは、奏でられた音に別のものを見た。ということである。

2.ドビュッシー
前奏曲集 第2集より抜粋されている4曲。
これがとんでもない代物だった。
先のシューマンで我々はすっかり我を失っている。(お前だけだろ多分)
そんな中にあって、第1集ではなく2集からの4曲である。
私は音楽の中に景色を、見た気がした。
ご本人の解説の如く、「白黒絵」のようにどこかくすんだ音、磨りガラス越しに見える景色。
まるでわれわれがビデオカメラもしくはカメラになった錯覚。そこに主体になる人物はいない。
展開される景色。
酒の門では、ジャズのような雰囲気を纏いつつ、なんとも言えない色気を伴い、我々の目の前に景色を見せる。
ヒースでは、どこか草原のような、曇り空に少し冷たい風が吹き抜ける。時折、雲の隙間から光がさす。
カノープでは、どこか全てが遠く感じた。これはどこだろうか。遠い日の記憶に想いを馳せる。
花火では、読んで字の如くどこかで見た花火が、どこかで見た花火?
煌めくように遡る。これは花火だろうか。

譫言のようなことを書いたが、これは全て音である。
たった1人が奏でた音楽。
かすんだ色彩、ときに恐ろしいほど繊細に、恐ろしいほどの精度で、恐ろしいほどのコントロール。
煌めいたかと思えば、どこか水底にいるようなぼやけた、輪郭の曖昧なガラス玉のように。
これを言葉で表現しろという方が酷だ。(なら書かんでええやろとは言わないで…)
一番恐ろしかったのはヒース。あの音作りは一体どうなっているのだろう。
くすんだ色合いに光が伴う。これを共存させる音作りとはいったいどういう状態なのか。
どこまでも現実とも幻ともつかない、そういう空間を音を作ってしまった。曲が終わってもまだ続きがある気がして反応が遅れる。これが現実だ。

4.ショパン
休憩を挟みショパンである。
務川慧悟が奏でるショパンの威力をファンならば知らないものはいないだろう。
そして、今日も。
ピアノに向かい奏でられるノクターン6番。
一つ一つの音を丁寧に紡ぐ。まだ休憩前の幻想が抜けきらない頭で、なんと深いショパンだろうかと思う。まるで自分と向かい合い、問いかけ合うように展開するノクターン。
優しくもあり、切なくもある。静かに見守ることしかできない。
しかしどこか、自分自身がそこに映っているかのようにそっと自らを顧みる。
そして始まるバラード4番。
これをどう表現したらいいのかわからない。ただただ涙が溢れていた。
何がそんなに悲しいのかはわからない。でも、確実に心に突き刺さった棘のようなものが深く深く刺さっていく。こんなはずではなかったとかそれはちがうとか本当はそうじゃないんだと心のどこかで叫ぶように。
自分でも何を言っているかわからないけれど、それが目の前の音と呼応するように、ただ悲しかった。
けれどそれは目の前で奏でられる演奏が全て音に乗せて引き取ってくれたような気がした。
真に迫る音の威力とはこれほどのものか。この御仁のピアノはこれほどまでに磨かれてしまったのか。
本当に恐ろしい男である。
ただ音楽を奏でているのではない。
そこには確実に音楽以外の何かが存在した。
ピアノの演奏という次元はとうに超えている。

5.早坂文雄
この曲を初めて聞いたのは紀尾井ホールだった。
室内で静かに奏でるようにあの日はひたすら静かに眺めるのみだった。
そして、今日も静かに奏でている。
頬を軽い暖かい風がかすめた気がした。
静かに座り、語り掛けるように。
第12曲、この語り掛けるように奏でられる音の美しさを表現する方法が見つからずにいる。初めて聞いた時からずっと。
からの第14曲である。
どうしてこんなにも訴えてくるのだろう。
ただ、眺めることの幸福をかみしめる。
どれだけ言葉を尽くしても、表現できない。
この御仁の音というのはどうしていつも心の芯を捉えてしまって、
何も考えられなくなるのだろう?
ただ音楽を聴いているだけ、聴いているだけなのにどうしてこんなにも救われた気持ちになるのだろう。
決して明るい曲ではないけれど、派手な曲でもないけれど、噛みしめるように、確かめるように。
音楽に言葉はない。でもそこには明確に伝えたい言葉が存在する。
それは、まだ、明確な形で受け取ることは叶わないけれど、ただ、私にとっては言葉のない言葉が、ただ、うれしいのだ。

6.ラフマニノフ
本日一番聴きたかった曲である。
おそらくコンクール以来国内では演奏されていないと思われるが(あれ?違ったかな・・・)、この曲をコンクールで聴いた時の衝撃は忘れられない。
展開される変奏の重み。コンクールという場所にありながら、彼の哲学はそのままに、ラフマニノフがロシアを離れた後に作曲されたピアノ曲を見事に仕上げていた。
個人的に変奏曲というものがとてつもなく好きでもあって、それを生演奏で聴ける喜びは計り知れない。
そして今日。構築される変奏の巨大さに圧倒される。
晩年のラフマニノフは確か、バロックの研究をしていた気がする。(ちょっと怪しい・・・)宗教的な雰囲気の中に、どこか都会的な構築。
この巨大な建造物を奏でるこの御仁のエネルギーに圧倒される。
想像を優に超える迫力。これはラフマニノフの抱える思いだったんだろうか。
変奏曲というものが好きな理由というのがあって、一つの主題をいくつもの形に変わっていく様が、道のように見える。街並みが変わっていくように、歴史をたどっているような。
そしてこの曲も同じく。
このピアニストの奏でるこの曲のすごさというのは、恐ろしいほどの気迫とコントロール。それにしても、コンクールではないからだろうか。
タガが外れているように感じる。今回のプログラムを締めくくる巨大なこの曲。締めくくりにふさわしいが、あまりの気迫。
研ぎ澄まされ。
鋭く。
しかし、時に祈りのように。
本当に恐ろしいお方だ。

気が付けば終わってしまっていた。
終わった後、声を出して泣きたかった。
言葉はない。
しかしすべての心を拾ってもらったような。
そしてアンコールである。
アンコール2曲の間にMCがあった。
残念ながらぼろぼろの状態だったため、かいつまんでになってしまうことは
了承してほしい。
まず、今回のプログラムについて。
本人の書いてくださっているプログラムの解説にもあるが、「内向的」なプログラムであると。
作曲家たちが自分たちのために書いたような曲があって、御仁自身も自分自身のために演奏し、何度も支えられた経験があるという。
この時、泣き出したい気持ちの理由を明確に自覚できた。
このプログラムに私は救われたのだと。
何がどう救われたのか、その理由を明確に述べることができないのだが、
ただただ、泣きすがりたくなったのだ。
私は神という存在を信じていない。でも信仰というものはこういうことを言うのかもしれない。
勧誘を受けたわけではないし、そもそも宗教ではない。
しかし、本来の信仰とは、こういうことなのかもしれない。
神様は信じられなくても、この御仁が奏でる音楽は、音は信じられる。
きっと無条件で。
ほかの何が信じられなくても、この人の奏でる音楽は信じられる。
きっと、今後何度も救われるのだろう。
優しいという言葉すらチープだ。
何かを伝えるという作業は、とてつもなく難しい。
言葉をいくら介しても、人により受け取り方は当然違う。
これは音楽でも同じことだと思う。
中には御仁の演奏が刺さらない人もいるだろう。
しかし、私には刺さった。自然に。
もちろん受け取ったものが正しいとは限らないけれど、少なくとも、支えられてきたと語った御仁の通り、今の私を支えているのは、間違いなくこの御仁の演奏である。

誰かを救うということは、意図してできるものでもない。
でも何かをきっかけにして、触れたものが救いになることは得てして多い。
不思議なものだ。

最後に奏でられたアンコールの亜麻色の髪の乙女。
MCでもおっしゃっておいでだったが、大賀ホールというのは印象派の音楽がよく映える。
本当に恐ろしくなるほど美しく、そして、空間すべてに情景が広がるように音が隅々まで広がっていく。
この空間にいられた幸せをよく噛みしめる。
たくさんのありがとうと一緒に。

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さてさて、本日も長くなりましね。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
支離滅裂!!!!笑
ひとまず言えることは、とてつもない破壊力でしたということです!!!!
(うるせぇ)
実は少し前から思っていたけれど・・・・
今回のプログラム構成、12月の5日間連続演奏会まで続くプログラムのBプロ初日だったそうで。
プログラム初日の出力の様子が・・・いつもおかしい気がするんですよ!!!
次の時には、抑えられたりすることも多く、初日にしか味わえない部分ではあるので、かなり貴重ではありますが、出力がえげつなすぎて・・・
最高です・・・・・・・・・・・・・(エヘ・・・)

さて、本日の演奏を聴いて確信したのは、きっと一生この方の演奏に救われ続けるのだろうなということでした。
本当に出会えてよかった。

さて12月まで続くこの2プログラム一体どう展開されていくのだろうか・・・
皆様は5日連続演奏会までに何回お聞きになるのでしょうか。
最後まで楽しみですね!