内にあるもの

はーい皆さんAプロの記事を書いている間にリサイタル終了から1週間経過してしまいました!
いかがお過ごしですか?
こちらはまったく帰ってきてませんね!
HaHaHa!いったいどうなっているんだね???
すみません。謎の深夜テンションを発揮しちまいました・・・
というわけで後半です。
Bプロおおお!!!

◆Bプログラム
シューマン:子供のためのアルバム Op.68より第30番『無題』
シューマン:4つの夜曲 Op.23
ドビュッシー:前奏曲集第2集より 3.酒の門 5.ヒース 10.カノープ 12.花火
ショパン:ノクターン第6番 ト短調 Op.15-3
ショパン:バラード第4番 ヘ短調 Op.52
早坂文雄:室内のためのピアノ小品集より第12番、第14番
ラフマニノフ:コレルリの主題による変奏曲 ニ短調 Op.42
◆アンコール
day3
J.S.バッハ:フランス組曲第5番より アルマンド
ラヴェル:クープランの墓より メヌエット
day4
ショパン:ノクターン第20番 嬰ハ短調(遺作)
シューマン:子供の情景 Op.15より トロイメライ

3日目のアンコール
4日目アンコール


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Bプロである。
初めてこのプログラムを聴いたのは、10/21軽井沢大賀ホールで行われたリサイタルである。
そして、そのリサイタルのプログラムにはこのように記載されている。
「内向の演奏会」であると。
自らを省みる作業というのは、時として残酷なほど己を傷つける。
しかし、人というものは己の気持ちと向き合わなければならない。
目をそらし続けることで、一時の安らぎを得られるかもしれない。
しかし、いつかどこかでは向き合わなければならない。
学生の時分、悲しみと向き合う「喪の仕事」というのは、大切である。
と、何かのレポートを書くために読んだ本に記されていた。
もう、いったいどの本だったのかも思い出せないが、その言葉だけは忘れられずにいる。
要は、悲しみ、苦しみを存分に味わい、向き合い、消化する作業が人には必要だという話だ。
しかし、向き合うことでより不幸になることもある。
それは自分自身がよく知っている。
10/21のリサイタルのプログラムには、さらにこうも記されている。
「例えば自分が落ち込んだ時、苦しい時に、決して華やかではないけれどそんな感情に静かに寄り添ってくれたり、若しくはそんな感情をより切々と感じさせてくれる作品がこの世界には多々あって、そんな作品を僕自身、自宅で自分のために弾く/聴くことで、救われる・・・という経験を数多くしてきました」と。
生涯のうち、楽しいことと苦しいことは半々というが、私は苦しいことの方が多い気がしている。
誰もが何かしらに折り合いをつけて、しかし時折現れる何かを拠り所にして、長い人生を生きるものなのではないか。
それは才あるものも、ないものも等しく同じかもしれない。
さて、相変わらず前置きが長い。
10月初めて聞いたこのプログラムの衝撃を忘れられずにいた。
だから、Aプロが務川慧悟その人の本来やりたいであろう音楽の自由度を示していたとしたら、Bプロはその人の内への招待なのではないだろうか。

◆シューマン:子供のためのアルバム Op.68より第30番『無題』
シューマンといえば「夢」と御仁は語る。
あまりにも優しく、あまりにも儚い。
これが1曲目である。
夢の中へいざなうように、奏でられるこの曲に、誰もが引き込まれてしまうだろう。
本当に恐ろしい。
Bプロ1日目は1階席。
ありがたいことにかなり前方にいたこともあるかもしれないが、そこから休憩まで、本気で夢を見ているような気分だった。
3分少々の曲。
これはあくまで始まり。
「夢」の始まり。

◆シューマン:4つの夜曲 Op.23
夢うつつのまま始まる4つの夜曲。
シューマンの弟の死に際して作曲された謎に包まれた作品である。
と御仁は語る。
薄暗くも、どこか不思議と軽やかなリズムから始まる。
このアンバランスさはシューマンの特徴の一つかもしれない。
そして、このなんとも奇妙なバランスを目の前でピアノを奏でる御仁は、本当に丁寧に紡いでいく。
それに引っ張られるように、こちらも打ち沈んでいく。
1曲目には削除されているとはいえ「葬列」というタイトルが付されていた。
弟の死を悼み作曲されたようであるので、間違いはない。
しかし、どこかふわふわと足元がおぼつかないのは気のせいだろうか。
曲が進むにつれてふわふわと別の世界に進んでいくような気がする。
音色の暖かさ、音運びの丁寧さすら、少々不気味に思えてくるほどに。
それでも目の前の御仁の集中し切った表情を見るたびに、そんなことは杞憂なのではないかと思わされる。
そうして気が付けば、こちらも音楽に没頭している。
2曲目:奇妙な仲間、3曲目:夜の宴と続いていく。
現実をどんどん忘れていく。
演奏を聴いている間の記憶がおぼろげだ。
しかし、その耳には、肌にはしっかりと温かさが残っている。
2・3曲目のまるで緩やかに踊るように流れる時間。
その時間のやさしさが残っている。
シューマンは音楽の中に夢を見る。
夢を見るのが作曲家ならば、夢へいざなうのは奏でる演奏家の役目なのかもしれない。
だとするならば、このピアニストの表現はそれを見事に実現している。
楽しげな夢を我々は見ている。
そして、4曲目:独唱付きの輪唱へと至る。
物憂げな和音が奏でられ始まる4曲目。
4日目の出来事だった。
2階席に私はいた。
1階にいたときには気が付かなかったのだが、その4曲目に到達したとき、
それはあまりにも暖かだった。
あまりにも、優しかった。
自分でも驚いたのだが、そのときふいに隣に御仁がいる気がした。
背中に手をそっと添えられた気がした。
錯覚であることはわかっている。
個人的なことだが、ここのところままならないことが続いた。
決して解決しない課題。
どうあがいても、受け入れるしかない事実。
そういったものが積もっていた。
それでも、なんとか凌いでいるつもりだった。
大丈夫なつもりだった。
しかし、4曲目が進むにつれて、自分があまりにもほっとしたことに気が付いた。
そう。ほっとしたのだ。
自分が随分と張りつめていたことに気が付いた。
気が付いてしまった。
寄り添うとは存外難しい。
同情でもなく、共感でもなく、ただ、寄り添う。
結局のところ、何を選ぶかは本人だ。
誰かに寄り添うというのは、肯定も否定もしないことだと思う。
ただ、そこにいる。
でもそれはかなり難しい。
人である以上、何か言葉をかけたくなるのが人間というものだ。
それは、助言であったり、肯定であったり、さまざまだ。
しかし、寄り添うということはそういうことではない気がする。
そして、そうかと思う。
そんな時、こういう曲を必要とするのかもしれない。
何かままならないことが起きたとき、それを受け入れるために、諦めるために、こういう音楽は必要なのかもしれない。
シューマンはどうだったのだろうか。
弟の死を受け止めることはできたのだろうか。
諦めることはできたのだろうか。
どうして、こんなにもままならないのだろうか。
そう思ったころには、涙が出ていた。
静かに。
自分でも驚いた。
こんなにも、音楽を通して、人に寄り添うことができるものなんだろうか。
いやこれはきっと、自分をピアニストに投影しているだけだろう。
そう思いたかっただけだろう。
しかし、まるで、自分のために紡がれているような、自分の代わりに大事にしてもらっているような、そんな気分だった。
自分では見えぬふりをした何かを。
そうして、静かに静かにやさしさが降り積もっていく。
そうして、静かに幕は閉じる。

◆ドビュッシー:前奏曲集第2集より 3.酒の門 5.ヒース 10.カノープ 12.花火
前々回の記事でも示した通り、この音楽に主体となる存在はいない。
ただ、風景を切り取ったような前奏曲である。
そして、少しジャズのような音で始まる酒の門。
さきほどのシューマンですっかり気を抜いていた。
ただ、そこに提示される風景を眺めていた。
しかし、これまたヒースに到達したときだった。
これまた錯覚である。
まるでただ黙って二人で並び、同じ景色を眺めているような気分だった。
奏でられる音の美しさなど以前からわかりきっている。
これほどまでに多彩な音がもはや音というより風景として見えるような錯覚。
そして、そこに寄り添うように御仁がいる。
静かに音を奏でながら自ら風景を作り出す。
カノープ、花火と続いていく。
その風景の美しさを言葉で伝えられたいいなと思うが、やはり言葉では伝えられない。
会場にいたすべての人はどう感じただろうか。
この美しい景色をきっと忘れられない。
ただ、安心してその場にまどろむようにたたずむことのできる幸福。
きっと、このお方のやさしさがこの空間を作るのだろう。
なんと素晴らしい才能だろう。
以前のプログラムにこう記されていた。
作曲家自身彼らの為に書いたかもしれない曲たち
「大勢の人前で弾くことの難しさはもちろん感じますが、それでも皆様と何かしら世界を共有できるかもしれない・・・その試みを、今日はしてみたく思います。」
それはきっと今回の5日間連続演奏会にもそのまま適用されているのだろう。
これはきっと成功している。
本人がどう考えているかはさておき、少なくとも私のこの錯覚はこの物静かなピアニストのおかげで起きている。
どなたかが、まるで務川慧悟その人の自宅に招かれて、演奏会を聴いている気分だと書いておられた。
そういえば、何日目かのトークタイムで(いつだったか覚えていないポンコツ)、自宅で自分のために弾いているそのままを会場でも披露したいと言っていた。
そして、5日間毎日会場に通い、この演奏会の曲のみを考えている。
日を追うごとに浄化されていくような気持ちになるとも。
きっと、観客も同じ心持かもしれない。
少なくとも私は、通ううちに雑念が少しずつ消えていった。
きっと、お互いに同じものを見つめている瞬間だったのではないだろうか。
もちろん、私のように5日間通い続けられた人だけではないだろう。
それでも、この演奏会1日しか訪れられなかった人だったとしても、
そこを目指して、日々の生活を乗り切った人だっているはずだ。
それはなんと美しいことだろう。
そこに集まるすべての人が、その場所で生まれる何かを思い、慈しみ、尊ぶ。
そんなことができることなんて、きっとそうそうあることではない奇跡だ。
そして、この奇跡はそれだけではなかった。

◆ショパン:ノクターン第6番 ト短調 Op.15-3
◆ショパン:バラード第4番 ヘ短調 Op.52
◆早坂文雄:室内のためのピアノ小品集より第12番、第14番
4曲まとめさせてもらうことにする。
休憩が終わり、この4曲がスタートする。
ここからが、本当に瞬殺で過ぎてしまう。
休憩を挟もうとも、御仁も観客も決して集中力が途切れることはない。
ショパン。この御仁が演奏するショパンの素晴らしさは語らずとも伝わる。
務川慧悟という人は、ショパンという作曲家との親和性が非常に高い。
そして、今回の2曲のこちらも心に寄り添うということをただただ、そこに体現する2曲といっても差し支えないかもしれない。
想いを馳せるようなノクターン6番。
そして、嘆きのようなバラード4番。
バラード4番はYouTubeに御仁の演奏がアップされている。
この時点での完成度は言うまでもないが、さらに磨きのかかったものが
提供されているのは自明だ。
そして御仁のいう「気持ちを切々と感じさせてくれる作品」というのは、
きっとこういう曲をいうのだろう。
美しく、儚く、悲しく、懇々と歌われるショパン。
心に突き刺さる音楽。
そして、早坂文雄である。
プログラムに書かれた解説に、早坂文雄本人の作曲ノートの引用が記されている。
「室内で誰に聴かせるのでもなく弾いて自らが楽しむといつたもの、このやうなありかたは至極日本的だと思うのである。」「きつとかういふものは多くの人々が愛してくれていつまでもいつまでも孤独な月の夜に、また雨の日やよく晴れた朝にも弾いてくれるであらう」
今回のプログラムにうってつけである。
そして、この曲を聴いているときである。
すっかり気を抜いていた私は、その時起きていた奇跡を見逃していた。
ふいに14番が奏でられ始めたときである。
御仁の指がふいに鍵盤から離れる。
その刹那、音が消えたのである。
手が離れているのだから当然。と思われるかもしれない。
しかし、会場には観客がいる。
そして、必ずしも静寂は静寂にはならない。
人々が出す音は声だけではない。
服の擦れる音、プログラムをめくる音、荷物がきしむ音・・・
人とは存外多くの音を発するものだ。
しかし、音が消えるのである。
誰もが細心の注意を払っていた。
無音を無音にするために。
この繊細な空間は微細な音ですら増幅してしまうことを知っている。
ピアニストだけではない。観客もよく知っているのだ。
まるで、ピアニストではなく、指揮者だった。
ピアニストの動きに合わせて皆、静寂を作る。
そして、影響の少ない箇所で皆動き始める。
全員が、御仁の動きに集中していた。
これほどのことが、起きた。
起きてしまった。
それほどまでに、コンサートホールという空間はすべての人が作り上げる世界に変わってしまっていた。
もしかすると、私の勘違いかもしれない。
でも、明らかに隣にいる名前も知らない人の緊張が、集中が伝わってきていた。
少なくとも、私にはそう思えてならなかった。
これほどの奇跡にはなかなかお目にかかれない。
互いが互いのために。
言葉のないコミュニケーションが成立する。
この空間の素晴らしさを分かってくれる人はいるだろうか。
この感動が伝わるだろうか。
そして、その時に思い知った。
言葉に疲れていたのだと。
もしかすると憑かれていた。といってもいいのかもしれない。
人間は言葉によるコミュニケーションが主体の生き物だ。
誰かの感情を推し量るのに、言葉がなければ立ち行かなくなることはままある。
しかし、言葉というのは誤解も生んでしまう。
細心の注意を払って放った言葉も、時に誰かにとっての凶器になりうる。
言葉とはそれほどに恐ろしい。
言葉とは人間の持つ最大の凶器だ。
時に、重火器やナイフよりもずっと殺傷力が高い代物だ。
悪意、憎悪、嫉妬・・・そういったものではなくても、そんなつもりもなく使った言葉でも、時に人を死に追いやることも可能なもの。
だからこそ、私は言葉が怖い。
時に感情に任せて使ってしまうこともある。
なるべく、そういったことがないようにしている。
しかし、自分がそうであるからと言って、他人も同じであるとは限らないのが現実だ。
自分だってあるのだから当然である。
そして、ままならないことが重なり、さらに言葉が刺さった。
それでも、なんとかやり過ごしているつもりだった。
ここでも気づかされることになったのである。
発する本人は傷つける意図はないだろう。
それでも、突き刺さってしまった。
だからこそ、今ここで明確に自覚するに至ったわけである。
そんな中にあって、決して言葉を交わすことなく、ある種コミュニケーションが成立するこの瞬間にどれほど救われたであろうか。
そんなこともあるのか。と心底驚いたし、貴重だった。
こんなことは初めてかもしれない。
人を、他人をこれほど自然に、この空間にいる人々は皆仲良くなれるのかもしれないと思ったのは。
本当に、このピアニストの才能とはとんでもないしろものだ。
何度言い尽くしても、何度でも言葉として出てしまう。
これほどの経験はそうそうできるものではない。
そして、自宅で奏でる音楽をそのまま会場に持ってくるというのは、演奏家自身としてはどうなんだろうか。
怖くはないのだろうか。
私は人に対して心を晒すことに恐怖してしまう。
何段階も防火扉を持っている。
ゆえに、いくつか目かの扉で引っ掛かり、最初の扉に戻してしまうこともある。
そのくらい、私にとっては自分自身を晒すということに際して、慎重になってしまう。
だから、この御仁は怖くないのだろうか。と思ってしまう。
怖いのかもしれないが、それ以上に好奇心が勝るのだろうか。
それとも、得られるものがある確信があるということなのだろうか。
どちらにせよ、そうしてくれたことによって今の私につながるわけで、
本当にありがたいことだ。

◆ラフマニノフ:コレルリの主題による変奏曲 ニ短調 Op.42
ラフマニノフである。
ロシアからの亡命後に書かれた数少ない作品。
そして、2021年のコンクール以降、ずっとその動画を見続けていた。
それを実際に聴くことができた軽井沢。
そして、今回である。
静かに始まるコレルリ。
そこから巨大な建造物を構築するように展開していく。
そして、今回のプログラム最終曲にあっても決して途切れない集中力。
丁寧に運ばれる指にこちらの集中も途切れず続く。
様々に奏でられる変奏。
積み重なる変奏の中にやさしさも頑強さも垣間見える。
このありとあらゆる変奏が、ラフマニノフらしさもあり、アメリカに渡ったことで得たであろう都会的な雰囲気が私は好きだ。
構築された建物がどんどん大きくなる。
頂点に到達するころの低音を打ち鳴らす瞬間。
すべての感情が乗るように鳴らされる。
それでも最後に向かう道には構築した建物は崩れ去ってしまう。
御仁のプログラムに記載されている「虚無」という表現がしっくりくると私は思う。

こうして、3・4日目もあっという間に過ぎてしまった。
本当に不思議な体験をした2日間だった。
1・2日目の体験も凄まじかったが、また違った視点で凄まじさがあった。
何より、私はありがたいことに5日間通うことができたが、4日目までたどる中で、本当に無駄なものがそぎ落とされていく感覚があった。
どんどん、周囲の雑音が気にならなくなっていく。
ずっと視界の端にあった不快さが、どんどん消えていく感覚。
これが御仁のいう「浄化」だとしたら、こんなにありがたいことはない。
たかが演奏会というには、あまりにも異質な世界。
しかし、この区切られた世界の中に埋没していく心地よさを、ほんの少しでも伝えられたならうれしい。
ホールの中で様々なものが濾過されていく。
ホールを通過するごとにクリアになっていく。
音楽というのはある意味そういう装置なのかもしれない。
心に寄り添い、何かを濾過する。
そして、このピアニストの内側に広がる世界はきっと誰かの支えになるに違いない。
その人の内にあるもののすべてではないかもしれないが、きっと誰かの隣でそっと手を添えてくれる。
私にはそう思えてならない。

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はい。
3・4日目でした。
ここまでお読みいただいた方はいるのか!!!!????
お付き合いいただきありがとうございました!
もうほんとに主観を並べ立てており、何か伝わるのかまったくわからないですけど、務川慧悟その人は私にとって本当に救いの神様より神様だということです(笑)
それにしても、ほんとに4日目あたりになるとなんていうか、ほんとに気を抜いてる感じありました。
あれはなんなんでしょうか・・・
ほんと旧友と過ごしているような気分といいますか。
なんかすべて受け止めてもらってるような・・・
謎体験でした。

そしてね。まだ4日目終了なんですねこの記事・・・(どんだけかくつもりか)
5日目は特別プログラムですね。A/Bプロ合算だけでなく、何曲か追加がありました。そして、スペシャルトークも合間に挟まっているので、その辺をまとめた記事に・・・・・・・・・・・なる・・予定です・・・
ちょっとまだわからないです(笑)
お暇な方はお付き合いください。
いつ書き終わるんだろ・・・・・・(いい加減にしなさい)