見出し画像

投票を呼びかける者はなぜ胡散臭いのか【投票について②】


「真面目に頑張っている弱者のために」

「みんなが生きる社会をより良くするために」


投票を呼びかける者たちがよく使う言葉だ。

これだけ見ると彼らはいたって善良な市民であるように思える。

利他精神を原動力に活動する"正義の人"にさえ映るかもしれない。

たぶんだが、彼ら自身もそう思っているだろう。


ところがその姿はふとしたきっかけで一変する。

それは自分たちの意に沿わない人物が現れたときだ。

政治にあまり関心がないことを表明した俳優が大バッシングにあったのは記憶に新しい。

彼が語った内容はひとことで言えば「合理的無知」に近いもので、別におかしな発言でもなかった。

合理的無知(ごうりてきむち、英: rational ignorance)とは、ある争点(issue)に関する知識の獲得にかかるコストが、その知識によってもたらされる利得を超える場合に、知識の獲得を控えることである。

引用:合理的無知 Wikipedia


ところがネット上では次のようなコメントが大量に浴びせられる。


「恥知らずが」

「いい年して情けない」

「こんな馬鹿がいるから社会が良くならないんだ」


自己紹介かな?と突っ込みたくなるコメントの数々だが、こうした光景は今に始まったことではない。

自分にぴったりの言葉を他人に浴びせてしまうのはネット民あるあるだ。

別の日には、テレビのインタビューに応じた女子大生が次のような発言をした。

自分の投票で変わる感じがしない

これは至極まっとうな予感であり、よほど算数が苦手な人間以外なら「そうだね」と頷くだろう。

ところが投票を呼びかける者たちは血相を変えて怒りだす。


Twitterではこのインタビューの切り取り画像に

「同じ日本人として恥ずかしい」

というコメントを添えたツイートがまたたく間に拡散された。

このツイートには10万近くもの「いいね」がつけられる。

さらに元のツイートを引用する形で、女子大生に大量の罵詈雑言が浴びせられた。


「社会を良くするために」という大義名分で投票を呼びかけている人物が、その社会の構成員の一人をよってたかって痛めつける。

「弱者のために」と語る人物が、ただインタビューに答えただけの若者を晒し上げ、何食わぬ顔で弱い者イジメに参加する。

いったい誰が率先して社会を悪くしているのだろう?

いったい誰が率先して弱者を痛めつけているのだろう?


これほど分かりやすい自己矛盾はなかなかない。

あれだけ残忍な集団リンチに加担していながら、自らを善良な市民だと思い続けられる図太さは天性の才能だ。


「投票に行こう」という脅迫


Twitterがまさにその典型だが、SNSでは政治的関心を持つ者が幅を利かせている。

まともな社会人であれば当然投票に行くものであり、そうでない人間は愚か者である。

そんな価値観がSNS利用者の多くに共有されているのだ。


ところが現実の投票率はどうだろう。

2024年10月に行われた衆議院選挙の投票率は53.85%。

つまりおよそ半数の人間は投票に行っていない。

福島県選挙管理委員会の発表によれば、年代別の投票参加率は以下のようになっている。

10代・・・35.22%
20代・・・30.59%
30代・・・40.51%
40代・・・47.54%
50代・・・56.92%
60代・・・68.28%
70代・・・71.41%
80代以上・・・48.32%

参考:衆院選の年代別投票率、19歳と20代前半は20%台 県選管が発表 


40代以下はむしろ不参加のほうが多数派であり、20代にいたっては3人に1人も参加していないのだ。

ではどうしてネット上では「投票に行くのが当たり前」という主張が幅を利かせているのか?


考えられる理由のひとつは、政治に対する関心の強い人間ほどネットに書き込む傾向が強いというもの。

もうひとつは、政治に対する関心の強い人間の声が大きいため、それ以外の人間が萎縮しているというものだ。

この現象はノエル=ノイマンの考案した「沈黙の螺旋仮説」で説明できる。

世論過程には、自分が少数派意見の持ち主となるのを避けたいという気持ちが強く、それによって多数派が支持する動向への同調行動、すなわち「勝ち馬効果」が生じる。少数派は沈黙を余儀なくされるが、この沈黙は多数派の声をますます大きくし、多数派が一層大きな勢力をもつかのごとく世間一般が認知する結果、多数派への同調行動はますます促進される。

三宅一郎『現代政治学叢書5 投票行動』東京大学出版会


この説に関連する印象的なエピソードをひとつ紹介しよう。

以下は2007年の参院選後に実施された調査である。


調査対象者には、調査員に直接回答する方式と、パソコン上で自己回答する方式のどちらかが無作為に割り当てられた。

「選挙で投票したことがありますか?」

という質問に対し、回答者は

「何度かある」「1~2回ある」「一度もない」

の3つから回答を選ぶ。

ところが調査員に直接答えたグループと、パソコン上で自己回答したグループとで、結果に大きな差がついたのだ。

パソコン上で自己回答した回答者の場合、「何度かある」と答えたのは69%、「1~2回ある」は23%、そして「一度もない」は8%でした。ところが調査員へ回答した場合にはほぼ全員が「何度かある」と答えていて、残りの選択肢を選んだ回答者はほとんどいなかったのです。

松林哲也『何が投票率を高めるのか』有斐閣


これらの話からひとつの事実が導き出せる。

政治にあまり関心のない者は、日ごろから政治に関心の強い者たちに気を遣い、自分の本心を語ることを我慢している。

さもなくば先の俳優や女子大生のように糾弾されるからだ。

つまり投票を呼びかける者は、社会を良くしているのだという本人の認識とは裏腹に、少なからぬ社会の構成員にストレスを与えているのである。


もはやそれは呼びかけではない。

従わなければ排除するぞ、という脅迫メッセージだ。


その啓発に効果はあるのか?


僕がたびたび感じるのは、

「そもそも投票参加の呼びかけに投票率を上げる効果はあるのか?」

という疑問だ。


大阪大学の松林哲也教授はこれを実際に調査した。

実験対象となったのは18歳から20歳の若者2,241人。

それらを無作為に3つのグループに分け、そのうちのひとつに投票率の向上につながると予想されるメッセージを発信する。

ところが結果は、どのグループも投票率が変わらなかった。

つまり、このフィールド実験からは、介入群への特別なメッセージ発信によって投票率が上昇したというエビデンスを得ることができなかったのです。

同書


むろん著者自身も述べているように、この実験ひとつで投票の呼びかけに効果がないと決めつけることはできない。

しかし政治学を専門としている教授が

「こうすれば投票率が上がるのではないか?」

と考えて作成したメッセージでさえ効果がなかったのである。


「投票に行かないやつは馬鹿だ!」

「選挙に行かなければ日本が終わります!」

というヒステリックな呼びかけに、それ以上の効果が期待できるだろうか?

僕だったらむしろ投票に行く気が失せてしまう。


本気で人の行動を変えたいと願うのであれば、相手の意思を変えるだけの説得力を持った理屈を語らなければならない。

くわえて相手への最低限の敬意が必要である。

ところが彼らは一切の理屈を語らないどころか、ただいたずらに相手を加害するだけなのだ。

むろんそこには敬意のかけらも存在しない。

加害の暴力は、厭わしく呪うべきものであり、人間からきわめて疎遠であるということだ。人は恩恵を施すことで残酷なものすら馴らす。見るがいい、象たちの軛をかけられた頸を。飛び跳ねる少年少女たちの足に踏みつけられてもじっとしている雄牛の背中を。杯と衣の襞のあいだを無害に滑って這っていく蛇を。家の中で熊とライオンが係の者に向けるおとなしい顔を。主人に尾を振る獣たちを。性格を動物と交換してしまったことが恥ずかしくなるだろう。

セネカ『怒りについて』兼利琢也訳,岩波書店.

政治に関心を持つことはいいことなのか?


「多くの人が政治に関心を持つのは良いことだ」

という話をいろんなところで目にする。

だが本当にそうだろうか?


たとえば一昨年には

『ネット右翼になった父』

という本が新書大賞5位に選ばれている。

この本に限らず、定年退職した親が偏った政治思想に触れておかしくなってしまった例は枚挙にいとまがない。

現にうちの父親がそうで、スマホでyoutubeを見るようになってからは毎日のように近隣国の人に対して差別発言をするようになってしまった。


あるいはTwitterを覗いてみると、ハッシュタグをつけた「ツイッターデモ」とやらが連日行われている。

365日怒り狂っている人々を見ていると、彼らは政治に関心を持たないほうが幸せだったのではないかと思ってしまう。

そしてなにより彼らが周囲に与えている害も無視できない。


判断能力の乏しい人間が政治に興味を持つと、美辞麗句を並べる煽動家にいとも容易く籠絡される。

しばらくすると、彼らは受け売りのトンデモ論を物知り顔で語りだす。

それは同じような分別のない人間にどんどん伝染していき、しまいにはカルトじみた小集団が出来上がる。

これほど鬱陶しいことはない。

彼らに比べれば「政治に興味がない」と正直に語る人間のほうが、はるかに好感を持てるし無害だろう。


社会のためを思う人物


本当に社会のためを思うのであれば、社会にとってのプラスを第一に考えなければならない。

それゆえ相手の主張が自分の主張と対立したとき、相手の主張のほうがより社会のためになるのであれば、自分の主張は破棄する必要がある。

その可能性が開かれていない議論はやるだけ時間の無駄だ。

真に"正義の人"とは以下のような人物を指す。

正義の人は社会にとって最善の結果を達成することだけに関心があるため、反対意見や反対の証拠から逃げようとはしない。事実、彼らは新鮮なものの見方を歓迎するだろう(むろんそれなりの批判的な態度で)。賢い人と意見が異なれば、彼らは偏見のない心で耳を傾ける。そして折に触れて実際に自分の政治的考え方のひとつを変える場合は、怒りながらではなく喜んで変えるだろう。

ケヴィン・シムラーほか『人が自分をだます理由』大槻敦子訳,原書房.


しかし上記のような人物を見たことがあるだろうか?

少なくともネット上ではまず見かけない。

代わりによく見かけるのは以下のような人物だ。

しかし、もちろん、実際の有権者がそのように振る舞うことはまったくない。わたしたちのほとんどは、すでに信じていることを裏付ける新しい情報ばかりがこだまする政治的な残響室のなかで、満足した生活を送っている。たまに反対意見が紛れ込むとすごい勢いでそれを批判するが、自分のものの見方を裏書きするものなら、たとえまことしやかではない証拠でもそれを喜んで取り入れることが多い。そして、自分が間違っているかもしれないと謙虚に耳を傾けるのではなく、自分こそ正しいとばかりに大声で口論し合う傾向が強い。

同書


こうしたおかしな現象は

「投票を呼びかける者は社会のためを思って動いている」

という仮説では説明できないが、

「投票を呼びかける者の真の動機は”自己満足”を得るためである」

という仮説を採用すれば、いとも簡単に説明がつく。


もちろん投票を呼びかける者のすべてがそうだとは思わない。

だがその割合は決して低くないだろう。

政治学者は概して人々が投票所で自分の意見を述べたがる理由について明確にしていないが、顕示的投票を「消費」行為――外的な利益は考えず、自分が気持ちよくなるための行為――として扱っている学者もいる。この見解にしたがえば、投票行為は「自分のアイデンティティを確認する」あるいは「帰属意識を感じる」など、心理的な報酬を得るためのものと考えられる。

同書


投票率を上げるにはどうしたらいいか?


僕は投票率が上がること自体は良いことだと思っている。

ただしそれとは別に以下の意見も持っている。

ひとつは現在の投票システムでは投票に行くことが不合理な行為になるということ。

これはひとつ前の記事で述べた通り、経済学者のコンセンサスだ。


もうひとつは投票に行かない人間を貶したところで投票率は上がらないということ。

変えるべきはシステムであって、投票に行かない人間の思考ではない。

感情的な"啓発"はただ人々を不愉快にさせるだけである。


もしも投票率を大幅に上げたいのであれば、投票に行くことが不合理な行為であるという前提をもっと多くの人間が認めなければならない。

その認識が広く共有されてはじめて、現在の投票システムそのものを改善しようという世論の声が高まるからだ。

世論の声が高まれば、政府は動かざるを得なくなる。

たとえば統一教会の解散命令はまさに世論が政府を動かした一例だ。

(ただし僕はこれを悪い一例だと思っているが)


では投票参加が合理的な行為となるためにはどんな改善が必要か?

合理的な主体者を投票に参加させるには、利益が投票のコストを上回るシステムにしなければならない。

理想をいえば、不参加に対する罰則がもっとも効果的である。

あるいは参加者だけに一律でインセンティブを与えるのもいい。

ネット投票の導入も一定の効果が望めるだろう。


もちろんこれらの施策にも問題点はある。

しかし「投票に行こう」とひたすら訴えるよりは明らかに効果的だ。

現在多くの者が行っている感情むき出しの"啓発"は、単なる自己満足に過ぎないどころか、却って政治に対する忌避感を生みかねない。


いいなと思ったら応援しよう!