人は話を聞く前から結論を決めている
世の大多数の人間は、もともと自分の中にある意見と近似した意見にしか耳を傾けない。
自分の中にある意見とは、たいていその人が最初に納得した意見だ。
それは親や教師の言うことだったり、テレビやネットで見た情報だったりする。
人は一度「こうだ」と思いこむとそれを変えるのは難しい。
たとえ新たに見聞きする意見のほうがはるかに合理的であったとしても、結論は話を聞く前からすでに決まっているのだ。
こうした現象は動物行動学者ローレンツの話を彷彿させる。
ある雛鳥は、生まれた直後に見たローレンツを親だと思い込んだ。
ほかの雛がガチョウについていく中、その雛は一羽だけ彼の後をついていく。
たとえガチョウの腹の下に押し込んでも、雛はすぐさま彼のところへ戻ってくるのである。
ローレンツはこうした現象を「刷り込み」と名付けた。
刷り込みは生後間もない時期(臨界期)にだけ見られる現象であり、通常の学習より速やかに習得され、半永久的に消去されないという。
雛鳥は最初に見た生き物を親だと思い込んだが、人は最初に納得した意見を真実だと思い込む。
とりわけ便利なラベルを貼り付けて理解した気になる者ほどその傾向が強い。
そして雛鳥と同様、それを後から変えるのは困難だ。
反証例をわざわざ探そうとする変わり者は少数派であり、大多数の人間は検証例しか見ようとしない。
ただし最初に刷り込まれた情報が、新たな情報に塗り替えられるときもある。
1つ目はそれが自分にとって都合のいいとき。
2つ目はそれが心酔する人物によって語られたとき。
3つ目は分かりやすい物語を見せられたとき。
4つ目は激しい感情の動きを伴う実体験をしたとき。
5つ目は世間の空気が変わったときだ。
これらに比べると、論理による説得というのはほとんど効力を持たない。
理解力がどうこう以前にそもそも話を聴く気がないのだ。
相手が自分とは相反する思想を持っているのだと察知した途端、傾聴モードから反論モードへと切り替わる。
その瞬間から、対話によって考えを変える可能性は完全に閉ざされてしまうのである。
そういえば以前、哲学者の鷲田清一が
「ディベート(討論)は考えが変わったら負けだが、ダイアローグ(対話)は考えが変わらなければ意味がない」
というようなことを述べていた。
(どの著作だったか忘れてしまったため正確な言葉ではない)
昨今のひろゆきブームやTwitterで毎日繰り広げられているしょうもない罵り合いからも分かるように、ネットではディベートが人気らしい。
とくに白黒はっきりしたシンプルな意見ほど称賛が多いのが見て取れる。
"敵陣営"とはあらゆる論点で対立したほうがウケがいい。
ある論点ではA側の立場、別の論点ではB側の立場、なんて中途半端な態度をとろうものなら敵認定されておしまいだ。
批判する際は論点と関係ない人格攻撃を混ぜるのも忘れてはいけない。
要するに、ネットで支持を集めるには知的不誠実さが欠かせないのである。