「育ちがいい」下品な人たち
ここ最近は
『育ちがいい人だけが知っていること』
という本がベストセラーになったり
『育ちがいい人は絶対にやらないこと』
的なタイトルの記事がニュースサイトでよく取り上げられたりしている。
どうやら世の中には
「育ちがいいと思われたい」
「育ちが悪いと思われたくない」
という願望を持つ人が一定数いるようだ。
しかし僕には彼らの気持ちがよくわからない。
「育ち」という自分の能力とは無関係なものを評価されたところで何が満たされるのだろうか?
たとえどんなに育ちを称賛されたところで、それは自分が称賛されたことにはならない。
逆にどんなに育ちを貶されたところで、それは自分自身の評価とは何の関係もない。
1.「育ちが悪い」とは誰が言っているのか?
ネットでは食事マナーなどの話になると
「育ちが悪い」
という言葉がたびたび登場する。
さて、この言葉を使っているのはどんな人物なのだろうか?
「育ち」とは通常、生まれ育った環境や親の育て方を指す。
どちらも本人の努力では変えられないし、それがいかに劣悪だろうと本人にはなんの責任もない。
にもかかわらずそれを悪口として使う人物というのは、相当性格が悪いように思える。
2.「育ちがいい」の別の意味
あるいは「育ちがいい」という言葉を
行儀作法やマナーを弁えている
上品である
という意味で使っている者もいるかもしれない。
だがそもそも行儀作法やマナーとは何のために存在するのか?
社会生活や人間関係を円滑にするためだ。
そうした本来の目的を考えれば、行儀作法やマナーの欠如を理由にだれかを攻撃するのは本末転倒でしかない。
ましてやそれを匿名掲示板やSNSに書き込むのは下品の極みである。
いずれにせよ、他人の「育ち」を語りたがる者には目的と手段が主客転倒してしまうタイプの人間が多いと感じている。
そしてたいてい自分の下品さに無自覚だ。