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身内にウケる言動ほど気持ち悪い

身内にはウケる言動が、外部から見ると気持ち悪い。

これはいたるところで見られる現象だ。

もっとも分かりやすい例は「ツイッターデモ」だろう。


ツイッターデモとは、同じ思想を持つ人間が同じハッシュタグ(#)をつけて特定のイデオロギーを一斉に主張する行為だ。

少し前のツイッターでは

「#安倍やめろ」

「#ワクチンは生物兵器だ」

といったハッシュタグが毎日のように流れていた。

(ここ最近はハッシュタグがほぼ機能していないが、野蛮な政治関連ツイートを垂れ流されるよりは幾分マシだろう)


デモツイートには身内による大量の称賛が寄せられる。

称賛は確信につながり、過激化を引き起こす。

過激化はさらなる称賛を生む。


だがこうした身内にウケのいい言動は、外部にいる人間に対してはしばしば正反対の印象を与える。

「気持ち悪い」という印象だ。


単純な善悪二元論、

都合の良いデータしか見ない盲目さ、

考えの異なる者に対する攻撃性、

そのどれもがカルトじみているからである。


狂信者はどれも似ている


国、時代、主張の中身は違っても、過激な主張をする人間というのはたいがい同じような思考回路を持つ。

極右と極左はよく似ているし、過激なワクチン反対論者と過激なコロナ恐怖論者の言動もやはりそっくりだ。

きっかけが違えば親友になれただろう。

彼らを見ていると、敵陣営に向けて放った批判が自己紹介になっているケースも珍しくない。

あらゆる種類の狂信者は、たがいにさまざまな対立した極に立っているようにみえるが、実際には一つの極のもとにひしめき合っているだけである。両極に対立しているのは、狂信者たちと穏健な人々であり、彼らが出会うことはありえない。さまざまな種類の狂信者たちは、たがいにほかの狂信者たちを疑わしいまなざしで眺めていて、機会があれば相手の喉元に飛びかかろうと準備している。しかし実際には彼らは隣人であり、ほとんど同じ家族の一員なのである。

エリック・ホッファー『大衆運動』中山元訳


足を引っ張る過激派


皮肉なことに、過激派の人間が発言をすればするほど外部にいる人間の反発感情は強まっていく。

そしてそれは同じベクトルを向いた、過激派ではない集団の印象さえも悪くさせる。

つまり味方の足を引っ張っているのだ。


過激なワクチン反対運動は、ワクチンの接種率向上に貢献する。

過激なワクチン推進運動は、ワクチンや政府に対する不信と反発を生み出す。

過激な反政権パフォーマンスは、自民党の支持率アップにつながる。

過激な自己責任論は、欺瞞に満ちた共感ビジネスを跋扈させる。


いかなる過激派であっても、主張のすべてが間違っているわけではない。

たいてい部分的には正しいことを言っているものだ。

しかし別の部分での明らかな誤り、挑発的発言、極端な言動が、正しい部分までも間違っていると思わせる。

彼らの排他的な態度がかえって聞く耳を塞いでしまう。


相手陣営の主張を一刀両断に斬る。

これが魅力的に映るのはもともと同じ意見を持つ者に対してのみだ。

特定のイデオロギーを持たない者、あるいは反対意見を持つ者に対しては、いたずらに警戒心や反発感情を煽るだけである。

味方を熱狂させるパフォーマンスは、外部の人間に対しては逆効果となることが多い。

たとえば、ときの政権を批判する。権力を監視し、批判することは健全なジャーナリズムの任務である。だが、それは、だれに読ませたいのか。もともと政権に批判的な読者にではあるまい。政権をなんとなく支持している人、判断がつきかねている人、もしくは、確固として政権を支持している人に、その言葉は向けられているのではないのか。原稿に、嘲りや、説教、一刀両断にする正義があったとき、その、ほんとうに読んでほしい想定読者は、耳をふさぐ。

近藤康太郎『三行で撃つ』


自戒


ここまでの話は決して他人事ではない。

自分の過去に書いた記事を見返してみると、この一言は必要だったのか?と感じる文がたびたび目につく。

本来なら伝わるはずの内容が、余計な一言のせいで伝わらなくなっているケースは自分にもあるかもしれない。

別の表現を使っていれば伝わる範囲が広がっていたかもしれない。

知らず知らずのうちに、身内だけが喜ぶ気持ちの悪い文章を書いていたかもしれない。


伝わる人間にだけ伝わればいい。

こうした姿勢は、驕慢を生み、視界を曇らせる。 

その先に待っているのは自省能力を失った偏狭な精神だ。


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