カエルの女神と夜の王 第六話
あくる朝早く、初めてボガートに邪魔されずにぐっすりと眠ることのできたラナデアは、とてもすっきりした心地で目覚めました。景色を楽しみにしていたので急いで窓際へ行きカーテンを開けましたが、外は一面の白い霧で何も見えなかったのでがっかりしました。それからお腹がグゥと大きく鳴って、そういえば昨夜は夕食をとらずに寝てしまったことを思い出しました。
「今度から、ノックスさまの朝食のときに一緒にいただけるようお願いしなくっちゃ」
実のところラケルタはうっかりしていて新参者の夕食のことを忘れたのですが、ラナデアは少しも悪く思わずに独り言を呟きました。もとの屋敷でも食事の用意を忘れられたり、わざと抜かれたりすることがよくあったので空腹でいることに慣れてしまっていて、食べていないことに気がつかなかったのでした。そんなわけで背はちっとも伸びなかったしいつまでもか細い手足をしていたけれど、三つ違いの二番目の姉とも滅多に顔を合わせなかったので自分が特に小柄だとは知りませんでした。ただ血が足りないときがあるのか、たまにくらくらとすることがありましたが、もともとそれなりに丈夫に出来ているのか何か口にすればすぐに元気になりました。
「ラケルタさん、どこにいらっしゃるの」
ラナデアはさっそくセーラー服に袖を通して階下へいきましたが、サルーンもドローイングルームも、地下のキッチンさえもがらんとして静まり返っていました。まだ足を踏み入れたことのないパーラー(※居間)やダイニングルーム(※食堂)も覗いたけれど、やはり誰もいませんでした。そもそもどこか知らなかったし、ベッドルームはもちろんのことライブラリーへも行くのもはばかられたので、ラナデアはそれ以上うろつくのをやめマホガニーの螺旋階段の途中に座り頬杖をつきました。
「みんな、どこへ行ってしまったのかしら……」
とにかくお腹が空いていたので食べ物を探しに行きたかったのだけれど、先ほど覗いたキッチンには口にできそうなものはなかったし、嫁いできた家のスティルルーム(※食料貯蔵室)を漁る令嬢なんて聞いたこともありませんでしたから、じっと我慢するよりありませんでした。それでも脳天気なラナデアはわらべうたなどを口ずさんでしばらく過ごしていましたが、だんだんと心細くなり涙が溢れそうになりました。
どうにも我慢できなくなって鼻をすすった時、さらさらと衣擦れの音が聞こえてきたので振り仰ぐと真っ青な絹のドレスを着た――ミセス・ラピスにそっくりなシルキーがちょうど下りてくるところでした。
「ミセス・ラピス……」
とても悲しい気持ちでいたラナデアは縋るような目をしてシルキーの名を呟きました。今度も知らんぷりをされたらどうしましょうと思っていたけれど、ラナデアの横を通り過ぎようとしていた彼女は立ち止まってくれました。
『こんなに目を赤くして、一体どうなさったの』
いつもの優しい声で尋ねられて、とうとうラナデアは声を上げて泣いてしまいました。一所懸命気がつかないふりをしていましたが、たった十二歳の子どもが新しい場所へ来て不安にならないはずはなく、本当はナース・メイド代わりのミセス・ラピスのことが恋しくて仕方がなかったのです。
鼻水をすするのとしゃくり上げるのに必死で何も言えなかったから、ラナデアは何度も頭を振るとシルキーにしがみつきました。何しろ亡霊なのでその体は氷のように冷たかったのだけど、彼女は黙ってラナデアのことを抱きしめてくれました。
『あなたは私のことをミセス・ラピスと呼ぶけれど、それは誰かしら?』
「え……」
小声で尋ねられて、シルキーの胸に顔を埋めて肩を震わせていたラナデアはきょとんとしました。間近に見ても彼女はミセス・ラピスと瓜二つなので、何を言っているのかしらと首を傾げました。
「あなたは、わたくしを育ててくださったミセス・ラピスではないの?」
『私はそのような名前で呼ばれたことはないわ。……でももしかしてあなた、伯爵のお屋敷からいらしたのかしら』
「そうよ。わたくし、ヴェーヌ伯爵家のラナデアよ」
『……なら、私の双子の姉と間違えているのではないかしら』
「驚いたわ! ミセス・ラピスには双子のきょうだいがいたの」
ミセス・ラピスの双子の妹だというそのシルキーが言うには、何世紀も前のことだけれど彼女たち姉妹は、この闇の館と伯爵家へ別々に奉公へ出されたとのことでした。どうしてふたりとも亡霊となってしまったのかは教えてくれませんでしたが、ものごとを深く考えないでいることの多いラナデアは気にしませんでした。
「ねえ、あなたのこと、なんと呼べばいいかしら」
『私、元の名前など忘れてしまいましたから……。そうね、姉がラピスというのなら、ラズリなんてどうかしら』
「あら、洒落た思いつきね。では、あなたのことをミセス・ラズリと呼ぶわ」
さっそくミセス・ラズリと意気投合したラナデアはついでに食べ物はどこにあるか尋ねました。それに彼女は少し考えて、(亡霊なので音はしませんが)何か思いついたように手を打つとキッチンへ行き小さなかごを持ってきました。
『あいにくこのお屋敷の中に食べ物はないのだけれど、庭に行けば木苺が生っているはずだわ。あの人たちが起きたら食事を用意してもらえるよう言っておくから、今はそれをお食べ』
「では、ミセス・ラズリも一緒に行きましょうよ」
『……ごめんなさい。私は屋敷の外へは出られないの』
ラナデアが誘うと、ミセス・ラズリはミセス・ラピスがよくしていたように悲しげに眉を曇らせて答えました。それを聞いてラナデアはどうしてミセス・ラピスが嫁ぎ先へついてきてくれなかったのか合点がいきました。
「そうなのね。では、わたくしが戻ってくるまで待っていてくれるかしら。さっきからひとりぼっちで寂しいの」
『ええ、わかったわ』
ささやかな望みを口にしたラナデアにミセス・ラズリは頷くと、窓から差し込む朝日を受けてきらきらと輝く金の髪をそっと撫でてくれました。それは昔からミセス・ラピスがしてくれるのとすっかり同じしぐさで、ラナデアはホッとしました。