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静かに、遠くから



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 毎年、震災を振り返っている。私は宮城の三陸の街で子ども時代を過ごした。(市町村合併によって今はもう存在しないのだが、)かつて志津川町という小さな町だった。父はそこで教師をしていた。

 雪深い秋田県から海の町へ引っ越した私は、その町を結構気に入っていた。意外と良い思い出も残っている。葦の生えたような空き地で基地を作って冒険したり、海が見えるキャンプ場で遊んだりもした。ひまわりの絵を描いて、何かの賞をもらった記憶もある。

 旧志津川町は現在、南三陸町と呼ばれている。おそらく、2011年の震災関連のニュースで耳にした人も多いだろう。防災対策庁舎が津波に飲まれ、現在は震災遺構として保存されている。

 大津波は街の姿を大きく変えてしまった。私たち家族が暮らした小さな教員住宅も跡形もなくなったし、あの空き地がどこにあったのかすら、今では分からない。

 父の転勤により、小学4年生の頃に海の町を離れた。次に暮らしたのは田んぼの広がる町。商店街はあるにはあったが、見渡す限り田んぼばかりだった。この景色が全然好きになれなかった。「田園地帯というのは、なんとつまらないものだろう」と思ったのは、おそらくこの頃が最初だろう。

 その町には実家と祖父母の家があった。震災時、最大震度が記録された地域のひとつだったが、祖父母の家は半壊し、その後取り壊された。今はもう残っていない。



2
 毎年この時期になると、いわゆる「アニバーサリーエフェクト」を微妙に味わう。

 2011年3月11日、私は盛岡の借家にいた。ライフラインは止まり、不便はあったが、財産を失ったわけではないし、家族を亡くしたわけでもない。(祖母の家は半壊したが、祖母自身は養護施設にいて無事だった。)

 それでも、直接の物理的被害がなくとも、精神的な影響はじわじわと続くものだと、毎年実感する。「あの日」は雪が降っていて、寒かった。不安だった。夜には星がとても綺麗だった。電気のない夜を過ごしたのは、生まれて初めてだった。


3
 2022年、「終の住処」として盛岡某所にマンションを購入した。2023年の3月11日は、少し穏やかに過ごせた気がする。おそらく、借家から引っ越して環境が変わったことが大きかったのだろう。

 終の住処を決めたはずなのに、2024年、なぜか京都で暮らしている。関西で迎える3月11日には、「あの日」のような雪にはならないだろうと思う。京都に来てからは気候も違い、震災の地からの距離も離れているため、強い「アニバーサリーエフェクト」は起きないのではないか。今年は、静かに、遠くから三陸の人々の暮らしに想いを馳せるつもりでいた。


しかし——。



4
 先週から、岩手県沿岸の大船渡・陸前高田で山林火災が続いている。昨日、大船渡で発生した3つ目の火事は、現在も延焼中のようだ。空気が乾燥しているため、鎮火までには数日かかるだろう。

 地方ニュースが見られず、詳細な情報がわからないが、集落ひとつを失うほどの規模のようだ。「防災」というキーワードのもとに長い間心を合わせてきたであろう住民たちが、水害ではなく火災によってこんな災禍に遭うなんて、思いもよらなかった。

 この気持ちを言葉にするのは難しい。ただ「運が悪かった」などとは、とても言えない。


5

 自然というものは、あまりにも容赦がない。津波がそうであったように、火もまたそうだ。人の願いも、積み重ねた時間も、一瞬のうちに塗りつぶしてしまう。かつて震災で失われたものに、火災という別の形で、また新たな喪失が重なっていく。なぜこんなことが起きるのか、言葉にしようとしても、どこにも納得のいく説明が見つからない。

 京都に来てから、「歴史の中に生きている」という感覚を強く持つようになった。町を歩けば、かつてここで起きた事件や戦乱の痕跡を見つけることができる。焼かれ、失われ、それでも人はまた築き、そしてまた失い——そうやって時代は巡ってきた。無惨な出来事の積み重ねの上に、今の私たちの生活がある。

 ふと、私は「今を生きる」ことの「切なさ」を思う。人は自然の猛威に抗いながら、それでも生きる。無為な喪失を前に、それでも明日を迎え、また日常を紡いでいく。過去を記憶し、語り継ぎながら、それでも前を向くしかない。その営みの儚さに、胸が締めつけられる。


 今年の3月11日は、京都で迎える。三陸の寒さとは違う、穏やかな空気の中で、遠くの故郷に想いを馳せることになるだろう。その距離が、何を和らげ、何を突きつけるのかは、まだわからない。



大船渡は椿の名所
震災後なんども赴いている
岩手に戻ったらまた、応援に行きたい

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