刀ミュ陰謀論者による祝玖寿 乱舞音曲祭考察─崩されたもの、へし切長谷部の役割から─
こんにちは。先日10月23日に、大阪城ホールにて「『ミュージカル 刀剣乱舞』祝玖寿 乱舞音曲祭」 を観てきました。
興奮冷めやらず永遠とろくろを回しており、いつも回しきってなにも形作っていないところまでねちゃねちゃ考えてしまうので、今回は一旦外に出してみようとこの記事にいたります。
そのためこちらは純度100パーセントのネタバレを含みます。
ついでに超長文の怪文になってしまったので、祝玖寿を見てモヤモヤした方や「結局なんだったんだ……?」と思われた方には面白みがあるかもしれませんが、それ抜きに読むと本当によくわからない文章です。
特にこの記事では、私がひっかかりつづけている
①公演全体・特に第2部の構成について、なぜ9周年のいまキャスト本人を映像で出して来たのか。
②へし切長谷部が背負った本公演の「役割」とはなにか。
③それらを踏まえて、この公演ではなにを言わんとしているのか。
この3点を衝動的な感想を交えながら、書いてみます。
なによりもまずお伝えしておきたいのは、これを書いている私自身は刀ミュ陰謀論者であるということです。どういうことかと言いますと、私は「刀ミュの公演は、刀剣男士たちが実際に戦地などで体験してきた経験をミュージカルとして演じなおすことで再経験し、彼らの自己の部分、刀としてだけでない己の物語を強くしていくために行っているもの」ではないか、という仮説を持って刀ミュを観ています。
これだけで、「この人めんどくさい変に考えすぎる人だ」ということが伝わりますでしょうか……。いや、実際そうじゃない?とか思いながら、その仮説じゃがばがばの部分も大いにあるのも感じています(歴史上の登場人物たちとかはどう説明するんだとか……、三日月宗近はどうなってるんだ、とか)。刀ミュの特徴である二部構成(二部で急に目の前の観客=審神者が見える刀剣男士)に疑問を持って以来、そうした仮説を持って観てみるとかなり楽しいです。現に本公演以外の単騎・双騎・江おんすていじなどは演じることとそのものになること、重ねること、そんな感じのことをやっている気もなんとなーくしますし、かなりメタメタしく楽しませていただいています……。
ミュージカル刀剣乱舞の作品を観始めたのはパライソ再演頃からです。初期の作品の細かい造形やリアルタイムでしか味わえない空気感を知らないまま、書きなぐっています。また諸事情あり、まだ陸奥一蓮を観れていません……。つまりミュの最新情勢を知らないままこれを書いています(恐ろしい)。
そう。なんとなくそうじゃない⁉というノリで書いているのです。
以上をなんとなくベースにして、下に続く妄言をご覧ください。
とりあえずぐっちゃぐちゃに書いているため、読みにくい&捻じ曲げすぎの持論であることをご承知おきください。記憶もあいまいです。あと文章めっちゃくちゃ読みにくいかもしれません。
さながら夜空にちらばる星に線を引っ張り勝手に仏の星座を作る修行僧……。
はじめに 「祝玖寿 乱舞音曲祭」で伝えたかったこととはなんだったのか
話が長くややこしくなりそうなため、はじめに
③この公演ではなにを言わんとしているのか
これに簡潔に答えてから進めようと思います。
以下です
祝玖寿は
◎真剣乱舞祭 2022ではまだ時間が空いておらず、見えなかったコロナ禍の刀ミュ像を少し落ち着いた現在振り返ることができ、コロナ禍の清算・丁寧な振り返りをした公演である。
◎刀ミュの刀剣男士・世界観はきっちりと作品内で収まるものではなく、常に(商業的になどではなく刀ミュそのものの性質として)観客・現実世界に依拠し続けるものである、という刀ミュのアイデンティティの再固定をした。
◎ミュージカル刀剣乱舞が9年で導いた刀ミュのアイデンティティについて、また今後どういったスタンスで歩を進めるのかの表明の場である。
そういったことを伝えたかった公演ではないか、と観劇を終えた今考えています。
①公演全体・特に第2部の構成について、なぜ9周年のいまキャスト本人を映像で出して来たのか。
公演全体について
公演が始まる直前、私は完全に刀剣男士たちの会話などから始まるものだとばかり思っていました。それがどうでしょう、一発目から大所帯が新衣装で立っており歌い始まったので正直パニックでした。
蜻蛉切、思ってた倍デカかった。
そこからは怒涛のノリノリ曲で記憶がほぼ飛び、気が付けば会場中を走り回る刀剣男士。どこにだれがいるのかが分からないのにあちこちで悲鳴が聞こえ、混乱しながら振り回されるタオル、急に近くに現れる首をめちゃくちゃ振る大典太、スーパーキューティな浦島くん、まさに大混乱、阿鼻叫喚の時間だったことを覚えています。軽装衣装でゆったり出てきたと思えば、始まる「サルサdeソウル」。ほんまにありがとう。あと30分ぐらい踊れました。終始ノリノリのまま「獣」で猛攻に締め、正直ギラギラパチンコ誉(そう勝手に呼んでます)が出て休憩のデカ文字が映し出されたときには、「もう知ってる刀ミュ全部やっちゃったやん……」とぽかんとしていました。
勿論すでにたくさんの方が感じていると思いますが、今回の公演は
刀ミュのおいしいところを余すところなく出してきた
そんな1部でしたよね……!!。特に客降りはコロナ禍を経て本公演では見ないようになり、すえひろがりの屋外でようやく刀剣男士と観客の距離が少し戻ったのが、今回の祝玖寿では完全に原点復帰したと言えます。
(隣の席に座る某刀剣男士も観測しますね。あの圧で隣に座られたら夢に出てくる……。)
手が届く距離に刀剣男士がいて、それぞれの持つ素敵なうちわの奥から聞こえる悲鳴は対岸の火事的に見ているとなかなか愉快でした。でもほんとに急に近くにいろんな刀剣男士が現れますし、それがだれか予測できない……。他人ごとではなく冷や汗をかいているという状況でした。
選曲としても、かなりおいしいセトリではなかったでしょうか。特に「keyman」を生で聞けたのは嬉しかったです。また会場や期間によって第1部のセトリが変わるのが刀ミュの恐ろしいところです……。
にしても、みんな聞いたことのある確実にノれる曲しか無かったことが印象的でした。新旧代表的な曲が次々と披露されていくのは本当に秒でした……!
刀ミュ2部曲よくばりセットがあるとしたら、きっとこれは一つの最適解です!!
第二部の構成について なぜ9周年のいまキャスト本人を映像で出して来たのか
やはり問題は第2部でしょう。
賛否が飛び交っていることはなんとなく知っていましたが、てっきりアドリブやちょっとしたコミカルなセリフとかの「中の人ネタ」があるのかと想像していました。
実際は、公演中止を受けての『静かの海のパライソ』のキャスト陣による振り返りインタビュー。
本当に頭を抱えました。 ろくろを回し続けてしまう人間なのでこういうのは本当に困ります……。こうやって長文を書くはめになっています。
今まで9年間、カテコの最後の最後まで刀剣男士としてそこにいようとしていた役者たちの吐露を公演内で聞く。
そもそも、映像を持ち出してくるということも刀ミュの世界観的には違和感があります。今回のパライソカテコ映像は過去を客観的に見せることのできる資料です。刀剣乱舞そのものとしても、刀ミュ本公演のその空間を完遂しようとする世界観には、観客が完全に作品を俯瞰できる演出はあまり合いません。しらける気がするからです。※心覚や第二部での使用ではまた印象が異なると思います。
私は本公演のライブ第2部だけでなく、第1部でも実は「刀剣男士は観客が見えているのではないか」と思っていますが、作品から与えられた情報だけで考えるとそれが合致するのは精々本公演では『東京心覚』ぐらいではないでしょうか。そのため、作品の世界観から私たちは遮断されている、とするのが自然なのですが、パライソメンバーの苦悩を第2部の一発目に映したあと始まったのは「誰も教えてくれない」。いつもの戦装束で浦島くんと日向くんが本公演一幕の曲を歌い始めたことで作品の世界が始まってしまいました。
役者のホンネを流した後に登場し、劇中歌が始まる。
これは9年培ってきた刀剣男士として審神者もとい観客に接し続けるという刀ミュの大きなアイデンティティを壊した大きな演出でした。
しかしそこで、刀ミュ陰謀論者的にニヤニヤ考えてみたいと思います。
崩してもそこに残るもの、残ったもの─自己解剖しはじめる『刀ミュ』─
冒頭にも述べたような「刀ミュの刀剣男士、世界観・作品は現代に依拠しなければ成立できない」、というメッセージが祝玖寿にあるとするならば、第2部のこの始まり方はそれを伝える大規模な仕込みと言えます。
刀ミュの核である刀剣男士のままであることのネタバラシ=本当の刀剣男士にはなりきれていなかった(公演中止、観劇制限などにおいて)。
自ら刀ミュの内の部分を崩し、内臓を見せに来た、というふうに捉えてみます。
印象に残ったのは一応ぼんやりと書きますが「刀剣男士になれるはずだったのに、気が付けばコロナで……」と言った旨の吐露です。
当たり前に俳優さんたちは刀剣男士を演じているわけですが、コロナ禍の影響でやむを得ず中止になってしまったパライソは、最後まで公演を走り切ることができず、毎日の公演の積み重ね=役の形成も感覚も他作品とは異なったやりきれなさがあったことは想像に容易いです。そこに5周年音曲祭そして再演、2022年の真剣乱舞祭をはじめとして、刀剣男士として各地を回り公演を重ねることから刀剣男士に一層「なる」感覚などもあったのだろうということも安直ですが考えられます。今までの刀ミュの作品内でのさまざまな役者さん、刀剣男士から感じる年月を感じる立ち居振る舞いの変化からも、それは垣間見えていると思います(この長期間が見れるのが刀ミュのおもしろみだと本当に思います……!特に単騎を行った二振りの公演ではすごくうまみのあるものになっていて感嘆します)。
「誰も教えてくれない」を浦島虎徹と日向正宗が歌い、あの時代の天草を描く作品・歌を現代へと引きずり出したようにも捉えられます。刀剣男士自身、パライソ作中内を演じることからも外へ飛び出しました。現代の状況そのものを引き受け私たちと同じ世界に立っている刀剣男士として歌っていることは、彼らの彼ら自身による経験のし直しとも言えます。島原で不条理のなかを生きる幼い兄弟の嘆きの歌を、二振り(+初出陣した江の二振り)が歌いコロナ禍と重ね合わせ刀剣男士と観客が共有しているこの時間軸の抗えなさを歌うことで、作中だけを演じずに現実としても刀剣男士に「なった」、とも考えられます(捻じ曲げ)。
サビ前の一瞬、暗闇のなかから刀剣男士が現れ二振りに一斉に刃を向ける構図には思わずぞっとしました。浦島と日向は刀を抜く動作もせず、刀を振り上げられている状況はまさしくどうすることもできなかった猛威のコロナ禍と重なります。その後のそれぞれが他の刀剣男士と闘っている様子は、以前どこかで見た刀剣男士と審神者が闘っている相手、刀剣男士説と重なって面白かったです。「その境界線の見分け方を教えてください」と全員が観客に向いて歌う最後はもう圧巻でした……。30人前後はやはりなにをしても迫力がありますね……。
さて、ここからのセトリはパライソ同様コロナに大きな影響を受けた幕末天狼伝、心覚と続きゆるやかにコロナ後の刀ミュの公演劇中歌が続きます。
某曲での一期一振の某セリフには思わず聞いた瞬間涙が出てきて過呼吸でした。
本当に花影、再演してください。しましょう。年一公演を経験した花影メンバーによる再演は絶対にしないといけません本当にお願いします。泣
そのあとに旅人のうたがくるとはまさか思わず、これも個人的に思い入れがかなりある曲だったので本当に泣きました。またこうしてにっかり青江が目の前に現れて一緒に手遊びをしていること、あのときは一振りで日本の土地を巡っていたのに、会場の規模もさることながら青江と一緒に歌い手遊びをしながら会場のたくさんの人たちと刀剣男士が関わり合っている。このことだけで本当に泣きました。民謡のメロディと手遊びは私たちの生活の素朴な部分、人間の魂みたいな部分をくすぐられてどうにも駄目です。
パライソのカテコと加州のカテコがつなぐもの─水心子のセリフのひっかかり─
第二の問題はここからです。
最新公演の陸奥一蓮の「己映す鏡」が終わると、大画面に現れたのはまたしてもカテコ映像。間違えじゃなければ『幕末天狼伝』再演時のカテコ映像だったかと思います。今を耐えれば、その先に明るい未来があるって知っている、と刀剣男士にしか言えないメッセージを加州清光が伝えてくれる。そういった映像でした。これを皮切りに本公演の総まとめがはじまりまったような印象を受けました。
ここまでパライソキャストによるネタバラシは説明がつくとはいえ公演全体で見た時の一貫性は無かったかもと思うので、ここで似たようなカテコを出して別の流れを作ることには、なるほど、と一旦受け止めることができました。
しかし最後の最後に心覚の終盤にあった水心子のセリフを出してきたところで思考停止。めちゃくちゃハテナが付きました。だって、今のいままでやっていたことはコロナ禍の清算だと思っていたからです。コロナ禍でできなかったことを全部やるぞ!という気概を感じていたのに、これでは綺麗にしめることができない気がします。心覚の水心子の言葉はコロナ禍の人間にとても響くように作られ、その当時に発された言葉であるからです。
当時の空気感を最も表していた水心子のあのセリフを最後に置いてしまうと、観客にコロナ禍と今回の公演の違いをはっきりと見せる事が出来ず、むしろまだ続いている印象も受け取れてしまい(実際まだ流行っている病ですが)、公演の狙いとしては逆効果とも思えます。
でもわざわざ最後に持ってきた。なにか理由があるはずです。
自分に納得のいかないことには別の筋立てをする、それが陰謀論者(と思っています)。ということでうーんと頭を悩ませた結果、心覚の水心子のセリフにはもしかしたら心覚で込められていた意味のほかに今回なにか異なる意味合いで出して来たのではないか、と考えてみることにしました。
なぜここで「かざぐるま」なのか、水心子が呼ぶ「きみ」の転換
じゃあそれが一体なんなのか、ということですが心覚のセリフに辿り着く前の歌から考えてみたいと思います。
もう観劇や配信でご覧になった方(というかこれを読んでくださる方は基本ご覧になった方ですよね)はご存知かと思いますが、加州のカテコ映像と水心子のセリフに挟まれる曲は「かざぐるま」です。
そう、コロナ禍・コロナ後の公演作品からの選曲しか無かった第2部で、『三百年の子守唄』の曲である「かざぐるま」だけがコロナ前の曲となります。もちろん、各公演地で変わる歴史上の登場人物や刀剣男士によっては、第2部でもコロナ禍前の劇中歌は披露されていたかと思いますが、固定曲だけのセトリで見るとかざぐるまだけが浮いているのです。
最後の締めに差し掛かるときに、なぜここでコロナ前の作品である「かざぐるま」を披露するのか。みほとせは、刀ミュファンの友達や有識者の人に聞くと「とりあえずはじめて見るならこれがおすすめ」と多く挙げられる印象があります。刀剣男士が人とながらく関わることを軸に描いており(どの作品もそうなのですが……!)、また刀剣男士としての使命と奮闘も描かれています(どの作品もそうじゃないか!)。みほとせは特に、出陣する全刀剣男士が人と関わり、赤子からはじまる人が生き・死ぬこと、それぞれの生を全うすることをあたたかく真摯に見守り続ける作品ですよね。作品全体が人の生に温かく目線を向けて、時代・歴史の流れを大まかに俯瞰しそして優しく傍で見守ってくれている、それを表すのがまさしく表題曲であるかざぐるまでしょう。刀ミュの根幹部分はいくつかあると思いますが、「かざぐるま」で歌われているものは間違いなく刀ミュを表す一曲です。
刀剣男士はすでに私たちの時代の未来を知っていて、どんな困難が待っているか知っているうえで私たちのもとに来てくれている。頑張ろうね、とにかく生きよう、僕たちは時代がどうなるかを知っているから。たとえ先の情勢が分からずとも刀剣男士は知っている、このことだけは変わらない。言霊にすらなってほしい、加州のカテコには刀剣男士として発する言葉の力を感じました。どんな状況になっても、それがそうなることを刀剣男士は知っているのです。そうした加州のカテコに続く「かざぐるま」は、どんな状況に人々が立たされていてもそれがたとえ苦しい状況であっても、刀剣男士は目を背けずに人が日々生きようとするさまを見続けているんだよ、と伝えてくれた気がします。刀剣男士として私たちと同じ時間を過ごしてきた彼らの歩む様子、これからも変わらない姿も見せてくれたような気がします。
そう踏まえると、心覚の水心子の言葉には少しだけ普遍的な意味が持たされます(持たせました)。
心覚の上演当時、「きみ」という呼びかけが大まかに二つの対象に向けられていたと感じます。
一つは過去の記録にも記憶にも残らなかったそれでもそこに確かに生きていた人たち、二つめが上演当時刀ミュを知っていて観ようとしていた人たちです。ちなみに私は上演終了後にハマったため、リアルタイムでたくさんの人たちがそれぞれその人にしかない受け止め(よくわからなかった なども含め)をしていたのだと思うと、本当にうらやましくロマンな話だと毎回思います。
しかし、今回の祝玖寿ではその「きみ」と呼びかけられた人が増えたのではないでしょうか。コロナ後の私たち、このさきを生きるこれから刀ミュを知る人たちです。ミュージカル刀剣乱舞の刀剣男士(ひいては刀剣男士という存在そのものかもしれません)は観客であるそこで生きている私たちを見守り続けている。「きみ」と呼びかけられ次に続く語りは「境界」についてです。「境界」とは、上演中では身体的距離や対面で会えないことなどを愚直に指しているでしょう。今回新しい意味合いを背負った「境界」にはコロナ禍/コロナ後などをはじめとして思い当たるものがいくつかあるかと思います。
しかし今回はパライソのバラシをした意図をもう少し説明するため(自分が納得するため)に刀剣男士・刀ミュというコンテンツにあるであろう「境界」も新しく指している、と考えてみます。
結局祝玖寿で通して伝わった気がするのは「ミュージカル刀剣乱舞の刀剣男士は私たちと同じ線上に立っている」「ともに歩んでいるから刀剣男士が存在できている」ということです。他の2.5次元作品でもキャラのまま観客と繋がる・カテコがきっとあると思うのですが、刀ミュもこれを特徴の一つとして持っています。これをわざとバラし、内部を見せることでキャラを最後まで通す刀ミュの核を崩し、それでも残る部分、残したい部分=アイデンティティ・メッセージを見せたかったのではないか、と考えました(無理やり)。
加州のカテコから始まるクライマックスの構成は、役者さんが演じている刀剣男士ではなく刀剣男士そのものが話している、歌っているものだと感じました。加州のカテコのあとには役者のインタビューは入りません。刀ミュシリーズの作品全体が現実という時間軸のうえに立っているから、役者がそれを引き受けずに済むからです。刀剣男士が発する言葉そのものが、現実に支えられているので実(じつ)になります。
その点パライソのキャスト陣には作品が現実と異なる繋がり方をしました。つまり、
インタビューは、初演でコロナ禍という災いの時代に振り回され作品が現実から切り離されたパライソを説明するものだった。ミュの刀剣男士の姿がパライソ公演内に留まってしまい、現実に立ち上がらないままだったことを加味したものである。そのため今回の公演で作品と現実とが、役者とキャラとが同化する過程を描きアイデンティティを表明するための仕掛けだったのだ、
などと仮説を建てられるのではないでしょうか。(超持論)
彼らの言う「すべきこと」とはなにか
最後の最後、踏む地を定めた彼らが「すべきことをする」と全員で宣誓し、はじまった歌はなんでしょうか。
そう、親の怒号よりも聞いた刀ミュのテーマ曲、刀ミュのアイデンティティと言っても過言ではない「刀剣乱舞」です。
彼らの使命であり「すべきこと」とするものが歌って踊ることである、という刀ミュの根本の根本を収集することもできるわけです。
だからこそ、幕末天狼伝の加州のカテコと今回の公演の最後の最後に流れる加州の陸奥一蓮のカテコは繫がり、公演は終了することになります。加州が言った通り、刀剣男士と観客が近くで触れ合える公演が実現しました。
公演が終了しても幕が降りず、公演で流れていた時間はぷつりと切れることなく、ゆるやかに公演を見終えた私たち観客の時間と溶けて繋がれます。
刀ミュの世界観と合わないと思えた客観的な資料である映像が、今回の作品を〆るキーとして登場した。カテコ映像が逆に刀ミュという世界観を補強したのだとも言えます。
九周年特別曲の最後には、刀ミュシリーズの第1部で流れるお決まりの音が流れています。作品がはじまる合図と言いますか、第1部の場面転換などで使われている、「明らかに劇中の世界が始まる合図」であると思います(と書いていましたが1週間以上経ち読み返すと、本当にこんな音あったっけ……と思っている自分もいます。どなたかあったかどうかもう一度お教えください……)。これがライブパートである第1部のはじめの曲の終わりにあるのはなんとも示唆的ではないでしょうか。ライブパートすらも劇中である=刀剣男士は私たちと同じ時代に立っていて公演もライブも行っている。ミュージカル刀剣乱舞そのものが直接時代性を引き受けて成り立っているのです。
さて以上のことより今回の公演は、
◎真剣乱舞祭 2022ではまだ時間が空いておらず、見えなかったコロナ禍の刀ミュ像を少し落ち着いた現在振り返ることができ、コロナ禍の清算・丁寧な振り返りをした公演である。
◎刀ミュの刀剣男士・世界観はきっちりと作品内で収まるものではなく、常に(商業的になどではなく刀ミュ作品そのものの性質として)観客・現実世界に依拠し続けるものである、という刀ミュのアイデンティティの再固定をした。
◎ミュージカル刀剣乱舞が9年で導いた刀ミュのアイデンティティについて、また今後どういったスタンスで歩を進めるのかの表明の場である。
という本公演の考察を導き出せるような気がします。
しかしまだ微妙に考察しきれていません。
私の中でへし切長谷部がずっとひっかかっているからです。ということで、
◎ミュージカル刀剣乱舞が9年で導いた刀ミュのアイデンティティについて、また今後どういったスタンスで歩を進めるのかの表明の場である。
という考察については、もう一つの疑問点
②へし切長谷部が背負った本公演の意味とはなにか。
という観点からも考えてみたいと思います。
②へし長谷部が背負った本公演の意味
さて、ようやく②について書きたいと思います……。長すぎる。自分でキレてしまう。
今回の公演は誰が見ても贔屓目なしに、へし切長谷部がなにかをめちゃくちゃ背負っていた公演だったかと思います。
冒頭の本公演の冒頭でのセリフ、第2部の歌唱曲では明らかに長谷部だけが浮いているのではないかと思われる刃選も目にすることになりました。IGNITIONを筆頭にへし切長谷部は明らかにミュ本丸が誇る素晴らしい歌唱担当のうちの一振りでしょう。しかしそれを鑑みても、ここまで公演中メインに据えられるにはなにか理由があるのではないかと考えてしまいます。ということで2部のなかの長谷部の動きを中心に、長谷部が背負った本公演の意味とはなにか、を考えることから先ほどと同じく公演全体の狙いを見てみます。
浮き続けるへし切長谷部
「ひとひらの風」では『幕末天狼伝』のメンバーに合わせ、頭が上がらない大ベテランの今剣ちゃんと大御所感が満載だった髭切、そしてへし切長谷部による歌唱でした。私がへし切長谷部だったら(?)刀ミュを代表する刀剣男士に囲まれての歌唱は緊張しすぎて絶対に歌い始め一発目の音で声がひっくり返り、完全にその場から退場していたと思います。当たり前ですが歌唱されたへし切長谷部はプロの歌って踊る本丸のへし切長谷部さんでしたので、それはもう聞き惚れました。面子を観ても作品名を聞いても幕末天狼伝の刀剣男士はベテランの方々だとイメージがどうしてもあったので、この作品もコロナ禍の作品(再演)だったんだと少し驚いていました。昔を懐かしむ刀剣男士たちの姿を目にできたことが嬉しかったです。
今剣は最古参の刀剣男士ですし、参加する刀剣男士の顔ぶれが大きく変わったなかで髭切も平安刀という立ち位置やつわものでの立ち位置などから、ほかの年一公演での鶴丸と同じような立ち位置を請け負ったのかなとも感じました。そもそも髭切は前半期間のみの出演でその後小狐丸に公演をバトンタッチします。髭切の立ち位置=オリジナルメンバーである小狐丸の立ち位置であると思うとなおのこと説得力のある刃選です。
というところでの、へし切長谷部。
ほかのへし切長谷部が登場した歌を見てみましょう。
「よみびとしらず」「己映す鏡」、そして全員での歌唱曲にはなりますが「かざぐるま」です。
まず「よみびとしらず」に関してですがもちろん、彼が大活躍した公演『花影揺れる砥水』の作中最後の曲なので、スポットで本公演に参加する長義を除くオリジナルメンバーは歌唱に参加していました。ここに明石国行と南泉一文字、源清麿と長曽祢虎徹も参加するのもじんわりとくるやさしさが一層溢れた曲になっていました……。それぞれの曲に公演メンバー以外の刀も参加していますが、それぞれに歌う曲が男子たちの物語に重なっていたりして、じっくりと見てしまいます。
さて、
へし切長谷部も同様に公演に出なかった、『陸奥一蓮』「己映す鏡」に登場しています。
こちらもへし切長谷部が少し浮いている気がします。大包平と水心子正秀は勿論この公演のメンバーですし、大和守安定は加州清光の持ち回りをしていると考えらえます。陸奥守吉行は公演発表時衝撃が走ったように、公演に登場しなかった二振りの初期刀のうちの一振りです。ただ歌仙兼定とは異なり、この公演前から登場していましたし『陸奥一蓮』とあるように題字に陸奥守吉行の字もあるわけです。じゃあここにいない歌仙兼定は……という話題をXにてお正月に多く目にしました。要するに陸奥守吉行が出てくるのも、タイトルや初期刀という括りから見ると不思議ではありません。今剣に関しても、三日月と同じ三条の刀であること、刀ミュシリーズのオリジナルメンバーであることから、「やっとここまできたのか」という歌詞を(歌詞本来の意味とは離れるのかもしれませんが)誰よりも突き抜けて歌える刀剣男士でしょう。
そしてそこに、へし切長谷部。
新しめの作品に登場するへし切長谷部が、なぜこの立ち位置にいるのでしょうか。聞き惚れる歌唱力以外に、なにかがあるはずです。
へし切長谷部と髭切・小狐丸の対比─へし切長谷部が示唆するもの─
焦らすような書き方で申し訳ないのですが、加州のカテコ映像のあとに流れる「かざぐるま」でもへし切長谷部に目が惹かれます。
それもそう、歌い始めがへし切長谷部だからです。
先述しましたが、コロナ禍・コロナ後の作品を歌い続けた2部のなかでここに「かざぐるま」が登場するのは、この 曲に祝玖寿で伝えたいことが乗っているからだと考えています。刀剣男士は目を背けずに人が日々生きようとするさまを見続けている。
へし切長谷部の本公演での立ち位置には、刀ミュのこれからも走っていく意思、私たち観客・人間側などを重ねて見ることができます。
第1部、第2部の両方通して、髭切とへし切長谷部は対比的に動いていました。
煽り合っていましたし、2部では「誰も教えてくれない」「かざぐるま」で刀を抜き相対していたりもします(「かざぐるま」でのてんえど組や今剣、にっかり青江の立ち位置からも言いたいことはいっぱいあるのですが、今回はへし切長谷部と髭切だけに留めておきます。なにより記憶が曖昧です……)。加えて髭切とともに今後髭切と交代で出演する小狐丸も合わせて考えてみると一層のこと、「ミュ本丸を長く支えている男士」と「新しく刀ミュをともに担っていく男士」の対比にも見えます。
音曲祭はガラコンサートでもあるため刀ミュの歴史を懐かしむ要素も多くあります。来年が10周年ということで、いよいよでっかいなにかがやってくる!という期待もあります。
実のところ、この公演が発表された当初、なぜ音曲祭を10周年記念で行わないのかとても不思議に思っていました。5周年で行われた前回のことを踏まえると、10周年ときりが良いところで行った方が良いのではないかと思ったからです。
しかし今回のへし切長谷部の立ち回りから、10周年記念公演は懐かしむものではなく全く新しいなにかを見せてくれるものになるのではないかという期待が立ち上ってきました。
へし切長谷部は懐かしみながらも、つま先は常に前を向いている刀ミュ運営の姿勢を端的に表していたのではないでしょうか。昔を懐かしむ曲でもあった「ひとひらの風」、諦観しながらも人の時間をともに歩むことを示してくれる「かざぐるま」、そしてここからはじまるんだ、と歌った第1部冒頭特別曲での役回り。「新しくともに刀ミュを担っていく男士」としてのへし切長谷部の存在が光ります。
ついでに書いとくこじつけ その1─へし切長谷部と花影はネタバラシに巻き込まれない─
これは書きなぐりですのでこれ以上の考えすぎこじつけ論も展開しておきます。花影以降、本公演の脚本家さんが交代されたことを非常に大きな出来事として受け止めている自分がいますのでこじつけチェ~ンジ(すり替え仮面のノリです)をさせていただきます。
花影以降、シリーズ本公演の脚本家さんが新しくなったことで刀ミュの世界観に多少なり変化があったことは明白でしょう。どちらの作風も大好きなので交互に是非見せてほしかったという思いもありますがこれは独り言です……。へし切長谷部は花影の部隊長として作中活躍を見せました。転換点といえる作品のリーダーであったわけです。
また、コロナ禍・コロナ後を受け止め振り返ろうとした祝玖寿の姿勢に100で共鳴できている刀剣男士は、やはりコロナ禍・コロナ直後までに公演に登場してきた刀剣男士たちでしょう。コロナ禍の公演を経験せずに上演することのできた花影(花影にも勿論影響はあったかと思いますが、前作品たちと比較してコロナ前に近しい情勢での上演だったのではないか、と考えています)の刀剣男士たちは、この点で浮いているのです。
今回の公演で刀ミュが打ち出そうとするアイデンティティや観客との歩み方を、ほかの男士たちは自らの経験を咀嚼し身体の一部としたとすれば、比較的最近私たちの前に姿を現した花影男士たちはそれができません。刀ミュの歴史というミュの刀剣男士としての血肉になる物語を取り込めないのです。某刀剣男士の言葉を借りて逆に言えば、花影の男士たちはまだ刀ミュの語り種を拾っている最中であり、刀ミュをそれぞれの物語として十分な語り草にできていないとも言えます。
そのため、パライソのネタバラシからも一番距離があり、この演出の効力が薄い刀剣男士たちでもあるのです。
刀ミュが祝玖寿で壊した刀ミュ自体の構造にがっつり組み込まれていなかったからこそ本公演での代表的な立ち回りを任されたのかもしれません。
もしくは、もうすでにほかの男士たちが咀嚼しなければならなかった要素を身体を構成する一つの内臓として持ち、生まれてきたような感じもします。新しい遺伝子、というのでしょうか。なんか言葉遣いもあいまって怪しい感じが出てきました。
ともかく、花影の男士たちはこの公演で壊して立て直された土台の上に、そもそも立っていた男士たちだったのだと考えます。だからこそ、花影の男士たちは刀ミュの振り返る役割ではなくこの先を歩き続ける役割だったのかなと思います。
ついでに書いとくこじつけ その2 ─へし切長谷部が祝玖寿で請け負った「役割」─
ついでにさらなる捻じ曲げ論も殴り書きますが、へし切長谷部という「審神者のそばにいつもいる(これは私個人が抱いている長谷部への非常に簡潔な印象になります)」イメージをゲームはもとより各メディアミクスでも強く持つ刀が、鬼を斬った刀や稲荷明神の援助により生みだされた刀と対立する本公演は、刀ミュの置かれている状況の比喩とも取れます。
髭切の持つ鬼を斬る逸話は、力あるものたちが行ってきた討伐・征服のことに繋がり、そのほかの歴史的出来事も相まり、為政者に振り回された刀だとも思っています(かなり飛躍・簡潔さ・偏見があるかもしれません)。つまり体制側・権力側という役割づけが安直ですができるのではないでしょうか(超飛躍)。小狐丸の稲荷明神の助けにより打たれたという話は、超人的なエピ―ソードであり神≒自然といったイメージも出てきます(考えすぎなんです……)。
この二振りからつい読み取ってしまうのは、コロナ禍というどうにも太刀打ちできない状況・病と、それに伴った演劇界・刀ミュにかかった制限です。この二振りと立ち向かうへし切長谷部は、コロナ禍を経て前に進み続けるミュージカル刀剣乱舞それ自体をなんとなーく表しているのかもしれない、と感じました。
もちろん観客の前に姿を現したのがつい最近であるへし切長谷部がこれを担うのはなんとも無理やりではないかとも思うのですが、「審神者のそばにいつもいる」、このことを強く態度として見せてくれる刀剣男士として、祝玖寿で伝えたい「ミュージカル刀剣乱舞の刀剣男士は私たちと同じ線上に立っている」、「ともに」いることで刀剣男士たちが存在できている、という点を重ね引き受けることができるのではないでしょうか。
なんにせよこれらの点でもへし切長谷部は「これからの刀ミュ」感を引き受けてくれています。
ちなみに祝玖寿冒頭で公演全体のはじまりの声を高らかに上げるのもへし切長谷部です。
おわりに─10周年に向かって─
さてさて、
◎真剣乱舞祭 2022ではまだ時間が空いておらず、見えなかったコロナ禍の刀ミュ像を少し落ち着いた現在振り返ることができ、コロナ禍の清算・丁寧な振り返りをした公演である。
◎刀ミュの刀剣男士・世界観はきっちりと作品内で収まるものではなく、常に(商業的になどではなく刀ミュそのものの性質として)観客・現実世界に依拠し続けるものである、という刀ミュのアイデンティティの再固定をした。
◎ミュージカル刀剣乱舞が9年で導いた刀ミュのアイデンティティについて、また今後どういったスタンスで歩を進めるのかの表明の場である。
②のハテナからこの仮説(妄言)への補強ができたでしょうか。
コロナ禍の振り返りと清算を丁寧に行う。
しかしその軸に、へし切長谷部を置く。
この先を背負いともに歩むこと(=刀ミュのアイデンティティ)を引き受けてこの公演で立ち回る、新しく私たちの前に現れたミュ本丸のへし切長谷部という「役割」が見えてきました。
懐かしみ今までを讃え祝うだけでなく、確実に一歩一歩大きく踏み出していこうとする刀ミュの意志を感じました。
刀ミュを刀ミュ自身が問う、とまでは行かないのかもしれませんが、刀ミュシリーズが踏み立っている足元を見て刀ミュとしての全体像、存在を具体的にした作業の結果がこの公演を通して、私が見たものなのかもしれない、そう落としどころを見つけました。
5周年の音曲祭で黎明期を振り返り、大きな転換点となったコロナ禍・コロナ後の公演を振り返る9周年の音曲祭。刀剣男士が私たち現代の観客とどう繫がり続けてくれるのか、そしてミュージカル刀剣乱舞としてのこれからの姿勢を表明した公演でした。
そう、今までを振り返り自分の足元を見る。次に行うのは踏み出すことです。振り返ることを存分に行った今回の公演。来年に待っている10周年記念公演では、これを踏まえて全く違う話をし始めるのではないかと予測してしまいます。この予測が上手いこと合っても、ぜんぜん違う内容だとしても、またこうしてねちゃねちゃと捏ねてつなぎ合わせていくでしょう。刀ミュ陰謀論者なので……。
思い込みと妄想によるこじつけでろくろを回し続けましたが、やはり自分で読んでいても剛腕でスプーンをへし曲げて「はい!マジック!」みたいなことをめちゃくちゃとやっているなと思います。
怖いか、刀ミュ陰謀論者のこの私が。
大した知識もなくにょろにょろと記号だけを組み合わせてにちゃにちゃしているオタクが。
刀の来歴など本当に詳しくなく、刀ミュの歴史に関してもかなり疎いです。そのため、「いいやこれは違うだろ!!」と思われることが山のようにあると思いますが、ぜひそれを文章にして考察をあげていただけると大喜びいたします。
ほかにもいろいろと考えたいことがありましたが、サンバを踊りながら1週間過ごしていると全部飛んでいきました。配信が買える余裕が出てきたらもう一度確認してみたいと思います。
誤字脱字などは随時修正いたします。
タイトルもイマイチなので変更するかもしれません……。
内容に関しての修正を入れたくなった場合は、うーん、そのとき考えます。
とにもかくにも、もしこの超長文をここまで読んでいただいた方がいらっしゃれば、お付き合いいただきありがとうございました。聞いてほしかったひとりごとでもあるので、読んでくださった方がいらっしゃるというだけでとても心が跳ねます。他の方々の受け止めを読むのも最高に楽しいです。みなさんの感想もぜひお聞かせください(Xなどなど……)。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?