にょろちゃん。真面目に。
にょろちゃんも私も、ひたすら当たり前に真面目に生きて来た。
大学の入学歓迎コンパ、昔だから、まで、つまりあと少しで19歳の誕生日まで、お酒は一滴も飲まなかった。
高校の担任が、夜眠れないならワインを少し飲んでみたら。
と、アドバイスを下さったが。
私が通った高校は、長野県最後の県立の女子高校だった。
私が卒業してすぐに共学になったけれど。
当時は生徒はみんな真面目でした。
ほんの2、3人茶髪で、強制でない制服のセーラー服のスカートが長いくらい。
制服は廃止されていたけれど、ほとんど全員が元制服のセーラ服を持っていた。
何故なら、2年の文化祭で、2年全員でこれまた伝統あった、
信濃の春秋。
という踊りを踊らなくてはいけなかったから。
練習も女の厳しい先生の下、大変だった。
夏だもの。
セーラ服も、冬服、夏服、さらに半袖の夏服と3着持っていた。
真面目で自由な高校だから、夏はセーラ服で足はサンダルで通学した。学校内もサンダルでokでした。
私は確か布制の、オレンジ色のサンダルを履いていました。
にょろちゃんに、夏のセーラが似合うのだけれど、ママが捨てたのか1着も残っていない。
もう一度、あのセーラ服とお目にかかりたい。
ママも同じ高校でした。
ただしママの青春時代は、戦争まっ最中。
兵隊さんの軍服を縫ったりで授業どころではなかったと、何度も話していました。
飯綱高原まで、薪になる木を取りに行ったとか。
今はどうなっているかな?
病気で引きこもりでわからない。
昔の七曲がりという、急な坂道を登り降りしたのです。
私は中学は、信州大学附属長野中学に行きました。毎年、秋の遠足が全校で、飯綱高原の大座法師池だったから、
毎年、この七曲がりの坂道をやはり登り降りしました。
きつい坂道です。
高校は2年から、進路別に別れた授業で、私は国公立文系でした。
毎週土曜日の放課後に模擬試験があり大変でした。
私はピアノの練習、毎週善光寺下の姉弟子先生の下見レッスンがあり、
月に一度、東京吉祥寺の先生の下にレッスンに通いました。
ハードだった。
日曜日に日帰りで、翌月曜日の1時間目が体育で、担任がフォローして下さいました。良い先生でした。
お亡くなりになり、お参りにも行けず申し訳ございません。
デートも無し。
クラブ活動で、大好きな考古学の郷土班に入りました。
代々、県立須坂高校の郷土班と交流があり、
私は班長で、私の高校から3人、須坂高校から2人くらいのいわゆるグループ交際みたいでしたね。
須坂高校は男性。
清く美しい交際でした。
ひたすら真面目に生きて来て、
62才になり、病気でお金がない。
悔しくてたまらない。
我が家を出たらおしまいですから、必死です。
今日はひどい雨。