あの国の「誰か」と出会うことで、あの国の「あの人」になった。(1)
「アフリカのどっかの“誰かが”餓死してたとして、お腹を空かせて死んでたとして。明日、それを聞いても多分、何もしない。」
「インドのどっかの“誰かが”レイプされて殺されて泣いてたとしても、可哀想だなぁと思う。」
「そして次の日には忘れちゃってる。」
「中東の国で“誰かが”撃たれて痛い痛いって泣き叫んでたとしても、明日忘れちゃう。」
なんでかって言うと、苦しんでる「誰か」だから。
僕は、出会ったことによって
苦しんでる「誰か」から苦しんでる「あの人」になった。
僕はいつも、世界平和みたいな事はできないけど
出会った「あの人」の為に何かしたい。
誰かじゃなくて「あの人」の為に
何かしたいなと思ってやっている。
-葉田甲太さん-
今だに困る質問がある。
「なんでカンボジアなんですか」
「なんでカンボジアが好きなんですか」
特に答えなんてなくて
別にそんな事、考えてもなくて
と、いうか自分でもよく分かってなくて
中身もなく直感で動いてる。ようなことを言ってる。
あとは「好きだから。好きに理由いる?」なんてかっこつけて言ってる。
いや、違う。
最初、自分でも「なんでカンボジアなのか」を知りたくて
たくさん考えてた時があった。
でもいつの日か考えるのを辞めた。
考えれば考えるほど、たくさんの思いが溢れて
たくさんの自分が経験した辛さも思い出して
怖くなる。
逃避した。
これは、自分が忘れないように残す。
あの日あの時の自分の気持ち。
そして、今の自分に繋がるたくさんのきっかけ。
敢えて、かなり長く書きます。
読みたい人は読んでください。
初めてカンボジアに行ったのは2015年8月、19歳の時。
15の時、「僕たちは世界を変えることができない」を見たのがきっかけになった。
日本の医大生がカンボジアの村に小学校を建てるために奮闘する映画。
原作者は葉田甲太さん。
映像には約45年前のポルポト政権の事も映っていた。
キリングフィールドとトゥールスレン収容所。
モザイクなしでリアルに映ってる土に埋まっていた骨や歯、犠牲になった人たちの写真、独房。etc
「名前だけ知ってる国」 だった。
一言で「貧困国」って言われてる国。
「どこかで“誰かが”貧困で苦しんでる国」
正に自分にとってもそのくらいだった印象が
この映画を見て変わった。
カンボジアの事を何も知らない自分からしたら
かなり衝撃を受けた映画だった。
何に一番惹かれたかって、
所々で映る「カンボジア人の笑顔」
「あ、現地の人たちに会ってみたい。」
その想いが段々と強くなって
何を思ってか、10代のうちに行きたいなんて思ったりもして。
あれ? でも、待て待て。
気づいたら18になって半年くらい経っていた。
あと2年もない…。
焦ってカンボジアのことを調べても、
ネガティブな事しか書かれていなかったり
あれっ、てか、航空券ってどう取るの?
パスポートは?どこで?え、VISAって何?
思い返せば、飛行機なんて乗った記憶はない……。
って時に、自分がしたのは
Twitterで呟きまくること。
「カンボジアに行きたい」
「カンボジアに絶対行く」
「カンボジア…」
「カンボジア…」
何度か呟いた時に
ある人がフォローしてくれた。
プロフィールを見るとカンボジアというワードが目に飛び込んできた。
即フォローバックするとDMが来た。
「カンボジアで会社を経営しています。カンボジアに来ることがあれば、連絡ください。」
きっと、これは誰もが思うこと。
見ず知らずの誰か。
「詐欺?怪しい。」
たしかその時のプロフィールには
「カンボジア激動ツアー」
「Givegrow」
そんなワードが書いてあった気がする。
「激動ツアーって何。」
「大丈夫なやつ?」
「なんか怖い。」
返信はしなかった。
確か、このあとに
Yahooニュースにも取り上げられてたツアーだということを知った。
それでも返信はしなかった。
それから半年くらい経った頃、
代表が広島でセミナーをすることをTwitterのツイートで知った。
ちょうどその頃、
自分で学費を払いながら通っていた専門学校を
家庭の事情で強制退学になるかならないか…。
そんな時だった。
大好きなサッカーを怪我で辞めて
やっと見つけた他のやりたいことすらも無くなる。
そんな時。
「DMしよう。」
「突然すみません。セミナーは福岡では開催されないんですか?」
「福岡では開催しないんです。福岡には行くかもしれないですけど。」
あー、福岡では開催しないんだ。
学校の学費や借金の返済で、
とてもじゃないけど広島には行けない。
当時の自分はそう思っていた。
諦め半分、期待半分で
「カンボジアに行きたいと思ってて、セミナーに参加したいと思ってました」
と伝えた。
返ってきた答えは
「それならまずは激動ツアーに参加するべきだと思います」
学校の事、家の事でモヤモヤしてた自分は
「お金があれば行ってます。」
無礼な…。無礼すぎる。
この事は会えば今でも言われる。
本当に申し訳ないです…。
そこで提案してくれたのが分割払い。
自分には有難い話だった。
でも、その時の自分には厳しい。
行きたいけれど、今年は行けない。
その事を伝えた。
当時、すでに19歳になっていた。
10代のうちに行きたいことも、ほぼ諦めていた。
何日か後にまたDMが来た。
「福岡に行くことになりました。〇日の夕方か〇日の朝からお昼で空いてる時間はありますか?」
正直、迷った。
会うのも怖いし。
でも、このチャンスを逃せば二度と来ないかもしれない…。
今だ。
と言っても、怖いものは怖いから
母親に一緒に来てくれないか相談した。
カンボジアに行きたいと言っては反対していた母。
親を説得するのもココしかない!とも思った。
当日、母親と一緒に会いに行った。
カンボジアの現状、どんなツアーなのか、どんな事をしてる人なのか、ツアーの日程のこと。
たぶん、そんな事を話してた。
正直、細かいことは覚えてない。
覚えてるのは、
「カンボジアいきます。」
と、伝えたこと。
この時、2015年5月。
この3か月後の8月、カンボジアに入国した。
ワクワクだけを持って。
現地の人たちに会いたくて。
笑顔が見たくて。
カンボジアの現実を見たくて。
ツアーは5日間。
在住日本人の方に会って話を聞いたり
キリングフィールドに行ったり
日本語学校に行ったり
アンコールワットに行ったり
孤児院に行ったり
夜はメンバーとお酒飲みながら語ったり
一日を振り返ったり
一日の平均睡眠時間は約2時間で激動した。
とにかく楽しかった。
それに加えて、たくさんの衝撃を受けた。
ゴミが沢山落ちている道。
なんとも言えない汚臭が漂う川付近。
便座が無いトイレ。
シャワーのお湯は段々と冷たくなる。
市場の食品売り場には豚の頭がドンっと置かれてる。
昆虫食。
足元に「1ドル1ドル」って駆け寄ってくる小さな子供。
渋滞で止まっている車に物乞いをしに来る、おばあさん。
今はだいぶ変わった。
これからも変わっていく。
自分が会いたかった現地の人たちは
常に笑っていた。
その理由を知った時、何も言えなかった。
「辛くても苦しくても、笑っていれば何とかなる。」
「下向いて泣いてても何にもならないでしょう。」
日本に帰って来てから。
イライラしていた。
いつも通りの日々に戻った。
朝起きて電車でバイトに向かう。
当時は飲食店で働いていた。
専門学校はカンボジアに行く前に
強制退学になっていた。
朝の電車の中は憂鬱で
下向いて目瞑ってる人
スマホいじってる人
学校だりぃって言いながら投稿する学生。
「活気がない」
夜の電車の中はもっと憂鬱で
上司のの愚痴を言う部下
部下の愚痴を言う上司
お酒の匂いぷんぷんのおじさんに
ため息をつきながら俯くサラリーマン。
「僕たちは世界を変えることができない。」
の映画で田中甲太役の向井理さんが言っていた
「コンビニがある、ファーストフードがある、綺麗なトイレがある、シャワーからお湯がちゃんとでる、何を食べても腹を壊さない。たった1週間の旅だったのに、カンボジアから帰ってきて僕は全ての物が違って見えた。」
正に、これだ。
言葉にできなかった気持ち。
カンボジアから帰ってきて久しぶりにこの映画を見て
「あ、これだ。」って思った。
知らない間に勝手に比べていた。
カンボジア と 日本。
カンボジア人と日本人。
モヤモヤしていた原因はコレだ。
生まれた場所が違うだけで
言葉が違うだけで
肌の色が違うだけで
ただ、それだけの同じ人間。
なのに、格差が生まれてしまう事。
生まれた国が違うだけで。
学校に行けない子供達。
仕事がない人たち。
家がない子供達。
その差が嫌だった。
でも、それでも、孤児院の子たちは笑ってんだ。
街の人たちは笑ってんだ。
それが、この人たちにとっては普通だから。
でも、現状は変えたいと思ってる。。。はずだ。
時間が経つにつれて、そのモヤモヤは消えていった。
※あくまで19歳の時の自分の気持ちです。
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