クワロマンティック/クワセクシュアル自認メモ(更新:250129)
最近クワロマンティック/クワセクシュアルという語を知って衝撃を受けた。これやんけ、と。
随時加筆修正しながら内省を図りたい。
自分の中での「クワロマンティック/クワセクシュアル」像はまだ定まっていないし、こういうのって最大公約数的な定義であって、述べられている全部がガッチリ自分の感覚と合致することってないと考えている。
とりあえずしばらくは境目を明確にしないように、グラデーションとして持ち続けることを恐れないようにしたい。
きっかけ
何かのきっかけでこの動画を観て、その勢いでAmazonダッシュで購入。
全編読んで「アワァ……」と声が出た。
私がおかしいか、皆思ってるけど折り合いつけてるか、の二択じゃなかったんだという驚き。
友達全員、うっすら好きだ(「好き」の程度と種類のこと)
「恋愛と友情の区別がつかない/つけない」によるものだと感じられる態度や言動、いわれてみれば思い当たる節は多い。
そもそも付き合いのある友達全員のことがうっすら好き(恐らくは俗にいう友愛だけではない形)で、でもそこに当てはまる各友人に対して、明確に言葉にできる差異はないように感じられる。
例えばAさんとはダラダラ根も葉もない話をできるのが嬉しいし、Bさんとは2人で知らないところへ出かけるのが楽しい、Cさんとは黙っているだけで心地よい。
このようなニュアンスの差や、あとは親交の深さ/会う頻度の加減で「好き具合」みたいなものもあるんだけど、それが「好きの種類(所謂"恋愛の~"/"友達の~")」に関わるようには思えない。
当然相手の性も関係ない。
私は元々ノンバイナリー/パンセクシュアルを自認していたが、もしかして境がないのは相手の性別ではなく相手に対するこちらの感情かもしれない……!?
「友人かそうでないか」以外に区別がないのは性的接触についても当てはまる。
いや実際に接触しまくってるとかそういう話ではなくて(合意、感染対策、望まぬ命対策、たいせつ!)単純に「出来ると思えるか否か」において仲の良い友人全員が私の中では「出来る」に入ってしまうのだ。
「皆の好きと私の好きって違うっぽい」
そんなこんなで「周りの感覚とちょっとずれてる……?」と思い始めた頃、どういう迷走の仕方をしていたか。以下。
・とても好きな友達に「別に付き合うとかじゃないんだけどあなたのことめちゃめちゃ好きなんだよね」と、とりあえず言ってみて、反応をみる
(そしておちゃらけて「これは……恋?何?」まで訊いては総「知らんがな」を食らう)
・他者と恋人として交際するにあたって「(相手の性は問わず)性的接触も交遊も、そういう対人関係を、"恋人"(という立場の他者)の存在を理由に侵害することの無いようにしたいのだけど、それでも交際しようと思える?」とあらかじめ訊く
(後に別の友人に「でもそれ友達で良くない?なんで付き合ってるの?」と訊かれて「好きだし……んん……なんでっすかね……」としか言えなかった)
少し話はずれるが
この↑二つ目、どうやら私は一般にいう「恋人」がそれ以外との交遊関係を制限するものであり、それとは相容れないと思っているみたいだ。少なくとも間違いではないと思う。ただし、その制限を受け入れてもいいと思えるだけの特定の個人に対する特別さ もとい 差異 が私には持てないのかもしれない。
ただここで明らかにしておきたい。私は元恋人たちのことをちゃんと好いている。しかしこの「好き」の様子が多数のそれとはズレているというだけなのだ。
「交際」の擦り合わせが必要だ
私の場合これに尽きるような気がする。
「(○○としての)交際」という名札を、特定の他者との間に付けるならば、それが示すもの共通認識?を出来る限り同じくする必要があるのだろう。
書いててハッしたけど、でもこれってどんな属性や性質や価値観の人同士でも必要じゃない……?
私はあなたじゃないんだから、あなたもだれかじゃないんだから
こういう振り返りをすることができるのも「恋人」という関係を持ったことがあるおかげだな、迷走も間違いじゃないな……
ここはメモ、加筆修正推敲ポンポン
「恋人」「友達」という名札に自分たちの心や姿勢、やり方を制限されたくなかった。でも恋人というか、ひとりとひとりの強い結びつきに憧れはあるんですよ……!