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自分を大切に思えないとき、自分を「ロボット」だと思ってみる。
「自分を大事にしよう」
「自分を愛そう」
生きていくことで、とても大切なマインドだと思う。
私もこれについていくつか記事を書いたこともある。
けれどときどき、この言葉がどうも受け入れられなくなることがある。
そういうときはだいたい自己肯定感が下がっているときだ。だから「自分はなんてダメなんだろう」とか「どうして皆が出来ている”普通”がままならないんだろう」とか、自分を責める言葉が心を蝕んでいる真っ最中のことが多い。
こういうときにどうにか気持ちを切り替えようとして「自分を大切にしよう」と思おうとするのだけれど、とてもそんな気分にはなれない。なんなら「こんな自分、大切にする価値がないわ!!」と思ってしまうことがある。
自己肯定感が下がっているとき、自分に対してとんでもなくドSな対応をしてしまったり、自分自身の人格を否定するという癖は、そう簡単に治るものではないと思っている。
私はドイツに来てからだいぶその状態になることが減ってきたけれど、完全にはなくならない。
きっと生まれながら、そういうマインドに陥りやすい性分なのだと思う。
どうにかしたいのに、自分を「大切に」とか「愛そう」という言葉には拒否反応が出てしまう。
けれど、このままでは思考や心がドツボにハマって、心身がボロボロになってしまうのも、経験上わかっている。
でも、今の自分を大事にするなんて無理!
そんなループに陥ったとき、私が見つけた脱出法がある。
自分を”ロボット”だと思うのだ。
ロボットとはつまり機械だ。
エヴァンゲリオンに馴染みがあるなら、自分を初号機などを想像してもいいし、ガンダムに馴染みがあるならモビルスーツでも構わない。
しっくりくるなら、飛行機や船舶でも構わない。
とりあえず自分は人間ではなく、操縦席がある別の機械だと思ってほしい。
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そして、自分は「 自分 」という”ロボット(もしくは乗り物)”を操縦席から操縦している。
そして今、そのロボットは操縦者の調子が影響して、機体に支障が出始めている状態である、というように考えてみるのだ。
その場合、ロボットにすべき対応はなにか?
まずは操縦席から操縦者を降ろすこと、そしてロボット本体のメンテナンスをすることだ。
もし操縦者が「まだやれます!」「このままでは任務が…!」みたいなことを言っていても、迷わず降ろしてロボットから一旦距離を置いてやってほしい。
ここで無理をさせてロボットが壊れてしまったら、そちらのほうがコストが高くつくし、もとに戻すまでの時間もよりかかってしまう。
そんなわけで操縦者を休ませ、ロボットのメンテナンスに入る。
こんなイメージで、「愛する」とか「大切にする」というような自分を慈しむ感情を一切抜きにして、自分に必要な修理を行うのだ。
こんな風に考えるようになったのは、
先日ある本で「自分の人生の最後まで付き合うのは自分である」という話を読んだのがきっかけだった。
人間は人と関わりながら生きていくけれど、生まれたときから死ぬときまでずっと自分と一緒なのは「 自分 」。だから、自分が「 自分 」という存在に一生付き合いたいと思えるかという観点で日頃の行いや発言をしていこう、というようなことが書かれていた。
ざっくりいうと「 内省することが大事だよ 」という話なのだと思う。
ただ、その説明の仕方はどちらかというと、自分を切り分けるような考え方だった。
この自分という人に見えないところにある「 自我 」と、見た目や言動などを含めた人に見えるところにある「 体 」を分けて見ているような考え方は、私にとってはとても新鮮に見えた。
その考え方でいけば、
人間の体は、自分という「 自我 」を乗せる器。
つまり、操縦席とロボットと同じような切り分け方で自分を見ているのだ。
そしてこの考え方で自分を見つめると、思いの外フラットに今の自分自身に必要な対処ができることに気づいた。
自我を乗せる器であり体でありロボットは、交換ができない一生物だ。
それをどう扱うかは操縦者である自分の自由ではある。
けれど、雑に扱えばボロボロになっていくし、定期的にメンテナンスをすればより良い状態を保てる。良い状態のほうが自分の思い通りに動く期間が長いし、何かの目的が達成しやすくなることもあるだろう。
少なくとも、雑に扱い続けるよりは長く付き合えることが多い。
逆に操縦席の思い(自我)ばかり優先させてロボット(体)のメンテナンスを怠ると、どこかで壊れたりダメージが出て大規模な修理が必要になことがある。
それには時間とお金がかかるし、その間、操縦者は何に乗ることもできない。そのロボットは基本、1人1つだからだ。
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私は自己肯定感が下がっているとき、自分が良い状態になったりいい影響を与えそうなものを避けたくなる。
先述の通り、「自分を労る」みたいな言葉にすら拒絶したくなることもある。
これは自分の中で自我の価値が下がっているとき、自我と体をセットにした「全自分」を労ろうとすることによって、矛盾が出るからなのだと思う。
さっきまで否定していた自分のどこかを急に許してあげることはできないし、なんなら自分の別部分も道連れにしたいと思うくらい、少し破滅的な思考とともにヒステリックになっていたりもする。
そういうときは思い切って、
自分という” 自我 ”と” 体 ”を分けて考えてみる。
分けるのがいまいちうまくいかないのなら、ロボット本体と操縦席などのように、すこし人間とは違うものに例えてでも切り離してみる。
操縦席にいる人の問題でロボットを傷つけることが、
とても独りよがりな行動に見えてくるのではないだろうか。
人は(特に日本で育った人は)自分の体に無理をさせることに、あまり抵抗がない人が多い。
けれど人の体は、アニメなどに出てくるロボットなどと同じくらい精密機器だ。自我の価値やその時の思考とは関係なく、基本的にまめなメンテナンスが必要なものなのだ。
PCに無理をさせてエラーが出てしまったとき、PCに向かって「甘えだ!」と怒る人はどれくらいいるだろう?
全くいないことはないだろうけれど、かなり不思議な光景には見えると思う。
PCが仕事やなにかの創造のために必要なツールだとすれば、
体は人生の創造に必要なツールだ。
自分の体もPCや機械などと同じように、自分の自我から生み出された目的や願望を叶えるためのツールとして、手入れをしながらいい状態を保とうとすることは、善でも悪でもない。
ただツールをいい状態で維持するために必要な作業なのだ。
今の自分に「愛」とか「慈しむ」みたいなエモーショナルな言葉がしっくりこないなら、こういう考え方で自分を手入れするのもひとつの手段だと思う。
そうすれば、自分を「愛する」とか「大事にしたい」なんていう気持ちを持てなくても、自分自身をケアすることができる。
心と体は密接に関係していて、体が健康だと自然と心も落ち着いてくることが多い。そういう意味でも、心がダメなら体の方からケアをしていくというのもひとつの手だ。
本格的なケアをしなくても、心が参ってるからと体まで道連れ的にしないように、操縦席を監視するだけでも、心と体の両方が壊れてしまうリスクは下がる。
2つに分けることで一番修復に時間のかかる、心身両方のダウンが起きないよう防ぐことにもなるのだ。
冬は日の出る時間も少なくなるし、どうしても気持ちが塞ぎがちになる。
年末年始で仕事も忙しくなっているだろうし、年に1,2度しか会わない人とのコミュニケーションは楽しい反面、疲れることも多いと思う。
逆に体の不調からメンタルにダメージがくることもあるだろう。
そんな心身ともに大変な時期を迎える前に、
こんな考え方もあると知っておくと、少し心が落ち着くかもしれない。
この記事が同じようなメンタルになりがちな誰かの役に立つことを祈っている。
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