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背を向けて絵を描いた日、9/11。
アメリカ同時多発テロが起きた年、2001。
当時、高校生だった私は韓国行きの修学旅行が中止になり、ふてくされていた。ひと学年上の兄から、修学旅行の話を聞いていたため、この1年間楽しみに過ごしてきたのだ。無口で本を読むかゲームをしている時以外は、勉強をしているような兄にしては珍しく、得意げな顔で海外旅行の珍エピソードを話してくれた。私の初めての海外旅行はどんな体験になるのだろう、っとワクワクしていたのだ。それが出発の2週間前、アメリカで起きたテロが原因でキャンセルとなってしまった。代わりに鹿児島旅行となり、フェリーで桜島を見に行った。。。
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NY生活が長い人と話しをする際、9/11の思い出に触れる事がある。テロの事よりも、喪に服し自粛する人々や静かな街の様子を話してくれる事が多かった。当時、日本のニュースでもテロの瞬間や、ビルから煙が上っている様子が繰り返し流された。私には、どこかの街の見知らぬ誰かに起こった悲劇、のような感覚だった。そのテロから5年後、ニューヨークを訪れた。この賑やかな街から音が消え、人々が静かに暮していた姿を想像する事で、その深い悲しみに触れた気がした。
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2006年からニューヨークで一人暮らしを始めた私は、小説を読んだり映画を見るのが趣味だった。ある日、「ミリキタニの猫」という本を読んだ。ニューヨークに住むホームレスで、ジミーミリキタニという絵描きのお爺さんの話だった。彼はカリフォルニア生まれ広島育ち。米国市民権を持っているにもかかわらず、第二次世界大戦中に日系人強制収容所で過酷な生活を強いられていた。彼は反骨心から市民権を捨て、1980年代後半からニューヨークの公園や路上で絵を売り生活をしているという人生が綴られていた。
2007年、彼のドキュメンタリー映画が上映される事を知り観に行った。映画のワンシーンで、ジミーさんの生活を助けようと「市民権を申請し直せば社会保険が受けられますよ。」との問いかけにジミーさんは、「市民権などいらん」「アメリカはGarbageだ!」っと突き返している姿が印象的だった。9/11の当日、ジミーさんは煙が上がるツインタワーに背に向けながら、路上で普段通りに絵を描いていたのだった。
上映後、何とジミーさんがステージに登場して、お会いする事が出来た。そして購入した絵にサインをして頂いた。
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私は2004年から2年間、ロスに語学留学をした。昼間は学校で暇つぶしをし、夜はバイト先でお客さんから英語を学んだ。学校の授業は右耳から左耳へとスラスラと流れて行っていた。
週6日でバイトをしていたこのバーは、リトル東京という日本人街にあり、日系人のお客さんが集まる所だった。日本語が話せる日系アメリカ人とのコミュニケーションの中で、人種について様々な事を学んだ。日系人強制収容所についても初めて耳にした。彼らは、この収容所をキャンプと呼んでいた。彼らの両親がこのキャンプで生活をしてた話しなどもしてくれた。無知な私は、「キャンプで生活なんて素敵だね」っと拙い英語で失礼極まりない返しをしていた。見兼ねたお客さんの一人がある日、日系人強制収容所の博物館に連れて行ってくれた。そこで私は初めてキャンプの意味、そしてアメリカで日系人であるという事の現実を学んだのだった。
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お客さん達から、なぜ日本からやってきてここで働いているのかっと尋ねられた。お世辞にも素敵なバーという所ではなく、ローカルが集まるスポーツバーみたいな所だった。私は「ビザを取得するためにロスに留学をした。でもいつかはニューヨークへ行く事が夢だ」と語っていた。仲良くなったお客さんの何人かは、時々チップを直接くれた。それはルール違反だが、ありがたく頂いた。ニューヨーク行きを応援していてくれたからだ。
2006年、レインボーの小さなバックに貯めた$4000を握りしめ、3週間の滞在予定で詰め込んだスーツケース一つを持ち、ニューヨークにやってきた。そしてそのままロスには戻らなかった。今でも1年に1回、当時のお客さんから電話がかかってくる。今では英語だけで会話ができる様になったが、当時みたいに日本語とグチャ混ぜで話すのが楽しいひと時でもある。
9月11日、ニューヨークの空は、2本のメモリアルライトが天にまで届きそうな輝きを放っていた。
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