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禍々しさをいなす希望の光

菅政権のコロナ禍対応に違和ばかり感じている。

怒っているという方が近い。

ただ政策や施策に公の場で噛み付くには視点もソースも偏っている。

だから内容には触れず、進め方にだけ特化して進言する。

リーダーの舵の取り方について思うところを書くのが今日の趣旨だ。

会社員だった頃に先輩から『代案なき批判はするな』と教えられた。

いまもそこは割と忠実に守っているので、
決して文句の羅列にはせず、求めることや理由も書くよう努める。


#先延ばしにせず今を作る

コロナのまん延で多くの人の生活が激変した。

収入を司る仕事への影響は大きなところだ。
働き方もそうだろう。会社員の妻も半年ほどリアル出社はしていない。

飲食関連のライティングを主軸にしていた個人事業の僕はといえば、
外食産業の目に見える衰退に比例して、その受注量も減っていった。

「外食がなければ中食のテイクアウトやデリバリーで」と単純ではない。

やっぱり食文化が発展するのは外食があって、つまり飲食店の繁盛が欠かせない。
新しい食材や調理法を世に提案し、流行を作りながら切り拓かれてきた。

それに続いて家庭用の食品が開発されたり、
「おウチでできる○○」といった簡易版レシピも考案される。

調理も大好きな僕自身、家庭で作るごはん(内食)も身近で日常にあるが、
家庭料理も外食が活発な時の方が、食材も情報も豊富に出回っている。

外食の鮮度と温度も、中食が完全に取って代われないポイントだ。
どんなに工夫してもやっぱり冷めるし、のびるし、乾くし、食感が劣ってしまう。
“外食屋”として始めた飲食店である限り、中食が代替品の域を出ることは難しい。

つまりこれらは、外食産業の衰退にとどまらず、食文化全体が変わった話で、
欠かすことのできない食が変わったということは、生活そのものが変わった話で、
“以前と全く別の新しい世の中を生きる”という認識が必要なことを意味している。

但しこの状況を嘆いてほしいという趣旨ではない。

重要なのはこういった状況が“今だけ変わっている特別期間ではない”ということ。
日々が変わり行く不可逆の過程であり、今で切り取れば日毎に昨日は過去だ。

『また戻ったら』と言うことがあるが、戻ることはない。
良いところは昔を模し、見直されたところは刷新された世の中に毎日なっている

過去を懐かしむより今を受け入れて、次の一歩を踏み出す方がよほど建設的だ。

だから僕もバイトなども交えて仕事を整えながら、新しい生活を日々作っている。
別の世界だと切り替えたら断然、楽しい生活がまた送れている。


#希望の光

さて。
こと新しい生活の中で、コロナ前と今で何が大きく違うのかと問うならば、
チャレンジや試行錯誤における本気度と不確実度の落差かもしれない、と思う。

(伝わります?…ニュアンスが上手く書けないなw、えーっと、)

以前は、上手くいくかは自分の頑張り度合いに起因する部分が多かった。
でも今は、土台になる環境までがまだ不安定で、過去の正攻法が通じない。

過去が整備されたグラウンドでの100m走だったとしたら、
今は器に満タンの水を溢さずにゴールの見えない吊り橋を走り抜くチキンレース。
即効性のあるPDCAを短いタームで高速回転させ続けないと落下してしまう。

・・・・・

そんな時、ゴールらしき光がチラッとでも見えたら、どう思うでしょう?

僕なら、あとちょっと頑張ってみよう、もう少し我慢してみようと思えそう。


#リーダーシップ

世は未だ終わりの見えないコロナ禍の真っ只中。
敵は未曾有のパンデミックだ。政府もそりゃ難しい対応が迫られる。

やってるとか、準備してるとか、それじゃ足りないとかとか、色々あるだろう。

僕らも簡単そうだとは思っていないし、全くやっていないとも思ってない。

この状況下においても緊縮財政志向を緩めないように見える方針とか、
個人情報保護を都合よく逆手に取った感のある給付や支援の物足りなさとか、
一個人の一方的な感覚としては不満も多いが、それは人によるところだ。

でも世の中の状況や立場に関わらず、皆が菅政権に求めているはずのことがある。

“目指すゴールを示し希望の光を灯す”という牽引力の発揮だ。

何をしてどこに向かおうとしているのか、ストーリーとゴールを作ること。
定量で示すことができれば一番良いが、難しければ定性だって構わない。

もう一つは、思いや夢を語り、ビジョンを見せること。
『これが上手くいったら』とか『こんな風になろう』とか。
映画「インデペンデンス・デイ」のホイットマン大統領演説のような鼓舞もいい。

今、政府が日本をどこへ舵取りしようとしているか、代弁できる者は居るのか。

例えば、根拠の説明も最小限に、毎回『3週間』と発せられ、毎度延期する宣言。
なぜ3週間か、3週間後にはどうなっていたいのか、いたかったのか。
回を追う毎に意識も効果も曖昧になる策は、もはや“対策”ではない。

実際はそれぞれに実担当者がいるので、リーダーに走り回れとは言わない。
でもリーダーにはリーダーにしかできないことがある。

リーダーがやるべきことは、信念に共感を仰ぎ、動機付けすることだと思う。

リードするから“リーダー”なのだ。後手で対応していたらリーダーではない。
希望の光は灯台のように目標として灯るから意味がある。
結果を後から照らすだけのサーチライトは、リーダーじゃない人がかざせばいい。

実質的にリーダーが一つひとつの政策を進捗管理するのは難しいだろう。
実際の施策はリーダーじゃない人がそれぞれのタイミングで進めるとすれば、
リーダーは行動よりも、その核となる軸や課題がブレていないかに注力し、
納得感のある一貫した自身の信念を持って、明示するのが役割でないだろうか。


#人々を牽引する言葉の力

リーダー※は発することができるからリーダーなのだ。
もしくは、発する力がある者をリーダーというのだ。
卵が先か鶏が先か、どちらにせよリーダーの大事な要素であることに違いはない。
(※リーダーが個人とは限らず役割を持つ集団の場合も含む)

発する時には責任を負う覚悟が伴う。
「発する」と「責任を負う」は同義語と言えるし、
同義語であることを認識している者だけがリーダーの素質を持つ。

・・・・・

裏を返せば、発することができなければリーダーではない。

発することができないのは、発するほどの言葉がないからか。
発したら追わなければならなくなる責任の重さに耐えられないからか。

『この先がどうなるかわからないから...』では済まされない。
無理やりにでも自身の見解を自身の言葉で語るのがリーダーなのだ。

言葉も覚悟も持てないならリーダーではない。

・・・・・

リーダー自身がやっていない事の責任もリーダーは負わなければならない。
その者が責任を負う事で丸く収めることができるからリーダーになれるのだ。
“責任を負う(に値する)者がリーダー”と言っても過言ではない。

・・・・・

間違った受け取り方をしないでいただきたいのは、
僕は暗にもここで「責任を負え」なんて言っていない。

菅政権が間違っていると思うところを真っ向から指摘し、批判している。

発して欲しいと言っているのだ。
信念を持ち、責任を負う覚悟を伴って、発して欲しいと言っている。

後手後手の行き当たりばったりな状況説明をリーダーに求めていない。

どんな理想のゴールを描いているんだ?
なぜ信念ありきではなく結果ありきで進めるんだ?
なぜ舵取りを他人に委ね、自らの立場や意見を曖昧に隠すんだ?

なぜだ、なぜ自分の言葉で語らない!
敬意を払う必要もないか?

なぜ言葉を使わない。

言葉の力は怖がるものではなくて、信じるものだ。


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