専門家個人の見解
#専門家
最近よく「専門家」という言葉を耳にする。
もちろん昔から専門家はいて、専門家という言葉も使われてきたが、
今まであまりその言葉に違和を感じたことがなかった。
専門家って何ですか?笑
ある程度その業界で仕事をしていると、それなりの知識はつくもので、
意見を求められれば、結構真っ当な見解を述べることはできそう。
どこのレベルから専門家と呼ばれるようになるのだろうか。
たぶん、自分で名乗ることではなくて、他人から言われること。
「私は専門家です」はやや香ばしい。
そして、知名度とか企業規模とか大学名とか受賞歴によるところが大きそう。
「知識量10で知名度5」の人より「知識量8で知名度10」の方が専門家風。
飽くまで僕個人の見解で、以降含め、全然ディスっていない。
#専門家の判断
と前置きをしつつ、ここからが最近頭の隅にずっとあること。
さて、その専門家が何かを判断する時は、
実際のところどんなことをどこまで考慮に入れているのだろう?
専門家の判断って何ですか?
具体的には、定量判断と定性判断の割合というか、
“専門家の判断”は、同じ定量ソースや判断手法の教授を受ければ、
第三者でも大多数が同じ判断を下せるようなものなのだろうか。
(伝わるかな、たぶん違うからこそ生まれているこのモヤモヤ)
言い方を変えれば、人によらない根拠で成り立った判断なのかが気になって。
#個人の見解
僕が仕事をやり込んでやり込んで、道を極めた時に、
“専門家”としての意見や判断を求められたとする。
僕はビッグデータ分析のチームか企業に抽出や分析条件を指示して、
広い情報のインプットを済ませてから冷静な解を出すだろうか?、と。
時間もお金もそれなりに必要になるはずで、
そんな工程が省けることも、専門家たる所以や起用の理由になっていそう。
つまりは、専門家と呼ばれるまでの信頼を得ている状態になった人が、
その時に持っている知識と限られた条件で手に入れられた情報で行う判断、
それが「専門家の判断」なのではないか、と気になっている。
専門家といえども人間なので、
その時に自分が興味や手応えを感じていることや、
身近な人が困っている分野などに、ぐっと意識が向いてしまわないか。
実際僕がこうしてnoteに書いている違和感であり、
専門家の定性的な個人の見解が多分に混ざっていそうだと感じさせる何か、
それは必ずしも、広く収集した情報や多角的視野からの考察にはよらず、
限られた方向に意識が向いた状態で出された判断だったりしないだろうか。
そんなんじゃないよ、
もしもっと時間やお金や人員があったら、
A案かB案あたりを進めたいところなんだけど、
どうしてもそれができない状況なので、
第10候補のJ案を進めることにしたんだよ、…とかだったらまだいいな。
今世の中に発信されている専門家の見解や、それを受けての宣言が、
広く収集した情報や多角的視野からの考察を経た判断によるものだと信じたい。