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アファンタジアであることに気付かない理由

心の中の想像で何らかの外観に意識を向けるとき、心の目に「見える、浮かぶ、描く」といった視覚的な実感を伴うことが一般的とされるが、一方で「知ってる、分かってる、考えてる」といった概念的な実感のみを抱きつつも、あくまで比喩として一般に倣った視覚的な表現を用いる人も少なからずいる(私)。

余談で、日本語の「見極める」や「見抜く」といったフレーズは、別に見なくても見るという言葉を使うし、英語でも「I see(なるほど)」や「See you(またね)」といったフレーズは、別に見なくても見る(see)という言葉を使う。

多くのアファンタジアの人がこれまで自分がアであることに気が付かなかったのは、こういった言語の曖昧さ(抽象性や隠蔽性)や、人はみな同じといった同質性への信念(思い込み)、さらにアであっても特に生存に支障ない(つまり無害である)ことが関係してるのではないか。少なくとも私の場合はそう。

それはさておき、つまり視覚性アファンタジアがもたらす経験は、単に脳の中の情報を処理する方法が「心の目で見る」のではなくて「そのことについて考える」ということであり、方法の違いによって内的な経験(クオリア)も異なるわけだが、アの人もそうでない人も、その情報を認識し理解していることに変わりない。



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