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薪ストーブ

「全世界はもう一度エデンの園となり、人間の力は星空の彼方へ向かうでしょう」

ウェルズ『解放された世界』


毎日点滴してまで生かされる意味は?そもそも自分はそこまでして生かされる人間ではない。明白だ。保証人も身元引受人もいない。家もない。愛も知らない。行政以外に頼る場所はない。彼らは "仕事" でわたしの話を聞く。27歳を過ぎようとしているのは天才でない証拠である。

ほんとうは、ほんとうは、なんだろう。何がほしい?食べ物は要らない。ものにも興味無い。人体もいらない。暖かい布団は眠れない夜を快適にさせるかもしれないが、人体の快楽は思ったよりも内的なものを動かすものではないらしい。寒さに慣れすぎてしまったのか。跡だらけの右腕に次々新しい穴が空いていく。演技する元気は何処かへ行ってしまい、ニコリともせずに小さく返答する。聞き返される。疲れている疲れている助けて。だが自分でしか助けられないことなど到底分かっている。だってなんにもしたくないのに、状況はどんどん悪化して、目の前には死しかないように見える。死なないでとか、生きてれば何かあるかもとかいう正論など、無効である。それさえ分かってもらえない。なんなんだこの物質世界は。
今死神が迎えに来てくれたら、嬉しくて抱きしめてしまうだろう。結婚しても良い。


「我は死神なり。世の破壊者なり」

『バガヴァッド・ギーター』
(オッペンハイマーが晩年にしばしば引用した句)


泣くことに憧れがある。泣いてみたい人生だった。右腕に繋がれたぽつぽつと落ちる液体を見ながらこれから生きたパターンを想像する。過去に聞いた言葉をわたしは一語一句覚えている。そのとき着ていた服や光景までをも鮮明に。払拭できない。抱きしめられれば、思い出す友人とその母親とのハグ。愛のないラブボでのハグ。元旦那とのそれ。人体という有機物は笑っていたかもしれないが、わたしはその光景を前に崩れていった。仮に泣いたら、思い出すだろう、唯一わたしが泣かせたあの男を。秋の日、東北大の大学病院に向かうグレーの歩道の右側で、一度だけ見た母の涙を。枯れ葉が風に吹かれていた。ご出身は?と聞かれると困る。頭にはたくさんの光景。父や母の表情。お酒に雪にナイフに灯油。前述の質問には雪国ですとか答えておく。苦しい。全部なかったことに出来れば良い。誰か、迎えに来て。助けて。けれどそれには記憶が邪魔になる。頭が止まらない苦しさや、記憶が鮮明すぎる苦しさはいくら説明しても理解してもらえない。今、待てないんです。苦しいんです。不安なんです。死にたいんです。来週?来週の話なんてしていません。わたしは今の話をしているんですよ。今、この瞬間の。つかれているんです。どうしてもこの疲れを、苦しさを、重荷を取りたいんです。今。それには人体を離脱するしかないでしょう?物理的に、背負いきれないのだから。

点滴が終わる。しばらく体は動かない。起き上がったら、どうするの?また生きるように歩かなくてはならない。できないよ。死神もいないのに。


「人は炎の暖かさを愛することはできる。だが火傷したいとは誰も思わぬ。ゼンメルヴァイス、これは炎だった」

『ゼンメルヴァイスの生涯と業績』
セリーヌ(医学博士論文)1924


でも知ってるか?
天才は炎に身を投げて死ぬ。



おい何故まだ生きている。
死ななくちゃ。遺書もHDDも用意できてるのに。

「等級が一級なので、4月からJRの切符が半額になります。証明のサインをここに記しておきますね。」

そうか、では4月から半額で買った切符で、電車に飛び込めるということか。



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