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筑波大学を退学して大学院に行きます
2020年に筑波大学に入学し、5年間大学にいたわけですが、このたび、2024年度末で退学することにしました。そして、2025年度からは筑波大学の大学院に行きます。
進学先は筑波大学のデザイン学学位プログラムというところです (博士前期=修士です)。現在の所属が工学システム学類なので、結構大胆な鞍替えということになります。この選択についても記事後半で書きます。また、大学を辞めて大学院に行くというのはどういうことか?についても記事後半で書きます。
1万字超えと長大で、様々な内容が複雑に絡み合った文章です。しかし、私のこの5年間の紆余曲折を、真心を込めてまとめたものです。読みにくいとは思いますが、よろしければお付き合いください。
工学システム学類入学と興味の変遷
私の現在の所属は「筑波大学 理工学群 工学システム学類」です。要するに工学部だと思っていただければ良いと思います。入学前は工学システム学類をとても楽しみにしていたのですが、実際に入ってみると、私にはどうも合いませんでした。
話は中高生時代まで遡ります。中1から高2まで、私はずっとチームでロボットを作っていました。画像のようなヒューマノイドロボットです。
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私はこのロボットのハードウェアを主に作っていました。ソフトウェアを作ってくれたのはチームメンバーでした。私はこの時期、比較的ハード屋だったのです。
しかし、当時の私は (今もですが) 自分の設計・加工力に未熟さを感じていました。そこで自分の進路として選んだのが工学システム学類でした。ここで工学を学ぶぞ!と思ったわけです。
高3になると、受験期ということでチームによるロボット製作の時間は徐々に減っていきました。それで私が始めたのが、競技プログラミングでした (受験期なんだから勉強せい、という話なのですが)。それまで、ロボットをとりあえず動かす程度のプログラミング (Arduino) はしたことがありましたが、"本格的な" プログラミング、PCで動くプログラムを作ったのはこれが初めてでした。これがとても楽しく、どんどんハマっていきました。
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振り返ってみると、高3から大学1年にかけては、興味の変遷の真っ最中でした。ですので、大学は工学システム学類で受けて入学したのですが、入学してしばらくする頃にはどちらかと言うと情報に興味が移っていました。
とは言え、工学が嫌いになったわけではありませんでした。情報学の勉強は独自にやるとして、工学の勉強は大学を使って頑張ろうと思っていました。高3から微分方程式にハマっていたので、微分方程式の難しい授業を取ってみたりもしました。あとは、情報と工学の中間的な領域として、数値解析の授業を取ってみたこともありました。どちらも楽しかった記憶があります (微分方程式はレベルが高くて大変でしたが)。
興味がただ変わっただけなら、転類するなり大学を受け直すなりすれば良かったのですが、私の場合は工学への興味は変わらないまま、情報学への興味が新たに芽生えたという感じでした。ですので、所属を変える選択はこの時期 (大学1年) にはありませんでした。
大学に行けなくなり、オセロAIを始めた
私は2020年4月に筑波大学に入学しました。ちょうどコロナ禍の始まったところでした。大学に行くためにつくば市に引っ越したのですが、肝腎の大学はずっと閉鎖されており (敷地には入れるが建物には入れない) 、大学の設備を使って対面で授業を受けることは1年間ずっとほぼできませんでした。つまり、ずっとオンライン授業だったのです。
オンラインでのコミュニケーションというのは、往々にして失敗します。私の場合、1年の秋学期のテスト形式に問題があると感じたことを発端に、先生の対応に不信感を覚えてしまい、そのまま秋学期の他のテストを受けられなくなってしまったことがありました。ここから徐々に大学への不信感が芽生えるようになっていきました。
今振り返ってみると、大学に入学して環境が変わり、住む土地も変わり、そして孤独 (一人暮らし) であったというのは、それはもう、こういったトラブルに過敏になる要素盛りだくさんでした。運が悪かったと思うことにします。
2020年 (1年生) はこの影響でいくつか必修を落としたものの、調子を崩したのは秋学期中盤だったため、特に大学生活に関係する重大な影響はないままに進級できました。
2021年、大学2年生になりました。この年は私の人生で一番つらかった時期でした。年間を通して修得できた単位が1つだけという悲惨な状況でした (もう一つ、面白そうな大学院の授業を途中から受けさせてもらったのですが、これは当然単位にはなりません)。
2021年の4月末に、偶然オセロAI (オセロの強い手を探すAI) という面白いテーマに巡り合い、のめり込みました。こののめり込み方は尋常ではなく、毎日10時間以上プログラミングするというのを3ヶ月くらい毎日のように続けるほどでした。大学に行けないという現実から逃避していた側面もあったと思います。
そんなことをしていると心と体の調子を崩します。8月にはどうしようもなくなってしまったので、最後の力を振り絞って実家に帰りました。コロナ禍というのは、むやみに移動するなというのが原則とされていましたから、帰省するというだけでも、通常とは違う心理的なハードルがありました。まったく、運が悪いです。それで、実家で2ヶ月くらい休むと若干元気になりました。
ちょうど夏休みの時期に帰省していたので、秋学期から頑張ろうと思ったのですが、それもあまりうまくいかないまま2021年を終えることになります。
しかし、この年は良いこともありました。現実逃避を兼ねて没頭していたオセロAIで、世界1位になれたのです。尋常でない時間と労力を費やしたためか、作り始めてからわずか半年で、世界的な常設コンテストの1位を取れました。
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コンテストで1位になってもなおオセロAIへの興味は収まらず、それから3年半、今に至るまでずっと私の興味の最先端はオセロAIです。
私のオセロAIはEgaroucid (えがろーしっど) という名前なのですが、これは "discourage (落胆させる)" という英単語を逆順に並べ替えたものが語源になっています。以前、QuizKnockで紹介していただいたときには以下のように説明したのですが、実はこれにはもう一つ、別の意味があります。
だんだんオセロAIが強くなって、ある日私をボコボコにしてきて。作ったのが自分なのに、とても悲しくなったんです。そこで「discourage」という単語が思い浮かんで、逆から読んだら「意外とかっこいいじゃん!」と。
2021年の私は、本当に元気がありませんでした。「オセロAIなんてやっても別に大学に行けるようにならないし、はぁ…」といったことをずっと考えていました。あまりにもdiscouragedな状態です。そこで、discourageをオセロAIの名前として採用しようとしたのですが、あまりにも露骨だったので、それを逆順にする (reverse) ことにしました。オセロというゲームは石をひっくり返すものですし、ゲームの別名にリバーシ (Reversi) という名前があります。discourageをひっくり返すのはちょうど良かろうと思ったのです。
そして、この名前には、「いつかオセロAIが私のこの状況をひっくり返してくれないかなぁ」といった気持ちも込めました。実は、それから3年後に実際にこれが叶ったのです。
Egaroucidという名前は綴りが長いし読み方がわかりにくいので覚えてもらえないという重大な欠点があるのですが、このような経緯があってつけた名前なのもあり、個人的には気に入っています。なんだかかっこいいし。
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研究を始めた
2022年、大学に来て3年目になりました。ここでわざわざ3年「目」と書いたのは、留年したからです。学年としては2年生のままです。この記事では、これから学年ではなく、N年「目」という表記に統一します。
2022年の春学期は、心機一転大学に通うことを決意していました。コロナ禍も社会的にだんだんと落ち着いてきて、大学での対面授業も復活してきたというのが理由の一つです。しかし、これができませんでした。4月の1ヶ月だけで大学に行けなくなり、そのまま諦めて休学しました。もう、休まないことには先のことを考えられない状況でした。
休学してみると驚くほどに心が晴れやかになりました。2021年は休学しないままで授業に行けなかったので落ち込んでいたのです。休学することで制度上授業を受けられないということが決定していると、授業に行っていないという状況は何も変わっていないのに、すごく気持ちが落ち着きました。これにはいささか驚きました。
というわけで、相変わらずオセロAI作りに励んでいたわけですが、ある日、一通のメールが来ました。大学の先生からで、私の状況を心配してくださったのです。この先生にはこの後とてもお世話になることになります。このメールから面談をしていただき、私の大学関連の状況やオセロAI制作について話すと、先生に「コンテストで世界1位になったのならその工夫を研究としてまとめてみたら?」と提案していただきました。ここから、研究としてもオセロAIを作るようになります。
この人生初の研究は2022年夏に長崎まで行って発表しました。ここでゲームAIを作る研究者たちと知り合えたのは、私のオセロAI制作・研究にとってとても嬉しいことでした。と言っても、気になることを直接質問できて嬉しいというよりは、ゲームAIという近い領域で頑張っている人がいると知ることができたという点が嬉しかったのです。また、この研究成果を認めていただけて賞をいただいたことも自信に繋がりました。この夏の発表は完全に趣味の研究で当然自腹でしたので、「せっかくだし長崎旅行もくっつけよう」と言って1週間くらい長崎を満喫しました。
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2022年はこういった活動のおかげでかなり健やかに過ごせました。そこで、2023年、大学4年目には一時復学して大学に戻ることを試みました。試みたのですが、ここでも必修の授業でとある先生とのコミュニケーションがうまくいかず、それをきっかけに大学に行けなくなり、また休学することになってしまいました。ただ、それでもサークルなどの団体を通してこれまでよりは大学に関わることができるようになりました。このときの友人には、この後大学院受験に関連して助けられることになります。
技術への疑問と興味の変遷
少し話が変わり、ここからは大学院での鞍替えに繋がる話をします。2022年、大学3年目頃から、私は技術という大きなものに対して漠然と「現状ではいけない」と不安を抱くようになりました。私は技術というものが大好きで、「ものづくりの民主化」と言って無邪気に技術を様々な人に広めていく活動を中学時代から行ってきたのですが、その根幹である技術そのものに対して不安が芽生えてしまったのです。
現代のオセロAIは人間の世界チャンピオンよりも強い (1997年にはすでに人間の能力を大きく抜いていました) わけですが、実は、それは安易に喜べることではないのかもしれないと思ったのです。人間がオセロをする楽しみを奪っているのではないか、オセロというゲームの魅力を奪っているのではないか、といった漠然とした不安を感じました。もちろん、実際は現代でもオセロを楽しむ人が (私を含めて) 大勢いるので、そのような不安は杞憂なのですが。ただ、最近知った情報によると、1990年代、人間とオセロAIがある程度拮抗していた時期には、多くのオセロプレイヤがこのような不安を抱いていたようで、色々な (幸せとは言えない) 出来事が発生したようです (私は2001年生まれなので当時のことは調べたり伝え聞いたことしか知らないのですが…)。
さらに、2022年はお絵描きAIが活発に発表された時期でした。私自身は絵を描くことが滅多にないし、お絵描きAIの技術面にも特に興味がなかったので、直接何か強い感情を持つことはありませんでしたが、それでも様々な人たちがお絵描きAIに対して強い感情を持っていることは感じ取っていました。これは技術と人間の仲が良いことを願う私にとっては悲しいことでした。前述のオセロAIの不安が、絵を描くという大きな世界で起こってしまったのです。
この不安はオセロAIやお絵描きAIに限りませんでした。技術というのは、残念ながら、戦争に対してとても大きな力を持ちます。使える技術であれば何であれ、戦争に投入されうるのです。2022年はちょうどウクライナとロシアで戦争が発生した年であり、この事実が鮮明になった時期でした (もちろん、2022年以前にも様々なところで戦争は発生しているのですが、センセーショナルな形で私に届いたのはこの戦争でした。これはある意味、届く情報の取捨選択が私の知らないところで行われているということで、また別の問題がありそうな気がします)。
前述の長崎旅行では、原爆資料館や魚雷発射試験場跡なども訪れました。また、その1ヶ月くらい前には別件で広島に行く用事があり、これにも旅行をくっつけ、平和記念資料館や、戦時中の毒ガス製造 (と、うさぎ) で有名な大久野島にも行ってみました (もちろん、他にも様々なところを巡っています)。
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この技術への不安を持って戦争遺跡を巡ると、当時の技術者の悲しさ、やるせなさ、そして覚悟を、なんとなく感じ取ることができたような気がしました。
この時期から、技術が人間にとって "嬉しい" 用途に使われてほしい、技術と人間の関係が良くあってほしいと強く願うようになりました。しかし、技術というものは一方通行で、進化する方向にしか動きません。それが私にとってとても頭を悩ませるものでした。
デザインの力を借りたい
技術と人間の関係を良くするという目標の達成には、技術の力だけでは足りないことは明白でした。技術の大きな力を使って引き起こした結果が、これまでのオセロAIやお絵描きAI、そして戦争という、人間と技術が喧嘩してしまっている状況なのですから。
では、何の力を借りるべきでしょうか。そこで思いついたのが、デザインです。
私はもともと、「オセロAIは中身だけを作りたい!アプリの外観なんて作るの面倒!」などと思っていたほど、デザイン (特にビジュアルデザイン) に興味がありませんでした。しかし、オセロAIアプリを作って実際に公開してみると、結構デザインが大事だということがわかりました。ここで言うデザインは、ビジュアルデザインはもちろん、ユーザがどのようにアプリを使うかという点の設計を含めた、総合的なデザインです。
中身のオセロAIが数%高速化したというのは、技術的にはとても価値のあることなのですが、(オセロプレイヤとしての私を含め) 多くの人にとって、そこまで大きな意味はありません。それよりも、かゆいところに手が届く便利機能があると良かったり、そもそもこのオセロAIアプリをどのように使えば良いのかを明確に決められている方が、(または自由に好き勝手使える状態である方が) 断然嬉しいのです。これに徐々に気づいていきました。
つまり、オセロAIの中身の技術の進歩はもちろん大事なのですが、それと同等か、それ以上に、ユーザが触る部分が快い状態であることが、とても大事だということです。そんなわけで、オセロAIアプリについては、中身の技術的な進化と表面のアプリのデザインを交互に反復することで改善を続けています。
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さて、話をオセロAIから技術全般に戻しましょう。大前提として、技術というものはそれ自体では何もできません。人間がその技術を "活用" することによって、技術というものは大きな影響力を持つようになります。ただ、この "活用" というのは、人間を幸せにする活用もあれば、人間を不幸にする活用もあるわけです (幸せと不幸を厳密に決めることは難しい、という話はとりあえず置いておきます)。そこで、技術がなるべく人間を幸せにする方向に使われるよう、技術を公開する仕方をデザインすると良いと考えたのです。また、人間側が技術に対して抱く感情も、日々の技術との触れ合いをデザインすることによって、良いものになると考えています。
デザインの力を借りたいと思ったきっかけの一つは、2021年から3年間お世話になったクマ財団での経験です。クマ財団は、分野を指定せず、何かを作っているクリエイターを支援してくれる財団です。ですので、財団生には私のような技術屋はもちろん、芸術やデザイン、音楽、文芸、アニメーション、建築など様々な分野の人が集まります。
クマ財団での異分野交流は、異分野の話を聞くのが興味深いのはもちろんですが、なにより、自分の選択肢を増やしてくれました。これまでは何か課題があったらそれを技術の力で解決してきたわけですが、自分の選択肢が増えたことで、「これは技術ではなく別の分野の力が役立つのでは?」と思えるようになりました。
技術においても、様々な技術について概要だけでも知っておくことで、「あ、こういう課題ならああいう技術が使えそうだな。あの技術はよく知らないけどこの機会に勉強してみよう」という発想が生まれます。これと同じようなもので、「技術と人間の関係を良くするのは技術単体の力では達成できないな。じゃあデザインの力を借りてみよう」と思ったわけです。
そういうわけで、最近は純粋な技術を離れた勉強や模索を少しずつ進めてみています。友人にすすめられたレイアウトデザインの本を買って読みながらポートフォリオを作ってみたりしています。また、オセロAIアプリについても、レイアウトデザインの本を駆使して使いやすくなるよう細かなところも含めて修正しています。また、どんな機能を搭載すべきかも、オセロアプリの設計思想「オセロプレイヤの研究を支援する」を軸に、よく考えて実装しています。
デザイン学学位プログラムを受験した
2022年、大学3年目頃から、これまでの興味である技術から、新たにデザインという領域に、徐々に興味が広がっていきました。そんなある日、お世話になっている先生に大学院受験を勧めていただきました。
私はまだ大学 (学部) を卒業していません。休学や留年を重ねているため、卒業見込みもありません。ですが、実は大学院を受験することができました。
筑波大学のデザイン学学位プログラムの出願資格に関する資料 (2025年度向け) を見ると、以下の記述がありました。
本学の大学院において行う個別の出願資格審査により、大学を卒業した者と同等以上の学力があると認められた者で、22 歳に達したもの又は令和 7 年(2025 年)3 月までに 22 歳に達するもの
私は今年、大学5年目です。つまり22歳には達しています。ですので、「個別の出願資格審査により、大学を卒業した者と同等以上の学力があると認められ」ることにより、大学を卒業せずとも大学院を受験することができました。
私は休学している期間で、オセロAIやその他たくさんの作品を制作したり、オセロAI研究によって査読付き論文を (根気と気合と先生のアシストで) 出したり、賞をいただいたりと、なんだかんだ様々な実績を作ることができていました。これらの成果に助けられました。
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工学分野からの鞍替えということもあり、デザインを研究したいという気持ちを丁寧に文章にまとめ、出願資格審査、書類審査、そして面接を経て無事デザイン学学位プログラムに合格しました。
現在の所属である工学システム学類は、入学後に興味の変遷などもあり、ミスマッチを感じていました。これに深く反省したため、今回は (進学先も筑波大学内ということもあり) 受験前から大学院の雰囲気や研究内容を見に行くようにしました。運が良かったのは、2023年度に入っていたサークルの繋がりで、デザイン学学位プログラム内に友人がいたことです。その友人の紹介でデザイン学内の多くの人と話すことができ、「あ、ここなら (現在の興味でも、興味が少し変わっても) 大丈夫そうだ」と思うことができました。
これらの事前に色々と話しておくという行動は、工学システム学類時代に先生とのコミュニケーションに失敗したことの反省と改善策でもあります。私はどうも多くの学生とは行動原理が違うらしく、それを私自身が正しく認識できていないことがコミュニケーションの失敗につながっていました。冷静に考えてみればそれはそうで、ものを作ることが好きで仕方なくて、勝手にオセロAIを (Egaroucidと名付けるほどに苦悩しながら) 作るのは、かなり不思議な行動だったのかもしれません。こういった私の変わったところを、今後関わりそうな人にあらかじめ (明にも暗にも) 伝えておくようにしました。実際これは効果がある方法のようで、私は工学システム学類の先生方に (過去の経験上) 苦手意識があるのですが、はじめから「私はオセロAIを作っていて、先生のこの研究に興味がある」と言ってお話しする機会をいただいた先生とはとても楽しく議論できました。
まとめとこれからのこと
ここ数年の様々な思考をざっくりまとめてみたら、なんとすでに9000字を超えてしまいました。長すぎますね…
振り返ってみると工学システム学類での5年間は、自分流に過ごせた、かけがえのない5年間でした (まだあと3ヶ月ありますが)。しかし、やはり2021年から2023年頃の、今後がわからなかった期間はすごく不安でした。自分らしく強く生きるというのは、結構難しいようです。ちなみに、デザイン学を受験すると決めたらその瞬間にはまた心が晴れやかになりました。未来について休学でも受験でも、何か決断して決めるとすっきりするのです。わかりやすいものです。
なんだかんだ面白い5年間でした。あまりにも辛かったので同じ思いを他の人にしてほしいとは思いませんが、それでも私の人生にとって重要な5年間でした。授業は結局ほとんど受けずに終わってしまいますが、大学という環境を最大限に活用したと思っています。
すごくお節介なことなのですが、もし今大学で苦しんでいる人がいて、もしこの記事をここまで読んでくださっていたら、大学の活用方法は人それぞれであるということを感じていただけたらとても嬉しいです。全然活用できていないように思えても、実はじんわりと大事なところで自分のためになっていると思います。
と言っても多分困るでしょうから、具体的にすぐできそうなことを2つ挙げます。1つは図書館に入り浸って古い雑誌 (私であれば1980-90年代のコンピュータ事情 (オセロAIを含む) が書いてある雑誌) を読み漁ることです。これは、結構楽しいです。大学図書館というのは、本がたくさんある場所というよりは、資料がたくさんある場所です。手軽に読めないはずの資料が、すぐそこの書架にぎっしり詰まっています。ぜひ読んでみてください。後の時代の存在であるからこそ、過去の文章にツッコミを入れることもできます。楽しいです。真面目な感じで書きましたが、そんなに真面目に読む必要はありません。面白そうな物語を読むといったことでも良いですし、ただ入り浸って昼寝をするというのも、また良い時間かもしれません。私は大学4年目でやっと図書館の面白さに気づいたのですが、もっと早く気づいていれば少しは気が楽だったかな…と思っています。
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大学の手軽な活用方法2つ目は、(筑波大学に限った話ですが) 学内で散歩と昼寝をすることです。筑波大学はとても広いです。そして、のどかです。散歩して、眠くなったらそのへんの芝で昼寝をするだけで、なんだか心が穏やかになります。苦しい時期というのは、たとえオセロAIを作っていても (結果的には自分にとって役に立つことをしていても) 苦しいです。ですが、散歩 (特に速歩き) をしたり、太陽の熱を感じ、土の湿気を感じながら昼寝をしている間は、(私については) 少し元気になりました。元気な時期でも、息抜きを兼ねて散歩することで、何か良いアイデアが思いつくことが多いです。私自身、特にコロナ禍もあって十分に学内を散歩したわけではないのですが、今はたまにやります。おすすめです。
私は大学院で、というかもう今からすでに、デザインの力を少しずつ借りながら技術と人間の関係を良くするべく様々な模索を行っています。大学での5年間は、とても贅沢な時間でした。国立大学ということもあり、様々な人の直接的・間接的な支援によってこの時間を過ごせたと思っています。ここで得たものは、これから様々な形で社会の役に立てていこうと思っています (あわよくばこの長文記事も誰かの役に立てば嬉しいです)。大学が自由な場所で、私はとても嬉しいです。
さて、今日もオセロAIを作っています。