持ち家がないオタクは他界したほうがいい

持ち家=比喩、他界=いわゆるオタ卒業と同義、オタク用語

私は年明けの現場で自担からかなりの好待遇を受けた。

通路が自分の前と横を通るアリーナブロックの角席、オセロならまず一番にとりたい美味しい席を引けたということも相まって自担からの対応を期待せざるを得ない状況に置かれていた。
その一方で、自身の斜め前のスタンド最前に同担がいることも目視していた。彼女に対して敵対心や対抗心といったものとはまた違う、だが友好的かと言われたら別にそうでもないといったような複雑な気持ちを感じるとともに、一応その存在を気に留めていた。

ライブ終盤、真横の通路に降りてきてくれた担当にカンペ内容を120億点で無事に対応してもらえた。
それだけではただの自慢話になってしまうが、本題はここからである。

自分のカンペ内容に完璧に応えてくれた自担は、くるりと私に背を向けてスタンド最前の例の同担の元に向かっていった。
私はその後ろ姿を見て、心から「あー良かった」と思えていた。無論、この良かったという気持ちは自分が対応を受けられたことへの安堵が言わずもがな含まれている。しかしこの感情の内実は主に、スタンド最前というそこそこ頑張らないと座れない席(ここの頑張りが指し示す内容は伏せる)にいる同担がきちんと対応を受けられることへの安堵である。

なお、この余裕は大前提として私が対応を無事に受けられたときに限って発動するのであって無意味に干された日は同担へ矢印は全く向かわず、ただただ頑張り切れなかった自分への嫌悪と担当への底知れぬ不満に染まり視界は暗転する。
ただ、この現象も余裕すなわち後述する精神世界における「家」の存在が大きく関与する。家がないオタクは同担をはじめとする他者を虐げ、悪役ムーブへと突き進み、結果的に自身の魂を汚し始めるのである。
先に言うと、私含む私の友人は皆一様に高潔な魂を持っている且つまともな「家」があるので、オタク的活動によって生み出されたあらゆる感情が他者への加害性にスライドすることは無いと断言できる。

オタクにとっての精神的イメージとして「家」を想定してみようと試みた際に、アリストテレスの四原因説がなんとなく思い浮かんだ。論文じゃないし専門ではないので正確な引用はできないが、以下のようなものである。大体合ってそうな気がするのでそのまま引っ張る。

アリストテレスの「四原因説」とは、すべての物は「質料因」「形相因」「作用因」「目的因」という4つの要素で成り立っているという考え方です。

【アリストテレスの四原因説】
質料因:ある物を構成する材料
形相因:ある物の形や構造
作用因:ある物を現在の状態に変化させたもの
目的因:ある物が目指している最終的な姿

たとえば、家を建てる場合、
質料因は木材や石などの材料
形相因は設計図
作用因は大工の腕前
目的因は現実の家屋

アリストテレスは、「原因となる行為には結果があり、結果となった行為には原因がある」という因果律も提唱しています。

ググったら出てくる

これにピッタリ当てはまるわけではないが、言わんとすることの雰囲気を大体感じ取ってもらえたらだいぶ嬉しい。

従来、オタクが精神病のような扱いをされてきたことには正当な理由があるだろう。精神科医の斎藤環が著書のなかでなんとなく言っていたが(不正確でごめん)、オタクは基本的に幼稚で経験不足、本来必要とされる社会性の諸要素が欠落していると。
私は全てのオタクにこれが当てはまるとは思っていない。一方で、「持ち家が無い」もしくは「骨組みに問題がある家」しか無いオタクは基本的に幼稚で経験不足、本来必要とされる社会性の諸要素が欠落していることは確かであると感じる。
つまり、持つべき精神的イメージの家の骨組みや欠落している部分、本来は一般的な社会生活で補完するべき部分を、オタク的活動という限りなく資本的で商業的な営みで成立させようとする精神構造にこそ問題がある

上述の四原因説を参考程度に用いてみる。

たとえば、(精神的イメージとしての)家を建てる場合、
質料因は 現状手元にあるもの
形相因は 未来へのイメージや理想像
作用因は 自身の行動およびそれに関わる自発的な意思決定すべて
目的因は 人生を包括する抽象的な「幸せ」

人生の主な目的は「幸せ」「満足」「成功」といったようないわゆる善のイメージを孕むことが大半である。目的因の設定から帰納的に他3点も検討すると、作用因は大工の腕前、すなわち目的因に向かう力点を指すため自身の行動やそれに関わる意思決定が当てはまるだろう。形相因は設計図、目的因を設定したり具現化するための漠然としたイメージが適しているだろうか。最後に質量因は目的因をそのものを構成する物質を含む現状の手がかり等を想定しても問題は無いだろう。

人生における幸せや人生の成功を目指すにあたって、以上のものは全て、本来は人間の成長過程で経験する一通りの感情や幸せのイメージ、いわゆる無償の愛によって構成されるものであるように思える。質量因、形相因、作用因、目的因のいずれか、もしくは全てに「お金を払えば得られるもの」がピッタリと当てはまってしまった際の危うさは少なくとも理解されるべきだろう。持ち家がない、家の骨組みが脆いという比喩はここに繋がる。

現在の「推し活」という病は、ここが大きく関係しているに違いない。この精神的イメージとしての「家」の構成に外部的かつ資本的、営利的要素が大部分を占める推し活が部分的にでも関わることは決して好ましいことではないように感じるのは私だけだろうか。

家が無いオタクの末路は悲惨である。

大金を払って座りたい席に座ってなんとか得られた担当からの対応を持ち家の骨組みに採用すると、次に自身が望んだファンサ対応が受けられなかった途端にその家は崩落し、路上生活確定人生いわゆる「路確」に転落する。まともな家が無いことは余裕が無いことと同義とも言えるだろう。
大体にしてそういった状態に陥ったオタクは、その余裕の無さから生まれる悪意の矢印を同担やあろうことか担当自身にすら向け始めるのである。

一方で私自身を含め、私の周りのオタク友達はそれなりに立派な家をすでに持っている。学生生活を適当に謳歌し、家庭環境にもそれぞれ事情はあるものの騙し騙しでやり過ごし、一般社会にもなんとか適応しようとしながら生きている。自称にすぎないことは承知しているが、まあそれなりにマトモな人間が副産物的にオタク行為に勤しんでいる。
つまり私たちはオタク的行為によっては一切構成されていない家を持ちながら、担当をインテリアや装飾品、美術品のように愛でている感覚に近いものを共有している。
複合的な理由によって仮に対応を受けられなかったり、思うような結果が得られなかったとしても、家自体が揺らぐことはなく娯楽の一部である装飾品に小さな変化が起きたにすぎない。逆に言えば受けられた担当からの対応を宝石や絵画のように一つ一つ丁寧に飾る余裕があり、わざわざ他人に見せつけたりするまでもないのである。
例にもれず今回受けられた対応も自身の家を飾る一つの装飾にすぎず、同担の元へと向かう担当の後ろ姿すらもが私の目には美しく映ったのである。

その一方で、持ち家が無い、もしくは推し活という名の支柱によってのみ建てられている家しか持っていないようなオタクは、対応が受けられなかった瞬間に彼女を支える精神的イメージとしての家は崩壊、本来美術品であり立派な家で飾られるべき絵画を段ボールのように扱わざるを得なくなり、仮初の家で路上生活を送らざるを得なくなる。
そしてその絵画もいつまでも彼女の元にあるとは限らず、というかそんなオタクの元に滞留するわけがないので本来の持つべき者の元へと還っていくのが定石である。

また、私の周りのオタクは担当に対して個人的な見返りを要求しない。それ自体が放つ美しさや背景に思いをはせて、時々はその無機質さに打ちのめされながらもどこまでも利己的に(まあある程度はお金も払っているので)自らが嗜好品に望む感情を思い思いに抱えながら、日々オタクとして生活している。
個人的な見返り、あえて具体的に指し示すなら認知や一ファンにすぎない対象への過度な対応の要求は担当を脆い家の柱にすることと違わない。それはもう一種の人柱である。

冒頭の話には続きがある。

私はここで言う、致死量の美術品やインテリアともいえる装飾の数々に圧倒され、余裕の尺度をも超えた満足感によってもたらされた安堵が占める気持ちに浸ることはなく、歴代最高とも言える自担からの対応に気絶した。

いつも連番してくれている隣のオタクに介抱されていたことはなんとなく覚えているが、正直対応されている最中の記憶はいつものことながらかなり朧気である。オタクであれば誰しもが一度は「目的因」それ自体に設定してしまいかねない10秒にも満たないあの時間は永遠にすら感じられるにも関わらず、過去になった瞬間儚く実像を失う。

しかしそこで終わらなかったからこそ、私は当時から2ヶ月弱が経とうとしている今になってこうしてわざわざ改めて書き出している。それほど衝撃を受けた。

スタンド最前の例の同担への対応後(担当の後ろ姿は確かに見送ったが、近距離での同担への対応目視は被弾に値するため見ていない、というかこの時点で気は失っている)、私の元に担当が帰ってきた。
気絶していたので最初はそれにすら気付かず、隣で私を抱いてくれていた友達の「まだいるよ!!!!!!」の声にふと正気を取り戻すと担当は再び私の目の前に立っていた。

この時のことはなぜか鮮明に覚えている。

なぜかまた前に立っている担当と目が合った瞬間、うちわではなく手が差し出され口からは勝手に「ありがとう~…」という発声があった。それに対して担当は、私の手に触れながら目を見て力強く「ありがとね!」と返してくれた。

翌日になって冷静になった私は、あそこでカンペを捲っていたら2枚カンペ消費できたかもなー…と考えていた。でもよくよく考えれば、あのバグった思考回路のなか反射的にカンペという名の分かりやすい対価を選ばず、日ごろの感謝をコミュニケーションとして表した自分って結構褒められるものだなと思った。
それもこれも、絵画を適度に飾りそれを愛でられる家があるからである。担当を通じて必死に柱を建てる必要が私には無い。

同じような体験として、先日のバレンタインイベントでの出来事も覚書として残しておく。

担当とはまた別に、私には好きな女性がいる。アイドルと形容してもいいのだが、彼女への気持ちは一アイドルに向けるそれではなくかなり対個人的なものだ。恋愛感情云々のレベルではもはや無く、ただただ人として好きな対象といえる。
私は基本的にその方と話している時間や写真撮影をしている時間、常に夢うつつ状態である。現場に行き始めて6年目になるにも関わらず、懲りずに記憶を失っている。基本的に話した内容は朧気、撮影した写真の顔は強張りまくり、気絶とまではいかないものの話す内容やらポーズ指定をいくら準備していこうが一瞬で無下になる。視覚聴覚をはじめとする五感の全てがフルに機能した結果自身を構成する器官がオーバーヒートして海馬が停止するのだと思う。
そんな人から直接チョコレートを渡してもらえる時間があった。

普段私は上述のように、言ってもらえた言葉すら断片的にしか覚えていられない。だが今回は一つだけはっきりとした言葉、というよりも一つの発話感覚が忘れられない。
好きな女性からチョコレートを「本命だよ♪」と渡され(営業の類のニュアンスは想起させないでください)た瞬間、私の口からは咄嗟に「ありがとう~、いただきます。」という言葉が飛び出していた。

もう書くの飽きてきたけど、私の持ち家には多分花畑とかもある。

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