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私、あの時の先生と、同じ年齢になりました。

まだ子供だった頃、あんな風になりたいなと思った大人がいます。
本当に少ないけれど。

そのうち1人は、私が大学生だった頃の先生だ。
彼女は当時はまだ講師だった。その先生のゼミに入ったこともあって、もう本当にお世話になったのである。何しろ大学を卒業して、社会人になった私の論文の面倒まで見てもらったのだから。その論文は結局、学会誌掲載の選考には落ちたのだけれども。
あの時のお礼、ちゃんと言ったのかな、私。悲しい哉、もう覚えていない。

今でこそ、こんな風に文章を書いている。
仕事でも鑑定書という形で、やっぱり文章を書いている。

だから、時々、思い出す。

「それは誰にでも出来ることではないのよ!自信を持ちなさい。」
あの時、先生にもらった、この言葉を。

これはもう、個人的な備忘録です。

あ、挨拶!
こんばんは。にゃんちーです。星読み屋さん時々タロット使い。
noteは徒然なるままに、筆ならぬ指を走らせよう。(キーボード打ってるわけだし)
何者でもない私としてを徒然なるままに書こうと思います。

・・・・・・・・・

大学生の頃、私は事実だけを拾い上げて考察し、具体的に分析するのがとにかく苦手だった。数字を追いかけるのも、苦手。今でもそうなのだが。

専攻の関係で、どうしても「史実」と向き合うことが多く、歴史的な事実を「正しく理解する」ということに本当に苦戦した。
高校までの歴史の授業のように、ただ暗記するだけなら良かったのだけれども、大学となると、そうもいかない。

なんで史実を事実のままに理解するのが苦手なのかといえば、妄想が膨らんでしまうからだ。

実際のところ史実とはいえ、今ある学術的な解釈が「本当」なのかは、誰にも分からない。
史実のとなる時代に生きていた本人に聞かないことには、分からない。
もっと言えば、現在から過去という歴史を振り返った時、史実であってもそれはいつだって、未熟で拙く見えてしまうものだ。

しかし史実を把握する上で、この視点はナンセンスだと思っていた。
(私は今でもそう思っている。)
過去を振り返る、つまり現在と過去を比較してしいまうと、どうしたって過去のものは全て未熟に見える。やはり「本当」のことが見えてこない。

例えば不平等条約。
中学の歴史の教科書にすでに出てくると思うのだけれど、これ、「不平等だったのに、どうして条約を結んだんだよ!?」と思ったのは、私だけではないはず。(え?そんなことない?)

本当の意義を知るには、「当時」の視点に立たなければならない。

不平等条約の話で言えば、アメリカに吸収されてアメリカ国日本州にはならなかった、或いは属国にもならなかったわけだ。
アメリカからしてみれば、日本をアメリカ国にしてしまうのが一番都合が良かったはず。でも、そうはならなかった。
鎖国していたあの当時、そうはさせないだけの交渉術と英語力を持った日本人がすでに居たと考えられる。

え、凄くない!?

英語を習ったはずの私でさえ、英語でそんな交渉力ないわよ。
全然ないわよ。

と、まあ、こんな風に想像が膨らみ、もはや妄想と成り果てる。

当たり前と言えばそうなのだろうけど、歴史をみる時、「当時の立場」に立とうとすると、もう想像するしかない。
その時代にタイムスリップして体験してみるとか、出来ないから。
すると、ああかもしれない、こうかもしれない、だとするとあの当時にはこんな意味があったのかもしれない、などとどこまでも膨らむ妄想。
当然、大学といえど学術研究になるわけだから、妄想という仮説を裏付ける資料や史料を探すのだけど。
(資料が見つからなければ、妄想はただの妄想。却下。)

想像が膨らんでしまうせいで、史実をどうしても抽象的にしか捉えられないし書けない。「何があったのか」と考えるのではなく、「どんな意味があったのだろう」と考えていたせいかもしれない。
しかし、果たして卒業論文がそれで良いのかと、提出まで1ヶ月を切ったにいも関わらず、私は悩んでいた。
今思えば、ギリギリすぎる。書き直す時間がないわ、1ヶ月前って!

苦手なくせに卒論でも史実を取り上げ、その当時における文化的意義を追究していた。書けば書くほど、これで良いのかな…、読めば読むほど、抽象的すぎる気がする…と悩むばかりだった。
提出期限が近いこともあって、ゼミ以外でも論文の相談を先生にしょっちゅうしていた。
悩みすぎて禿げそうだったので、もう思い切って相談してみたのだ。

私、いつも書いていることが酷く抽象的になっている気がします…。
(ずーん…)

すると先生は大きな目をかっぴらいて立ち上がり、私の両肩を掴んでゆさゆさしながら、こう言ったのだ。

「それは誰にでも出来ることではないのよ!自信を持ちなさい!」

あんた、なに寝ぼけたこと言ってんの!?気を確かに持て!と言われているような気分だった。
普段の先生はいつもニコニコしていて、まず人の意見を否定しない穏やかな人だったから、本当に驚いた。
先生、そんな感情的に話すことあるんだ、って。

どうでも良いけど、コイツ大丈夫かよ!?って思った時、人って、肩掴んで揺さ振るんだね、本当に。笑


みんなが出来ることじゃない。
でも、だから自信を持ってもいいところなんだ。

そんな風に言ってくれた大人は、私の記憶の中では、先生しか居ない。
でも先生は、あの時、私に「しか」出来ない、とは言っていない。それがまたとても良かった。「あなたにしか出来ない」と言われたら、胡散臭いと感じただろうなと思う。

だからなのか今までも文章を書いていると、頭の中に、ひょっこり先生が出て来てこう言うんだ。

「それは誰にでも出来ることではないのよ!自信を持ちなさい!」と。

私にとって、宝物のような言葉だったのだと思う。

そんなこんなで、抽象的なままに今日まで文章を書き続けている。
そして気づけば、私も、当時の先生と同じ年齢になりました。

私、先生みたいに誰かにそんな言葉を届けられてるのだろうか。

佐野先生、元気にしてるかなー…。

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