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ポンコツのフリするのを、やめる。

ここ1ヶ月くらい、ぼんやり考えていたことがあります。
いつの間にか私は、ポンコツのフリをして生きてきたんじゃないのかなと。
自分がポンコツじゃないと言いたいのではなく、多分、そうやってポンコツのフリしているのが楽だったんだろう。そしてそれは私が自分を守る術でもあったのではないかと思ったのです。

こんばんは。にゃんちーです。星読み屋さん時々タロット使い。noteは徒然なるままに、筆ならぬ指を走らせよう。
(キーボード打ってるわけだし)
何者でもない私として、徒然なるままに書こうと思います。
今回はきっと、自分のことを曝け出すタイプのnoteになりそう。ごくり。そしてこれから書く話は、あくまでもCASE:にゃんちー(こと、私)の話であります。

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ポンコツのフリ。
それは私にとって、普通のフリをすること。

いや、普通がポンコツだって言ってるんじゃない。
普通って、出来すぎず、出来なさすぎずだと思うんですよ。全てが平均的にできるというイメージ。私からすると超絶器用な人に見えます、普通って。

でも普通になるためには、極端に出来るところの一部を封印してしまう。
そして極端に出来ないところを死に物狂いで埋めていく必要がある。
変な話、自分の凹凸をなくそう、まん丸になろうみたいな感じだと思うんです。まん丸が綺麗であり、良しとされていたということでもある。そして、そうなることを周りから求められていた節もあると思います。

「なんでこんな当たり前のことが出来ないの!?」とか、「こんなこと、普通にできるでしょ」とか。普通という名の呪縛。

こう言われるたびに思うわけです、普通とは…、と。
そしてこうも思った。
普通にならないと生きていけないのだ、と。

きっと多くの人が当たり前とする普通のことが私には出来ず、しこたま怒られてきました。小さい頃なんか特にそれが顕著で、普通や当たり前が何かを理解することもできなければ、その普通を実行することもできず、理不尽にぶん殴られたことも多々ありました。
そうは言っても、その良く分からん「普通」とやらにならないと、生きてこれなかったのも私にとっては事実です。

普通に朝起きて、ご飯食べて、学校行って、宿題やって。決まった時間に会社行って、当たり障りなくそこのルールになんとなく従って。帰ってきたらお風呂はいって、歯を磨いて、夜にはきちんと寝て…みたいな。
そんなの出来ねぇよ!と今なら言えるのですが。わはは。

出来ないところを補うのに必死でした。
実際に口にすることもありますが、私はこの30数年、マジで「普通」になることに命をかけてきた。人生の全てを、得体の知れない「普通」とやらに命を捧げちゃってきたのだ。

逆に出来すぎてしまうことは、出る杭は打たれるとか、何故か矢面に立たされるとか、嫌な思いもいっぱいしました。だから封印してしまったのだと思います。
そんな私が、高校にあがる時に掲げたスローガンがこちらです。

日陰の苔のように、息を殺してひっそりこっそり生きていく。

バカみたいですが、本当です。
高校デビューと言えば、華々しくイメチェンして陽キャになる感じですけど、真逆をいきました。とにかく目立ちたくなかった。何をするわけでもないのに目立ってしまうことを、義務教育の間に痛すぎるほど感じたせいでもあります。

随分大人になってからこの話を高校時代の親友にしたら、涙が出るほど笑われましたけどね。
「ないない、座ってるだけで目立ってっから!」ゲラゲラと。ちなみに親友は本当に笑いすぎて、泣いていた。どんだけだよ。
座ってるだけで目立つだと!?私の3年間はなんだったのか…と衝撃でした。
でももし隠さずにいたら、一体全体どうなっていたのかと考えると恐ろしいので、あれはあれで良かったのではと。いや、マジで私の青春返せって自分に対して思いましたけれども。今では笑い話です。

私は自分が世に言う「普通」でないことは、ずっとずーっと昔から知っていました。
なんでそう思ったのか、そのキッカケは思い出せないのだけれど、保育園の桃組さん(多分3歳)の頃に、痛烈に感じたことだけはハッキリ覚えています。

「あ、私、みんなと全然違う。これはマズイ…」と。

そこから私は、普通とやらを模索し、普通になることだけに命かけちゃったわけです。
南無南無。

どんなに辛くても「普通」の型に収まること(収まったフリ)が出来ちゃったものだから、私は何十年と拗らせてしまったわけです。

だからだと思うけれど、いわゆる普通じゃない人を見ると異常なまでに苛ついた。出来ないなんて言い訳だ、しのごの言わずにやれと思っていた。私が出来たんだからお前もやれるはずだ、みたいな。横柄すぎる思考。
普通じゃないことを羨ましいと思ったことはなく、普通にすることが当たり前なのだと思っていた。

振り返ってみると、普通になろうとする私は、相当無理をしていたのだろうなと思います。
しかし幸か不幸か、普通になればなるほど、叩かれることも、理不尽な思いをすることもなくなっていきました。普通のフリをすることで、自分を守ってきたのだろうと思います。

ところがどっこい。
或る日突然、私はその普通の呪縛から解き放たれます。

病院で診断がくだったのだ。
ADHDでASD。いわゆる、発達障害です。

正直、ホッとした。あの妙な安堵感は今でも忘れられません。

普通になれなくて良かったんだ。
やっぱり私は端から普通じゃなかったんだ。

自分の凹凸が分かったことは、もう本当に偶然でしかなかっと思います。
心の病院に行ったのはこれが初めてじゃなかったし、引っ越した先でたまたま行った病院、担当医自身が発達障害当事者でもあり、発達障害の専門家だった。医者にさえ今まで見つけてもらえなかった自分の極端な凹凸が、ここへきて、三十路を過ぎて見つかったわけです。
(あたいの30数年はなんだったんだ!とも思いました。)

凹凸が分かったからと言って急に世界は変わらないし、自分も変わらない。
通院および投薬中は、それはそれで色々ありました。

でも、こうして普通の呪縛が解かれたことは、私にとってとても大きな出来事でした。

私はADHDの診断がおりた当初、例えばTwitterのプロフィールにそれを書いていました。仲間が欲しかったわけでもないし、分かってもらいたかったわけでもない。なんで書いていたのかも、今となっては思い出せません。

けれど、そういう凹凸の激しい自分を許せるようになっていった頃だと思うが、ADHDだとわざわざ書くのをやめた。
なんだろうな。上手く言えないのだけれど、このADHDという事実もまた、掲げてしまうことによって「普通」と同じような呪縛になっていたように思ったのだ。

私はADHDだし、ASDだ。それは今でも変わらない。病気じゃないから治るもんじゃないし、一生付き合っていくほかない。
だけど私は私なのであって、むしろADHDの私しか知り得ないし、それが私にとっての「普通」であり、デフォルトなのだ。
しかしそれを高らかに掲げてしまうことで、なんというのか…、自分で自分にラベリングしているような気がした。今度は「普通じゃない」という新たな型にはめているような。極端な言い方かもしれないけれどラベリングによって、スティグマ(汚名・烙印・差別・偏見)と化していくような気すらした。

通院と投薬をしながら、普通じゃないことをまずは自分で受け入れて、そうは出来ない自分をも許することから始めたのが3年前。

そうやって閉じ込めていた自分を少しずつ受け入れ解放して、すっかりさっぱり元気になった(元どおりになってきた)今の私に見えてきたものが、凸の封印だったのである。
出すぎている、出来すぎる部分の封印。
それはきっと、私にとって伝説の武器なのだと思う。

何十年も封印されし武器は、すっかり錆びている。もう武器の形すら見えないほどに、錆び錆びなレベル。
実際、今の私には、その武器の使い方が分からない。

でもその武器をブンブンに振り回していた時期があったんだよなー、と、ぼんやり思うわけです。それで痛い目をいっぱい見てきたことは覚えているのに、肝心要の使い方を覚えていない。覚えていないのか、これまた、忘れたフリをしているだけなのか。

如何せん、私の封印されし武器には、ポンコツのフリをするという錆びがべっとりこびりついちゃっているのだ。

きっと私は、悔しいかな、どちらに転んでもポンコツなのかもしれない。

普通になることは、私にとってはポンコツ。凸を削っていく作業だから。
凹凸が激しいままの私も、側から見れば凹みが気になって仕方がないのだろうから、やはりポンコツ。こんな風に他人の目を少なかず気にしちゃっている自分がもうすでにポンコツで、くそ悔しい。

でも私の凸を磨いてあげることが、私になら出来ると思うのだ。
どうせ何もしなくたって、凸は凸で目立つのだろうし。私にはそれが凸だと分からないだけであって。

ポンコツのフリを、やめる。

私は凸を磨き上げて、突き抜けちゃった自分を、まだ知らない。
出すぎた杭となって叩かれたことはあるけれど、叩かれなくなるほどに突き抜けたことは、まだないから。

ポンコツのフリをやめたところで、どんな風になるのかすら、自分でも分からない。だって、やってみたことないから。

けれど、自分で自分をポンコツにしていくのも、ポンコツって言うのも、やめようと思ったのだ。
凹みがないように見せるのと同じように、武器なんか持ってませんと隠すのも、もうやめようと。

何十年も埋められて錆びついた武器っぽいものが見つかるまで、愛すべきポンコツなどと、ぬるいことを言っていた。そんな風に可愛がってやることが必要な日々もあったのだとも思う。
でも少なからずそれは、今の私にとって言い訳になっていたし、逃げ道にもなっていた。

いいのだ!錆びてる、錆びてるさ。
でも、どんな勇者だっていきなり伝説の剣を持ったところで、強くはならないし、新たな伝説も作れやしない。伝説の剣を持つには、まだ経験値も鍛え方も足りないんだから。

いや、私はまず、伝説の剣の錆を落とすところからだ。剣なのかも怪しいのだが。もはやこの武器が使えるようになるのかすら、分からない。ブンブンに使っていた時期があるのだから、使えるとは思うけど。

私は、何十年も封印されていたこの伝説の武器をブンブンに振り回している自分を、もう一度見てみたいなと思った。

だからもう、ポンコツのフリはやめるのだ。
普通のフリをするのは、やめるのだ。

なんだこの決意表明は。終わり方が分からないので、終わります。
したらばまたにゃーん!

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