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give and takeの土っぽさ、shareの風っぽさ。

give and take に変わる言葉を考えたら、share になりました。それがすごく風の時代っぽいなと思ったのだという話です。(結論)

にゃんちーです。星読み屋さん時々タロット使い。noteは徒然なるままに、筆ならぬ指を走らせよう。
(キーボード打ってるわけだし)
何者でもない私としてを徒然なるままに書こうと思います。ちょっと星がらみです。

夜な夜なこんなことを考えていたのであります。

give and take という言葉があまり好きではない。
もしかしたら、私がきちんと理解していないせいかもしれない。あるいはこの言葉にまつわる情報に染まりすぎちゃっているのかもしれない。こんなタイトルのビジネス書もあったと思うのだけれど、読んでもない。

そもそも意識的にgiveするというのはtakeを見込んでのことで、その下心に私はゾワゾワしてしまう。
あげたくてあげるなら良い。それはきっと愛とか優しさからくるのだろうから。いわゆる見返りを求めないってやつなのかもしれない。無性の愛。

だけど語られる多くのgive and takeって、等価交換というか、公平という名の下における交換や互譲な気がする。本当にそんな意味なのかなと甚だ疑問なのである。そしてそんな意味じゃないとも思っている。

交換が条件なので、当たり前だけど自分が貰うためには、相手に差し出したそれを相手に受け取ってもらわなければならない。受け取ってもらえなければ、自分も相手からの見返りが期待できないからだ。

私には、もうこの義務感とgiveの強制力が辛い。いらないと言っているのに「遠慮しなくていいから!」と押し付けられる、恩着せがましいあの感じに似ている。

give and takeに見られるこの物々交換っぽさが、すごく地の時代っぽいなと思うのである。
地の時代はこれまで200年くらいの話だけれど、この時代は正に物質的な豊かさの時代だった。何かを形にして、どんどん高く積み上げていくことが時代の猛者であり勝者だった。学歴然り、お金然り。

でも、その時代は終わりを迎えつつある。
(星的にはですけども)

give and takeに変わる、もうちょっと優しい言葉はないのかなと考えた結果、shareに行き着いた。

分かち合う、共有する。

すごい風っぽいじゃん!
ここから先200年は風の時代だ。share の軽やかさが風っぽいと私は思ったのだ。

shareはそもそも交換じゃない。
受け取ってもらわなければこちらが困るので、という相手からの強制力もない。
受け取るも受け取らないも、こちらに選択権がある。shareしてもいいし、しなくても良い。
いらないのに受け取っちゃったなら、余剰分は他の誰かに回してくれたって良い。
お好きにどうぞ、ご自由にどうぞ、という感じがとても心地よいなと思ったのです。

give and takeのように誰かの優しさと、私の悲しみを交換するのではなく、互いの気持ちを分かち合えたらどんなに素敵だろうと思う。もはやそこには与えるだの奪うだのという行為にスポットを当てた解釈は存在しない。その背後にあるものを共有しているに過ぎない。

ふとマザーテレサの格言を思い出したので、これでしめよう。
本当のgiveの意味はここにあるような気がする。

It is not how much we do, but how much love we put in the doing. 

It is not how much we give, but how much love we put in the giving.


どれだけ多くほどこしたかではなく、そのほどこしの中にどれだけ多くの愛をこめたか。
どれだけ多くを与えたかではなく、それを与えることにどれだけ多くの愛をこめたか。

直訳で書いたけれど、きっと、どちらの文の頭にも「大切なのは」とつくのではなかろうか。

giveもtakeも手段に過ぎない。
必要なのは行為そのものではなく、その背後にあるものなのだろうと思ったのです。

風は目に見えない。
葉っぱが揺れれば視覚的に把握することはできるが、実際に風それ自体を目で見ることはできない。そういう見えないものを大事にしていきたいのである。

私は土に埋もれたくはないので、風に乗れるくらい軽やかに生きていきたい。見えないものを感じ取れるくらい、感度高めに生きていきたい。

ん。今日はこの辺で。
したらばまたにゃーん。

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