「キャパの十字架」沢木耕太郎
初版 2015年 12月 文春文庫
これは、ロバート・キャパによって撮られたとされる報道写真「崩れ落ちる兵士」です。
この、スペイン戦争時に共和国軍兵士が敵である反乱軍の銃弾に当たって倒れるところを撮ったとされる写真は、やがて崩壊するスペイン共和国の運命を予告するものとなり、実際に崩壊してからは、そのために戦った兵士たちの栄光と悲惨を象徴する写真となって世界中に広く流布されるようになった。
とりわけ、それがアメリカの写真週刊誌「ライフ」に掲載されることで、世界への普及力は決定的なものになった。
だが、この写真を撮ったとされるロバート・キャパは、それについて死ぬまで正確な説明をしようとしなかった。そのためこの写真に関してはいくつもの謎が残されることになった。
(本文14Pより)
実際、この写真にぼんやりとした違和感を抱く人は少なくなかったのだといいます。
—―本当に撃たれた瞬間を撮ったものだろうか?と。
1・撃たれた瞬間というにしては血しぶきが上がっている様子がない。
2・当時キャパが持っていたライカの50ミリレンズで撮ったならかなりの至近距離で撮影している。3~4メートルかせいぜい5メートルぐらい。しかも、撃たれている兵士よりも若干斜め前の低めのアングル、おそらくしゃがんでいるか、寝そべっているかで撮っている。
このような遮るものが何もなさそうな平原の坂で、実弾飛び交う中、撃たれた兵士よりも前で、しかも敵側を背にして撮っていることになる。
そのようなことが可能だろうか?
3・ここが実際の戦場でないとするなら?ヤラセ演技か?
4・演技にしては迫真に迫りすぎていないか?
ならば、演習中かなにかに転んだ瞬間ではないか?
(私はこの写真、実は初めて見たけど、ぱっと見た心象は転んだ瞬間?と思った)
などと・・。
本作は、沢木耕太郎が足掛け20年に及ぶ細密な取材により、このたった1枚の写真の真贋に迫るという、ノンフィクション、ルポルタージュです。
もう、そこまでやるかと・・その検証はあまり意味がないんじゃない?
と思えるような些細なことまで、疑問、仮説、検証を繰り返し、執拗にあらゆる角度から徹底的に検証していきます。
例えば、スペイン戦争で反乱軍が使っていた銃の弾の重さと速度から、運動量を図り、傾斜する坂を下る兵士をあのようにのけぞらせる力量になるか?
という疑問を数学的に検証するとか。
本当にライカで撮られたものか?同行していたと思われる恋人、ゲルダ・タローが持っていたとされる、ローライフレックス・スタンダードで撮られたものではないか?
という疑惑から、双方のカメラのフィルムの縦横比、トリミングした場合も考慮しながら、構図を検証するとか。
わずかに映り込んでいる遠くの山影と斜面の角度などから、定説で撮ったとされている場所を覆し、別の新たな撮影場所を特定し、3回にわたり実際に訪れ、ライカと、ローライフレックスを持っていき同じ構図で撮ってみるとか。
それはもう、そこら辺のミステリー小説よりもよほど上質なミステリーの様相になっていて、グイグイ引き込まれます。
沢木耕太郎、いままでなんとなくキザっぽい匂いを感じて、食わず嫌いしていた私ですが、
冷静に、淡々と公平に誠実に、表裏を見つめようとする視点。
そうでありながら人間的な暖かさ、ゆるさも垣間見えて。
いやいや素晴らしいです。
さて、結末やいかに・・
言いたいけどそこはさすがに我慢しておきましょう。
同じような疑問を抱き検証をしていた人も世界中にいたらしいのですが、
にもかかわらず、ここに写っている映像の持つ衝撃力によって、その謎が謎として真正面から取り上げられることはなかったそうです。
「その写真が実際に弾丸に撃たれた瞬間の人間を捉えているかどうかにこだわるのは、いささか病的なことであり、枝葉末節のことでもある。なぜなら、その写真の偉大さは、最終的にはその象徴的な含意にあるであって、特別な人物の死のリポートとしての完璧な正確さにあるのではないからだ」(リチャード・ウィーラン)
これがだいたい主流の見方となり、とかくスペインではピカソの「ゲルニカ」と双璧のイコン(聖なる画像)として守られ、沢木さんやススペレギ教授(スペインで本来の文脈を離れて別の意味を付与されるようになってしまった写真を研究する沢木の協力者)による捏造、盗作説などは、今の日本でいうところ「デマ、陰謀説論者」のような扱いを受けたようです。
それでも沢木さんが執拗に検証し続けたのは、あとがきでは「ただ、本当のことが知りたかっただけなのだ」と語っているけど、私は本当にそうだろうかと疑問に思います。
ここからは私の勝手な憶測ですが。
報道というものの危うさを、心象や状況証拠だけではなく、物証をもって証明したかったのではないでしょうか。
写真や動画に写っている映像は、そこにある事実であることに他なりませんが。
しかしそれが真実かというと必ずしもそうではありません。
写真も動画も嘘をつく。嘘をつこうとすればいくらでも可能です。
嘘をつこうとしたわけでなくても、図らずもがな別の意味が付与されてしまうこともあります。
とかく報道写真は、記者のイデオロギーや個人的な信条によって歪曲されがちであり、
政府やメディア自身の検閲に歪曲されがちであり、国民の熱狂に歪曲されがちであったりします。
かのロバート・キャパでさえ、そのような可能性があったとするなら・・。
沢木さんはそれを責めたり、悪いとは微塵も言ってはいません。
むしろキャパに対する愛情は最初から最後まで何も変わりません。
ただ、とりわけ戦争報道の写真や映像を見るときは
見る側の我々が冷静な視点を持たなければならないのではないか・・と。
そんなことを感じたのでした。
追伸。キャパとイングリッド・バーグマンが恋仲だったとは知りませんでした。
キャパが結婚しようといえばバーグマンは承知していたに違いないというほど仲だったそうな・・・。しかしキャパはそう言わなかった。もちろん戦争カメラマンであるということもあったのだろうけど、それだけではなく、元恋人ゲルダに対する、ロマティックな追想だけではないなにか贖罪のような想いがあったのではないか・・と。