「余白の愛」小川洋子
初版 2004年6月 中公文庫
あらすじ
耳を病んだわたしの前にある日現れた速記者Y。その特別な指に惹かれたわたしが彼に求めたものは…。記憶の世界と現実の危ういはざまを行き来する。幻想的でロマンティックな長篇。瑞々しさと完成された美をあわせ持つ初期の傑作。(Bookデータベースより)
小川さんの本4冊目。
こうして読んできて一貫しているのは、隔たった一つことに無心に取り組む登場人物たち。その文章は穏やかで美しく、一見ささいで退屈な日常を幻想的にロマンチックに切り取る。
反面、現実逃避の危うい刹那主義的側面もはらむ。
本作の主人公の「私」は「指」に対して偏愛を抱く。
ある日突然夫が家に帰ってこなくなり、それと前後して耳鳴りに悩まされて耳鼻科の病院に通う主人公の女性「私」。ある健康雑誌が患者を集めて開いた座談会に出席して、耳鳴りの原因の心当たりについて問われても、決して夫のせいとは言わない。耳鳴りも夫が出ていったのもすべては生まれた時から定められていた運命のように感じると淡々と語る。
そしてその場の出席者の言葉を記録する速記者のY。そのよどみなく美しい彼の指に惹かれた私は、彼本人よりも彼の指に会いたいと、指に恋焦がれるようになっていく・・・。
という、またまた不思議な話だ。
彼との逢瀬がなんとも幻想的で、観念と現実のはざまを美しく、温かく、危うく交差する。
あまりネタバレはしないほうがいいタイプの話なのでこれ以上内容に触れるのは控えるが、
ようするに描いているのは心の空虚さで、それをストレートに叫ばないところが逆に心に響くのだろう。
付箋の一文
いずれにしても、離婚した理由を誰かに説明しなければいけない時、うまく言葉が見つからないまま思い浮かべるのは、いつもあの日曜日の散髪なのだ。
今から思うと、それは夫の指のせいだったかもしれない。散髪の時二人の間には言葉も触れ合いもなく、彼について感じることができるのは指だけしかなかった。霧吹きのレバーを押していた人差し指、ハサミの丸い穴に巻き付いていた親指と中指、そっと前髪を払った小指。目の前を動いていた彼の指が、私を訳もなく辛くさせた気がする。指の形や雰囲気や表情に、取り返しのつかない冷たい影が宿っていた気がする。
好きな人ができたと、夫に打ち明けられたのは、その散髪から三週間たった日曜日だった。
夫の指を思いだしながらわたしは、たまらなくYの指に会いたいと思った。
(本文69Pより)