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鉄道開業の陰にある金融の暗闘

10月14日は鉄道の日です。(明治5年)の新橋-横浜間の鉄道開業を記念している。2022年10月が鉄道開業150年にあたります。

しかし、鉄道開業の背景にある金融の動きを見落とされているのではないかと最近気がつきました。

問題は幕末から明治10年代初頭に至るまでの期間に、欧米とその金融システムとの接触(インターフェースと言う表現が妥当でしょうか)において、一体誰がどのように金融・融資を行ったのかという点を歴史教科書はほとんど説明していない点です。

実は維新直後、日本には資本主義の心臓部とでもいうべき発券銀行(中央銀行、のちの日本銀行)が存在せず、外資(英国東洋銀行)に依存していました。(以下、立脇和夫『明治新政府と英国東洋銀行』中公新書1992参照)

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立脇和夫『明治新政府と英国東洋銀行』中公新書1992

1863年3月に横浜支店を開設した英国系のCentral Bank of Western India. 本店ボンベイ)を筆頭として、明治維新(1868年)まで7行の外国銀行が日本で開業していました。

これらの銀行は1859年以降締結された不平等条約「安政条約」の下、治外法権の対象とされており、日本オリジナルの金融システムとは遮断されていました。

その後、日本では1890年になってようやく銀行条例(明治23年法第72号)が定められ、大蔵大臣の認可を得ることで民間も銀行業を営むことができるようになりました。

他方で公的な金融機関についてみると、中央銀行としての日本銀行は1882年(明治15年)に、外国為替を取り扱う横浜正金銀行が1880年にそれぞれ創設されています。明治維新から15年ほどたって、ようやく日本においても欧米でいうところの「金融システム」ができた、というわけです。

他方、英国勢がこの当時、盛んに日本での鉄道建設を英国において宣伝してまわっていた形跡が見られます。その中心人物が、結果として明治政府の意向に背き、隠密裏の外国借款の導入ではなく、日本の鉄道公債をロンドン・マーケットで大々的に公募しようとしたホレーショ・ネルソン・レイ(Horatio Nelson Ray)でした。

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ホレーショ・ネルソン・レイ

レイは当初、中国(清朝)における鉄道建設を画策していましたが、これに失敗したため、同様の野心を持って来日しました。そして英国公使パークスがレイを大隈重信らに紹介し、100万ポンドをレイより12年間・年率12%(誤植ではないです)で明治政府が借りる、いわゆる「レイ借款」(1869年明治2年)が成立します。

ただレイは、日本国債をロンドン株式市場に流して自分の個人口座に利ざやが入るようにしました。平たく言えばネコババです。外国が明確に絡んだ近代国際スキャンダルの第1号だが、金融界特有の強欲の悪相とか、人相の評価は控えましょう。

しかし、このネコババ以上に問題なのが、資金調達に困ったレイが明治政府との約束を破って、ロンドン・マーケットで大々的な鉄道公債の公募をしてしまったことでした。

これは、借款を目立たないようにしたかった明治新政府の意図があると見られます。ここが重要です。明治新政府が「外資依存→反外資感情→攘夷」の図式になることを非常に恐れていたとみられる点です

明治政府はレイ借款を解約したうえで自前で外資導入をすることになり、外債をとりつける新しい交渉相手を探しました。

1870年6月22日、明治政府はこの公債の事後処理をオリエンタル・バンク(英国東洋銀行)に委任しました。その結果、1870年4月23日にロンドン・マーケットで“Imperial Government of Japan Customs Loan(日本帝国政府英貨100万ポンド海関税公債)”の目論見書が発表されることとなります。

発行総額は100万ポンド(当時の邦貨換算で488万円)、無記名証券、発行価格は額面の98パーセント、金利は年9パーセントで償還期間は13年間。現在、「9%の債権」と言ったら(以下自粛)。

明治新政府は、これをクソまじめに返済しました。「返済できた」と言ってもいいだろう。しかし、返済できなければ条約改正も覚束なくなります、日英同盟もできたかどうか疑問です。

現在でも、諸外国、特に鉄道建設に関するチャイナマネーによるファイナンスが問題になり、パワーゲームそのものの様相を呈しています。それゆえ、明治の鉄道開業をめぐる金融史が、よりリアルに、身近なものに感じさせられます。

【他参考】


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