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クリスマスとお正月から眺める世界史
あけましておめでとうございます。新年のごあいさつに代えてクリスマスとお正月の風景から世界史を回顧してみたいと思います。
日本はキリスト教徒が数パーセントしかいませんが、クリスマスの「お祭り」は定着していて、12月25日がクリスマスだと一般に思われています。しかし、これはカトリックとプロテスタントでの話だと思った方が良いかもしれません。ただ私はそもそも「キリスト教」というくくり方に疑問をもってはいます。拙稿をご参照ください。
(東方)正教会について
いわゆる「(東方)正教会」系のキリスト教(ロシアなど)では1月7日がクリスマスです。東方正教会が日本ではあまりなじみがないようなイメージですが、ロシアでは多数派の宗教です。成立期において地中海の沿岸東半分の地域を主な基盤とし、東ローマ帝国の国教として発展したことから「東方正教会」の名を冠する場合もあります。
日本にも正教会があり、東京のお茶の水にあるニコライ堂が「正教会」です。
ちなみに日本で初の正教会の聖職者は沢辺琢磨です。この方は坂本龍馬の親族でもある人です。
なお、現在のウクライナへの軍事侵攻に関連して、2018年からロシア正教会が東方正教会と断絶している点も注目されます。
クリスマスに話を戻りましょう。ロシアのフィギュアスケート選手で日本でも有名なアリーナ・ザギトワさんも、2022年の1月にクリスマスの飾りつけで、インスタグラム画像を投稿しています。ロシア正教の1月7日にやっているのが注目です。
これはロシア正教会はユリウス暦に基づいているために、グレゴリオ暦と13日のズレがあることによるものです。
「ユリウス暦」の由来
そもそも「ユリウス暦」について考えましょう。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦ですが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用されました。ユリウス暦の詳細は以下の説明が分かりやすいのでご参照下さい。
「ユリウス」は「ユリウス・カエサル」からです。ユリウス・カエサルは塩野七生さんの著作でよく出てきますから多くの説明は要さないと思います。
なお、「7月」はラテン語でJulius(英語ではJuly)と言いますが、これはユリウス・カエサル(Julius Caesar)の名前そのものです。理由は単純で、カエサルがこの月生まれだつたからです。その36年後に次の皇帝アウグストゥスがカエサルにならって「8月」を自分の名前(Augustus)に改めています。
「グレゴリオ暦」の由来
一方で、グレゴリオ暦はローマ教皇グレゴリオ13世による1582年の改暦によるものです。1582年はちょうど本能寺の変のあった年です。ここでグレゴリオ暦はユリウス暦の「ズレ」を修正していますが、詳細は以下をご参照下さい。
このグレゴリオ13世の夏の期間の住宅を「クイリナーレ宮殿」と言います。現在のイタリア大統領官邸です。イタリアは「象徴大統領制」の大統領です。
グレゴリオ13世は意外に日本とも縁があります。天正遣欧少年使節団が「謁見」したのが、このグレゴリオ13世です。
2019年の映画でアマゾンプライムビデオでも見ることができます。
実際には、ユリウス暦でもグレゴリオ暦でも「12月25日のクリスマス」を祝っていること自体に相違はありません。暦の関係で現在、我々の12月25日と違ってきているだけ、とも言えます。
信仰と科学・カトリックとプロテスタントの対応
カトリック世界は先にグレゴリオ暦に改暦してましたが、プロテスタント世界がグレゴリオ暦を採用するのは18世紀です。むしろプロテスタントのほうが「遅れて」いることも興味深い点です。
プロテスタント諸国はグレゴリオ暦への改暦に消極的でした。宗教戦争のさなかにプロテスタントが「カトリックの言いなり」になるはずもなかったとも言えます。さらに、このカトリックが先行した点が、後述の東アジアに影響を及ぼします。
ただ、カトリックの信仰と科学の関係は相反はしていません。むしろ逆です。この点は西尾幹二先生の鋭い指摘があります。日本では「脱宗教化が科学の促進」と思われている面がありますが、全く逆であるという西欧の一面が見落されているように思います。
「科学革命」と「魔女狩り」は、光と闇と言う相互に正反対の方向へ顔を向けている無関係な現象だと言えるのだろうか。正反対の現象に見られる反面、ヨーロッパ近世という年代的にもほぼ同一の時代に起こっただけに、同じ事柄の異なる二面といえないこともない。どちらもキリスト教が自己を問い直した、脱中世の時代の信仰革新と切り離せない関係に端を発しているのである。
ここで大切な点は、天体研究にはじまった16・17世紀の「科学革命」は、自然と世界の数学化という原理に集約されるとみていいことである。それは豊饒な自然と世界を計量化し、数式と分類に定式化し、境目を際立たせる結果を招来することである。そして、そのような機械論的革命と組み立てが、一方で人間の理性の所産ではあるが、それが神の摂理の実現であると考えられていたのである。
イスラームの影響・12世紀ルネサンス
ただ、西尾先生のように、キリスト教信仰が科学を促進しているとする面だけでもなく、西欧の科学がアラビア・イスラームに触発されている点もあります。「アルコール」や「アルカリ」ももとはイスラーム経由の側面があることは近年は広く知られるようになっています。
イベリア半島(スペイン・ポルトガル)をウマイヤ朝(イスラム初の世襲イスラーム王朝)が732年に征服します。日本では奈良時代で大仏ができた頃です。こののち、1492年にイスラム勢力を再征服する「レコンキスタ」まで700年間、イベリア半島はイスラーム文明であったことは大きい事実です。
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ちょうど日本では室町時代で応仁の乱が終わったもののなお混乱が続いころです。
世界遺産の旅行で「東西文化の融合」等と説明されたりしますが実態はそう生ぬるくはありません。スペインで豚肉料理、ハムなどが多用されるのも、イスラームを探し出して排撃する「食べ物版の踏み絵」の側面もあります。
こうした場所で「イスラム科学」の黄金期を迎えます。その中に、アラビアの天文学の知識があり、その文献によるイスラームの科学知識が、イベリア半島での「12世紀のルネサンス」を経由してローマに到達するのが13・14世紀のルネサンスに開花します。
イスラームには「アストラーベ」と呼ばれる視覚的な操作で太陽、恒星、黄道十二級などを把握できる道具がありました。イスラームでは礼拝時刻やメッカの方位を探すのに使用されています。これが「12世紀ルネサンス」でヨーロッパにもたらされたようです。
ただし、グレゴリオ暦の原案作成者のアロイシウス・リリウスを調べてみても、イスラームやアラビアの影響はほとんど言及されていません。
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それだけ十分に「消化」されたとも言えるし、イスラームの影響を認めたがらないカトリックの立場もあるのかもしれません。
この時期、カトリックは南と西をイスラームの存在、北をプロテスタント勢力の勃興に挟まれた中の信仰の「情熱」は、大航海に向かいました。イスラームからの触発で航海術が向上した側面も見逃せません。この中にはカトリックの「突撃隊」とも言うべきイエズス会も含まれています。
一方で、イスラームとしても天文学は礼拝のために「メッカの方角」や「時刻」を正確に把握する必要性があります。ここも、キリスト教とは異なった文脈で宗教が重要な要素になっています。また大陸交易では現在地や方角を正確に知る必要性からも天文学が発達したのだとも言えます。
イスラームの現代・ヒジュラ暦
イスラームについても触れておきましょう。イスラームでのヒジュラ暦は純粋な太陰暦で太陽暦とは大幅に異なります。「ヒジュラ」とは「グレゴリオ暦でいう622年」にイスラームの預言者であるムハンマドと彼に従うムスリムがマッカからマディーナへ移住した出来事です。これを元年にしています。
しかし、2016年春、サウジアラビアを事実上率いているムハンマド・ビン・サルマーン皇太子は、経済改革プラン「Vision 2030」をすすめています。
そもそも「2030」が問題で、「グレゴリオ暦」の2030年をもってきています。ヒジュラ暦の1451-1452ではない点が注目されます。
この改革で国内で用いられている暦法を従来のヒジュラ暦からグレゴリオ暦に変更しました。日本では同時に、イスラム教社会で用いられてきた暦からグレゴリオ暦への移行を意味しています。
しかし、国内で反発が無いはずもありません。改暦に伴う混乱は世界各地であり、政治的な対立や粛正も数多くあります。今後の注目点です。
「トルコ革命」による改暦断行
イスラーム圏としての改暦はトルコのほうが古いことは比較的知られています。トルコでは第一次世界大戦の敗戦後にオスマン帝国解体の危機が起こります。アンカラに樹立された大国民議会政府が祖国解放戦争に勝利し、オスマン帝国を打倒します。ここで新たにトルコ共和国を樹立する過程で「トルコ革命」(1919年~1938年)が起きます。
ムスタファ・ケマル・アタテュルクがその指導者でトルコ共和国の初代大統領です。
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オスマン家を頂点としイスラム教を国教とする帝国からトルコ民族による近代的・西欧的・世俗的な国民国家への転換がはかられました。この一環で、イスラームのヒジュラ歴からグレゴリオ暦への転換を断行しています。
ロシアの「西欧化」
話をロシアに戻しましょう。そもそもロシアはビザンティン暦(Byzantine calendar)を使っていました。ビサンティン暦は「世界創造紀元」とも呼ばれ、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)で公式に使用された紀年法です。
ロシアがこれをユリウス暦に改めたのは1700年のピョートル大帝の治世でのことでした。ロシアは欧州北方での交易や外交の便を考えて、プロテスタント諸国で使用されているユリウス暦を採用したとされます。ピョートル大帝は「進んだ」西欧の暦を取り入れたつもりでしたが、(遅れた)ユリウス暦を導入しています。ユリウス暦もロシアのオリジナルなのではなく、西欧では「遅れた」暦を取り入れた形にはなっています。
ピョートル1世は暦に限らず、西洋化政策を強引に推し進めます。1694年即位後から親政を始めます。日本は元禄4年で元禄文化の花盛りです。ピョートル大帝の事績をまとめましょう
西欧視察団を組織し視察。(大帝自らも身分を隠して視察)。西欧風の砲術・造船等の技術を習得し、帰国後も西欧の風俗や生活様式(服装・食事)を強制。学校を設立して教育を重視し、海外へも多くの留学生を送り出した。政治面では地方自治制度や元老院などを設置して中央集権化に努め、産業面では重商主義政策にもとづいて産業を保護し、西欧社会に追いつくことを考えた。正教会の典礼すら部分的に西欧風に改正された(ピョートル1世による正教会の統制策。)貴族は仏独から嫁を迎え、仏独語を使った。こうして上流階級から白人化していく。
私は日本の明治との類似の印象を持ちます。ロシアに関心を抱くのはこの点です。同時にロシアの大命題「ロシアはヨーロッパか」という問いかけがああります。ピョートルの西欧化に対する反発・スラブ主義があるのです。
なお、「問題」のプーチン大統領もピョートル大帝に自身を擬えてもいます。しかし、私にはピョートル大帝の領土戦争の一側面だけのツマミ喰いの無理を感じます。プーチンは西欧から何を取り入れるのでしょう。
私のロシア人の友人が、日本に関して「三島由紀夫」に関心がある、と指摘して驚いたことがあります。三島由紀夫の西欧に対するスタンスを、この「スラブ主義」を投影し、この友人は見ていました。
ロシア人の友人に「ロシアはヨーロッパか」と聞くと多様な答えが返ってきます。ロシアを識る醍醐味です。
なお、その後のロシア革命にも触れておきましょう。1917年の「10月革命」をへてレーニン主導のもと、1918年7月にグレゴリオ暦に改暦しています。しかし、ロシア正教はそのままユリウス暦を奉じたので「クリスマス」としての日付が1月7日になるわけです。
ロシアとウクライナ
クリスマスの日の扱いも一筋縄ではいかないのが、カトリックと東方正教会の混雑地域となります。これをユリウス暦にすることで西欧に合わせた、という形だから、グレゴリオ暦に変えているカトリックともズレはあります。
このエリアこそウクライナです。
少数派ではあるカトリックの存在もあり、「ウクライナのクリスマス」は単一ではありません。
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「東方正教会」とくくっても、さらに国ごとの正教会があり、2018年に設立された「ウクライナ正教会(キエフ総主教庁系)」と「ウクライナ正教会(モスクワ総主教庁系)」があります。当然この二つはロシアとウクライナの対立でもあります。こうしてみるとクリスマスそのものが簡単な話ではないのが分かると思います。
ウクライナ正教会のエピファニー首座主教(キエフ総主教庁系)は12月25日でクリスマスのメッセージをフェイスブックに乗せています。
Сердечно вітаю наших братів і сестер з інших Помісних Православних Церков, християн латинського обряду, а також всіх...
Posted by Митрополит Епіфаній on Saturday, December 24, 2022
特に日本のメディアが「クリスマス停戦」「クリスマス休戦」に注目していましたが、
実際の「停戦」をめぐる状況や条件以前に、「『クリスマス』とする日付」そのものに相違がある点を強調しておく必要があると思います。仮に条件が整ったとしても「グレゴリオ暦の12月25日」ではカトリックのクリスマスで「ロシアが西欧に屈した」ことを内外に示す形になるので、絶対にあり得ません。日本のメディアの安直な平和願望はいい加減卒業するべきでしょう。「平和」を絶叫することで自分を満足させているだけに過ぎません。
ロシアが考えている「恐怖心」として、しばしばウクライナのNATO加盟問題が挙げられます。しかし、元々ソ連時代は同じ国を形成し、ロシアと民族的にも文化的にも同質性が高い(とロシアが一方的に考える)ウクライナが、ロシアに背を向け西側陣営の一員になってしまうと、西洋化、そして民主化の波がいよいよロシアにも及ぶかもしれないことへの恐怖心がロシアとしては出てきます。こうした歴史的、文明的な背景を考慮に入れる必要があります。12月25日の日付そのものの対応がこの「恐怖心」をあらわしてもいます。しかし、それを軍事侵攻の「大義」としては認めるわけには断じていきません。
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クリスマスをどうするかの世界地図でも、ウクライナが黄色(グレゴリオとキリスト教の両方)なのは注目されます。
東アジアの「お正月」
さて、東アジアについてお正月を例にとって考えてみましょう。東アジアで「お正月」を太陽暦でやっている日本だけです。あとは(中国朝鮮韓国ベトナム)全てが日本で言う「旧正月」でやっています。
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ただ、東アジアではそれだけではない問題があります。「旧正月」の英語訳です。韓国の英語辞書だと「Lunar New Year」が出てきますが、中国の英語辞書だと「Chinese New Year」になっています。
どちらも同じと言えば同じですが、それで静かにしていられないのが韓国人です。米国のメディアでも「Chinese New Year」を出して騒ぎになって困ったようです。そこで米国のメディアでも「Chinese- Korean New Year」をひねり出したところ「Korean- Chinese New Year」ではないかとまた騒ぎになり、仕方ないので「Asian Lunar New Year」という単語で宥めているようです。
中国の授時暦-イスラームの影響
中国の暦史は古代の「古六暦」と呼ばれる太陰太陽暦から始まります。その後何度の改暦を経ています。いくつかは日本も導入しています。(後述)
画期的な改暦としては、モンゴルでの「授時暦」です。モンゴル帝国(元)の時代になると、西アジア・イスラーム文化圏の優れた天体観測技術が中国に伝播した影響があります。しかし、それ以上に「中国屋」として興味深いのは現代中国の「ネット版百科事典」とも言える「百度百科」などでは、イスラームや西アジアの影響は記述が無い点です。
これをそのまま発展させたのが明朝の「大統暦」です。明末(1644年)まで使用されており、日本にも影響を与えています。
明末のイエズス会の活躍
明の滅亡に伴い、清朝がとってかわりましたが、暦も「時憲暦」に変わります。中国で最後に使われた太陰太陽暦の暦法でもあります。
その前史とも言うべきカトリックの「突撃隊」イエズス会による東アジア布教があります。フランシスコ・ザビエル(1506-1552)は日本での布教がなかなか成果を上げずに亡くなりますが、中国での宣教を先にすれば日本の布教は容易と考えたようでした。この時期のカトリック勢力の動きは日本への布教だけで見る視点では狭いと思います。
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この路線に沿って、中国に上陸し布教に成功したのが、マテオ・リッチ(利瑪竇)(1552-1610)でした。ちょうど徳川家康より10歳程度若いぐらいです。明朝の末の宮廷に食い込み、西欧の最新技術を伝えるとともに西欧に中国文化を紹介しています。
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マテオ・リッチは『幾何原本』(1607年)世界地図である『坤輿万国全図』(1602年)などを伝えています。後述のアダム・シャールをはじめ、明朝末から清朝初にかけてのカトリック世界の科学を持ち込んだ実績は大きいものはあります。
ちょうど同時期に、日本では秀吉による「伴天連追放令」から「元和の大殉教」など、日本でのカトリック排撃の開始と重なります。日本のほうが先にカトリックに警戒感を持ったのは興味深い点ですが、カトリックの優位を示すために「グレゴリオ暦の成果としての『天文学』を用いるには至らず、この点で中国とはタイムラグがあります。
マッテォ・リッチについては、平川祐弘先生による評伝が出色です。
なお、カトリックの「日本侵略」を見抜き、排除した秀吉については渡辺京二の『バテレンの世紀』は必読でしょう。
時憲暦での「文明の衝突」
こうした流れで西洋天文学をドイツ・ケルン出身のイエズス会宣教師アダム・シャール(湯若望)がもたらして成果を取り入れ、清朝の初めに編纂されたのが時憲暦です。
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アダム・シャールが北京に来たのが1623年です。ここで月食を的中させていいます。もちろん前述のグレゴリオ暦の成果を踏まえていることによります。暦の正確さが、宗教としての優位性を証明すると考えられた点が重要です。カトリックの優位性を示すツールとして天文と暦が用いられています。
ここで、月食の的中が既存の天文学者との抗争をもたらします。北京を舞台に暦をめぐり、グレゴリオ暦のカトリック(イエズス会)と、授時暦の元になったイスラームと古代中国以来の暦の学者と三つ巴での「文明の衝突」が、17世紀に起きていた形も興味深い点です。この衝突で1665年にアダム・シャールも収監されます(康熙暦獄)。
日本のカトリック排撃と異なるのは天文学者の利権が絡んだ讒言や粛正、権力闘争というのが、「中国屋」からすると非常に中国らしい風景である点です。
ちょうど、日本では徳川家光が将軍宣下した元和9年です。前年の1622年(元和8年)には長崎でのキリシタンの大殉教があり、翌年寛永元年(1624年)にはスペイン船の来航を禁じているころです。カトリックとの向き合い方の日中での相違と言う観点もあります。
ともあれ、中国の「旧暦」ではこの時憲暦です。当時の朝鮮もこれに従ったため、中国と韓国の「旧正月」は完全に一致します。「韓国屋」の私に「中国が韓国の暦をまねた」とする「ウリジナル史観」による珍論を唱える韓国人がいましたが、忍耐強く嗤いをこらえました。
日本の暦-渤海と宣明暦
さて、日本。日本は、中国の影響を強く受けています。古代の聖徳太子の時代や奈良時代は中国の暦をそのまま受け入れていました。
一大転機は「宣明暦」です。中国の唐時代の長慶2年(822年)-景福元年(892年)まで使用された「宣明暦」が、渤海を経由して日本に入ってきました。渤海経由と言う点が興味深い点です。859年(貞観元年)のことです。
能登国珠洲郡(石川県珠洲市)に来着し、従七位・「越前権少掾」の島田忠臣が急遽「加賀権掾」に引き上げ任じられ接遇しています。
今でいう福井県庁の課長級が石川県の副知事級になったようなものです。ちなみに、この島田忠臣が後に菅原道真と友達になります。
日本の教科書では「遣唐使」が大きく取り上げられますが、「渤海使」も頻繁に文化を伝えたりもしています。
日本は平安時代の861年(貞観3年)に宣明暦を採用します。清和天皇の御世で藤原良房が皇族以外ではじめて摂政になったころです。
江戸時代の貞享暦に変わるまで約800年使用されています。日本では平安時代から江戸時代まで暦にさほど進化は無かったとも言えます。
貞享暦、宝暦暦、天保暦
「江戸時代の平和」は時間と費用の余裕をもたらし、日本人の知的好奇心を培養しました。渋川春海は中国の授時暦をもとに自ら観測して求めた日本と中国との里差(経度差)を加味して、日本独自の暦法を完成させました。
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江戸時代は清朝の時憲暦を完全に無視しました。貞享暦・宝暦暦・天保暦の日本独自の暦を渋川氏によって独自作成しています。これは画期的な話です。2012年にV6の岡田准一さんが渋川春海を主演しました。映画『天地明察』で登場します。渋川春海の改暦の苦労はこの映画でわかります。
ここで特筆するべきは、渋川春海も山崎闇斎の垂加神道などの神道や儒者たちとの交流があった点です。天文学者の解説はそれはそれで的確ですが、神道・儒学の触発の点も、実は見逃せない点です。
徳川家光の異母弟で会津藩主の保科正之は山崎闇斎の影響を受けました。
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これに触発されるように『日本書紀』神代巻を読むサロンをつくりました。山崎闇斎の影響は大きいものがあります。
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ここに渋川春海も参加しています。改暦のための観測や暦算を行いながら、『日本書紀』を読み、「神武天皇」がつくった(とされる)失われた「古暦」を求めています。
「神武天皇」と言うと現代ではすぐに「戦前の皇国史観」と否定されます。
しかし、話はそう単純ではありません。言ってみれば「アイデンティティの探求」、平たく言えば「自分探し」が江戸時代に起きたのです。この点は西尾幹二先生の『江戸のダイナミズム』に詳しく論じられています。古代の「自分探し」は西欧文献学、清朝考証学、日本の江戸儒学国学においてほぼ同時期に起きています。西欧でのギリシャ・ローマへの知的探求の情熱と比較するのが妥当なところでしょう。
このサロンを通じて「中国からの知的離脱」が図られた面は非常に大きいと思います。時憲暦にこだわる必要が無いという確信がここから得られているからです。
この点、西欧のカトリックの宗教的情熱による科学と対比すると面白いかもしれません。
また渋川春海は原動力が知的好奇心である点も重要です。山崎闇斎の神道、儒学についても渋川、渋川春海は好奇心が基本的には好奇心が先行しています。囲碁についてもプロ級のようですが、こうした知的好奇心を擁する日本の地力が中国からの知的離脱を生み出してもいます。
なお、ホリエモンもこの映画を推奨しています。
陰陽道-安倍晴明と土御門家
そもそも、日本の暦については朝廷では土御門家(安倍晴明の子孫)が「陰陽頭」として陰陽道、天文道、暦道をもって朝廷に仕えていました。野村萬斎さん演じる映画「陰陽師」は安倍晴明のテーマです。
2018年平昌五輪での羽生結弦さんのフリーの演技はこの「SEIMEI」です。衣装もこのSEIMEIによります。
朝廷としては、この土御門家が暦を担当しており、江戸幕府は渋川春海の貞享暦で改暦するように朝廷に依頼します。宝暦の改暦(1755年)までは、朝廷を通じて土御門家に幕府が「お願い」する立場でした。
しかし、次第に暦の正確さで幕府が主導権を握ります。天保暦では完全に幕府主導になりました。ここで先例を奉じることを生業とし土御門家など公家たちが面白くないはずがありません。ここで公家たちは隆盛した国学と絡んで幕府を嫌う「マグマ」をためていきます。ここが、維新前後の京都の公家たちを刺激した点はあります。
暦をめぐっての中国北京での「文明の衝突」と日本の東西での朝幕の抗争との対照的な風景の違いがありますが、日本のほうは「先例遵守」が日本らしい風景と言えるでしょうか。江戸時代の朝廷と幕府の関係(朝幕関係)でのこの「改暦」と元号を改める「改元」の経緯がポイントとして重要だと思います。
暦をめぐる明治の「断行」
日本は明治新政府で岩倉使節団の欧米歴訪の中、明治5年に留守政府である「西郷内閣」のもとグレゴリオ暦に改暦します。これに当たっては参議大隈重信の主張した官吏報酬のコストダウン、と言う視点は良く知られています。これで2か月分の俸給が浮いたかたちです。
「古い時代」や「武士」そして「地方」の代表と見られがちな西郷隆盛ですが、「西郷内閣」の主導である点が注目されます。この改暦で「西郷内閣」は土御門家を全く登場をさせていません。江戸の天文方を斬るだけでなく、朝廷の有職故実も切り捨てるのは、給与の問題もあって「西郷」でなければ断行できなかった面もあります。
このグレゴリオ暦への改暦を建議したのが塚本明毅です。幕臣であるのも面白い点です。幕臣の子に生まれ、昌平黌を経て長崎海軍伝習所の1期生とななります。幕府瓦解のあとは、静岡に移された徳川の作った沼津兵学校頭取をしていましたが、この改暦事業をきっかけに内務省に努め異能を発揮しまし。彼についての本を子孫が書いています。
実際には明治6年が閏月の年であったのでこの機会を逃すと実施が難しくなるという現実的な判断もありました。
しかし、この改暦でキリスト教との関係は意外に言われていません。終始、西欧への対応という世俗的な関心が大半で語られています。逆にグレゴリオ暦をキリスト教との関連の話をすると、定着しない恐れを感じたのかもしれません。
明治天皇の誕生日である「明治節」(現在の文化の日)は11月3日です。
しかし、もともとは天保暦の嘉永5年(1852年)9月22日でしたが、これをグレゴリオ暦に変換し、「11月3日」を「誕生日」としています。「新暦」の定着にはなかなか庶民の抵抗感あり、天皇の率先垂範としての「明治節」で「新暦」のアピールも必要だったと思います。
暦をめぐる東アジアの近代の風景
グレゴリオ暦は導入したとはいえ、ここで日本での「旧暦」になった暦は天保暦として残ります。中国や韓国は「旧暦」としては「時憲暦」で全く別物です。それゆえ、日本のカレンダーに記載されている「旧暦」が、韓国中国の「旧暦」と若干ズレがあります。「旧暦」としても差がある点は強調しておきたいと思います。
この差は、単に明治の「文明開化」によるものではなく、江戸における「中国文明からの離脱」「中国文明に対する静かな無視」によるものです。それを可能にしたのは、繰り返しますが渋川春海によります。
さて朝鮮。朝鮮が、グレゴリオ暦を導入したのはいつでしょうか。日清戦争後に日本が朝鮮を保護国化し、「大韓帝国」として(清国からの)独立を日本が強要したことによります。
日清戦争の講和条約は下関で結ばれています。この日清講和条約(下関条約)で1895年の「明治28年4月17日」(日本の独自元号+グレゴリオ暦)と「光緒21年3月23日」(清朝の元号+時憲暦)が併記されています。
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これに伴い、朝鮮は1896年(明治29年)を「建陽元年」として、清国ではない「大韓帝国」の独自の元号と同時にグレゴリオ暦を導入しています。
日本の孤独
旧正月を行う風景は昭和30年代までは地方の田舎では普通に見られた風景でしたが、農業の衰退とともになくなりました。農業としては旧暦のほうがおさまりが良かったのかもしれません。
しかし、それにしても「グレゴリオ暦での正月」を祝う習慣は、東アジアでは日本だけです。日本の「孤独」の風景かもしれません。
「日本はアジアではないのか?」との問いかけは、昨今のロシアへの関心とあわせて考えてみてもよいのかもしれません。そう、ロシアに向けられた「ロシアはヨーロッパか?」という問いにも似ています。
ロシアと中国圏はそれぞれ、クリスマスと正月を「旧暦」で行っています。12月25日や1月1日は暦の上とは言っても、世界史の中では様々なことを考えさせてくれるテーマかもしれません。
このように見ていくと、天文学・科学史としての面もさることながら、動機としての宗教史、思想史や、さらに暦を巡る影響としての政治史や文明の衝突が織りなす歴史がつらつら思い浮かび、好き勝手書いてみました。