"絶対"に拘らなくなると楽になる

こんにちは、フジミです。

よく、執着をすると人生辛くなるなんて言葉が東洋哲学の本には書いてある。
僕はそれはその通りだと思っている。

苦い経験もある。例えば恋人を寝取られた時だ。しばらくはあの時ああすればよかったなどの後悔が頭を巡る、やがてそれが憎悪に変わり、執着へと変身する。

そうなるともう沼だ。人を恨むこと、自分を責めることとはかなりカロリーを使い、心を疲弊させる。

あの頃思っていた、"絶対"に俺が正しいという気持ち。あれは間違いだった。
そもそもで各々、皆が違った尺度で生きている。性善説という基準を持ったところでそれが人によってブレるとなると悪人はどこまでも悪人のままである。
前提が違うのだ。
そうなれば話など通じるわけがあるまい。
これは差別的な意味でなく、人種が異なるのだ、そうすればそういった人たちと文化も思想も異なるわけで、そういった人とはいくら会話を重ねても分かり合えない。
ところが、"絶対"自分が正しい、ということに執着してしまうといつまで経ってもコトは進まずに精神を疲弊させてしまう。意味のない行為なのだ。

なのであの裏切りを味わった時、俺が取るべきだった思想として執着するのではなく、その程度の人間か。と割切り、忘れることだった。

いくら思い出があろうが、当時絆のようなものがあろうが。全ては諸行無常、移り変わるものである。絶対不変などあり得ない。
虚しく聞こえるかもしれないが、それが真実だ。

さて、"絶対"にこだわるとダメな理由として一つ。"正論"というのがある。
この正論という言葉の厄介なのは自分がいいたいことをベラベラと話した挙句、最後に「正論じゃん」と言ってしまえばそれっぽくなってしまう点である。

まず正論とはどこの誰が決めるのだろうか。担保は誰が取るのだろうか。法律か?国か?或いは神か仏か。

まず、言いたいことをベラベラ吐き捨てる前に人の話をしっかり聞いて反芻し、俯瞰した上で結論を出すべきである。
自分の意見を押し通すために他人の心情を蔑ろにするのはとても健全なコミュニケーションとは言い難い。どこまで行っても人対人なのである。
それとこの手合いは主語が大きい。これも厄介な点の一つである。
仮にそれが正しい論理だとしよう。
だとしても、強い言葉を使う奴の言葉など厄介で聞きたくなくなる。あなたがどうかは知らないが、間違いなくあまり関わりたくはなくなる。これが人間の心理である。
なので"絶対"に拘らないことである。
失うものが大きい。
それでもよければどうぞ。という話だ。

社会をうまく回していくにあたり、求められるのは各々が勝手に考えた正義より最低限のモラルと倫理観である。

"絶対"にこだわる困ったさんはたくさんいる。
こだわりがあるのは結構だが、煙たがられることを忘れずに。

世の中結構適当である。

押し付けるつもりはないが、所感としては
適当に生きて、適当に死ぬぐらいがちょうど良いのかな。とラフな感じで良いのかなとも思う。

所詮、我々は犬や猫よりちょっとばかり頭が回るだけの霊長類である。

だったら他人とそこそこ上手くやり、お互い気持ちよく過ごせればそれが良いだろう。

今日はそんなところです。

またねー。

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