見出し画像

祝、目標の28回目投稿

こんにちは!

だいたい文章作ってるのは寝る前なので、こんばんはの時間帯です。

最近、寝ても中途覚醒してしまいやすいので、無理して早く寝ようとするのをやめました。

せっかく起きているので、文書作ることをすることにしています。

このnoteをやり始めてから、今日で28回目投稿になりました。

目標の28投稿達成!イェーイ
地味に喜んでいます。
(私は飽きっぽいですので)

さすがに、毎日投稿はできませんでしたが…

日にちが空いたとしても、飽きずに続けられたのは、書きたい時に書くのを楽しもうと決めたからだと思います。

あとは、面白かったよー読んでるよ!と言ってくれた友人のおかげもあります。

書くトピックは、相変わらずとっちらかっていますが。
それはそれで面白いと言ってもらえましたので、とにかくオールOKです。

わたしは、過去にブログは色々な媒体で書いてきましたが、本当に続かなかった人間です。
そして、続かなかった原因も理解しています。

それは、

「私は〇〇な人なので、〇〇について書きます」

そんな、自分はこういう人!という在り方でブログを書くのが、自分なりの理想でした。
そこが確率していないのに、何かを書くというのが、気持ち的にモヤモヤして続かなかった原因です。

この私は〇〇!というのは、職業的なもの、何かの専門家のような、世の中にきちんと認められるような肩書的なモノへの、私の執着心とコンプレックスでしたね。

一個人の日記のような雑記を書くワタシ、というのがモヤモヤとしたのは、誰かに社会的に認められたい欲求があるからですね。

自分が主婦であることの罪悪感を勝手に感じやすかったんです。

主婦の労働時間を年収にすると〇〇円みたいな物議がありましたが…

私にとっては、家事が大好きなのでお金になる概念が薄いですし、勝手に価値がない自分を作り上げていきました。

そして、何してるの?え、働いてないの?って言われるたびに、ちくっと罪悪感を感じてきたのでした。

働いてないのは、よほど経済的に余裕あるんだねー?と言われるのも、それは違うんだよ…なんて思いながらも、へらっと笑って濁すだけ。

OLだった時にも、〇〇の会社に勤めていて事務職やっています、という自己紹介するのが嫌でした。

結局、自分はユニークであり、人とは違うことで成功していて、経済的にも自立していますよ〜
なので、ワタシを認めてくださいよ!

という、私のエゴの承認欲求がものすごく大きかったのだと思います。

先日も、知らない人達との出会い場で自己紹介するシーンが何回かありました。

自己紹介で何を言ったらよいのわからなくなり、だんだんと感情的に嫌な気持ちが湧き上がってくるのです。

この歳になっても(私は40代です)人見知りで知らない人との出会いもライトに楽しめないどころか気重になる自分に対しても大人女子として欠陥だなぁなんて、自分をジャッジしまくりです。

冷静に考えると、仮に物静かでシャイな人がいたとして、その人のことを、なんてつまらない人なんだろう?嫌だななんて感じないのに。

自分のことになると、極端に歪んで見てしまう癖があるんですよね。

そして、自分は明るくて感じのいい人というのを頑張って演じてしまう。
そんなピエロな自分がいるんですよね。

自分の他人からこう見られたいという願望としての役割を勝手に演じてしまっている感じです。

演じきって楽しめたらよいのですが、どうも三流役者感でちゃいますよね。

他人に認められたいという承認欲求は生きづらくしてしまいます。

私は頑張らないと!
人と違うことしないと
稼がないと
綺麗じゃないと
頭が良くないと
人より勉強しないと…

不足不足…

不足している私は愛されないんだ!!

このループ、断ち切りましょう!

ワタシがワタシを本当の意味で愛しきれていないだけ。

自分が自分の力を信じずにどうするのだ。

本当に少しずつ、ついついマイナスに感じてしまって落ち込んでいくことも、プラスに変換できるようになりました。

負の感情にまみれたときも、ノートに書いては、感情の奥の奥にある思考や思い込みを見つけて手放してきました。

ある日突然に、生きるのが楽になる事を夢見ていましたよ。

でも、進歩って見えないレベルでジワジワと起こってくるものです。

現時点で気がついたのは、悩みや苦悩っていうのは、必ず解決できるモノであるということ。
そして、私はこの謎解きを私は楽しみたくてやってるんだということです。

闇の部分をギフトと考えてみたら、全くちがう世界観が見えてくるのです。

例えば。

もし、私が過去にいじめを受けていなかったら、傲慢なオンナになっていただろう

もし、私が人間関係で悩んでいなかったら、同じような悩みの人の気持ちをわかってあげることはできなかっただろう

この苦悩があったから、読書家にもなれたのだ。

学生の頃、図書館に入り浸り、図書委員にもなって、読みたい本を学校にリクエストし、学校に買ってもらって多読しました。

本の中の言葉に助けられたのです。

だからこそ、言葉の重みを知っているので、うかつに軽く文書を書くのが怖かったんですね。

あの時のあんな辛い過去があったからこそ!というギフトは必ずあります。

頭ではなく腹で腑に落とすには、地味に繰り返し自己対話するのみです。

誰がなんというと、自分は自分の味方でいましょう!

絶対に応援してくれる人はいる。
一人でもいたら充分。

なので、わたしは自分のために、またもう一人の愛する人のために魂込めて暑苦しく書き続けていきたいと思うのでした。

今日も読んでくださってありがとうございます!









いいなと思ったら応援しよう!