見出し画像

良質な質問は魔法


あした死ぬかもよ

だいぶ前から、ちょくちょく読み直している本のひとつ

「あした死ぬかもよ?人生最後の日に笑って死ねる27の質問 名言セラピー」

ひすいこたろうさん、昔から大好きです。
本も好きだけど、YouTubeで聞く声も優しい。

この本は、27個の質問が投げかけられてくるのですが、1つ1つの質問が考えさせられるものが多いです。
なので、時間が取れた時にノートに書いています。

子供の頃から、人はなぜ死ぬのか。
魂はどうなるのか?ということを考えすぎて、眠れなくなることがよくありました。

タナトロジーという言葉を聞いたことありますか?

タナトロジーとは、日本語では死生学と言い、死の学問の事です。

詳しく学んだわけではないですが、この言葉と出会った時に、私なりに死を前向きに捉えていきたいと決めました。

一般的には、死について語ることは、お金の話と同じくらいタブーな話題ですね。

わたしは、ふと考えます。
ひとりっ子で兄弟もいない、子供もいない。

仲のいい人は、同級生もしくは歳上の方が多いので、自分が死ぬ時に周りには誰がいてくれるのかな、もしくは違う場所で待ってくれているのかな。
なんて想像してしまいます。

感情的には、まだまだ死は怖いなぁと思っています。

ただ、必ずくるこの日に、少しでも後悔は少なくしたい。

この肉体で生まれた意味があるのだとしたら。
一日一日を大切に過ごしたいと思う今日この頃です。

大切に過ごすということの内容は、人それぞれ。

自分にとっての大切な過ごし方は何なのか?
言語化してノートに書き出してみることは大事だと思います。

死を意識した時に本当は何をしたいのか。
それを考える時間、私は好きです。
豊かな時間です。

この本の中で、人生の中で1番嬉しかったことは何か?という質問があります。

1番ってなんだろうか。
なかなか答えがでてきませんでした。

人は、マイナスの出来事の方が記憶に残りやすい傾向があるみたいですね。

嬉しいことはたくさんあるはずですが、1番と言われると難しい。

答えがパンっと出てこなくて、しばらくこの質問にモヤモヤしていました。

ある日、ジョギングしてる時、とある情景が降りてきました。

わたしは40分のジョギングをしているのですが、20分過ぎてくると気持ちよくなってくる瞬間があります。

エンドルフィンがバリバリに出てるのでしょう。

身体が気持ちがいい〜
そんな感覚になった時に、
過去の嬉しかった事がフワッと情景で浮かんで降りてきたのでした。

幸せ、嬉しいな。

そんな感情は、わりと地味な事なんだなということでした。

派手なイベントや出来事が、幸せの象徴ではないんですね。

梅干しのおにぎりを、噛み締めてゆっくりと食べてるような、じわじわとホッコリするような地味な暖かさ。
それが豊かさでもあり幸せ。

その、嬉しくて暖かいワンシーンというのは、スペインの旅先で出会った男性と話しているシーンでした。

その人を初めて見た時に、後ろ姿から後光がさしていました。
パーっと光っているのです。

私は、男女問わず、自分が好きにる人はパーッと光を放って見えます。

その人は、ブラジル人でイギリス英語を話す男性でした。

旅先の泊まる宿の中庭に、そのブラジル人の彼が一人で座っていました。

とにかく話したい!という思いで、勇気を振り絞って話しかけました。
好きのパワーは行動的にさせてくれます。

わたしは、短大を英語系の学科を出ているくせに英語できない!というコンプレックスがずっと残っていましたので、なかなか自分から話しかけるというのはしなかったのでした。

この人と話したい!という強い欲求がパワーでもあり行動につながるものだと思います。

その中庭には、草花がたくさん生い茂っており、太陽があたたかく、ゆったりとした優しい時間でした。

会話をした1時間が、ほんの10分くらいに感じました。

自分は英語ができない!という意識から抜けて、とにかくこの人と話したいという一心で、なぜかその時はスラスラと英語を喋れていたのを覚えています。

その時の情景を思い出すと、いまだにホワッとなります。

思考を超えて感情で行動するときは、私にとっては嬉しさや幸せを感じるようです。

その旅の最中で、ブラジル人の彼とは何回か会うことがありました。

会うたびにポワポワしていて、ラブレターまで書きました。
結局渡すことはなかったですが…

旅の終盤に、その彼と出会ったとき、
ハグされながら

「おそらく、もう会えないかもしれないけど、これを僕だと思ってね」と、
イルカのピンバッチをくれました。

その時のふんわり漂う彼の香りや、あたたかさは、今だに焼きついています。

人種を超えて受け入れてもらえたような気持ちが嬉しかったんですね。

もちろん、男性としての魅力もありましたし。

時を重ねるにつれて、べつに英語使うことないし…、私できないし…と、いじけながら英語は捨てたのでした。

しかし、英語ができるワタシ!という単なる自己満足の世界。

私にとって、英語を通して何をしたいのか?ということが欠けていたのでした。

いまだに、海外に住んでいる人や、自由に世界を旅をしている人を見ると、ひねくれた心がチクっとするのでした。

言葉を超えてもっと楽に自由に飛び立てたら…!

あぁ!これが私の本心だったんだなぁ

そして、英語と仲直りしようと決めました。

できるようになる!と意気込むのではなく、楽しく使って何をしたいのかを考えてみようじゃないか。、

情報だって、日本語だけの世界のものよりもワールドワイドに見たい。

本だって英語の本読みたい。

字幕なしで映画やドラマ楽しみたい。

〇〇人、とかいう垣根も欲しくない。

住むところでさえ、日本じゃないといけないというのも、自分の思い込みだと感じる。

それから、英語できないコンプレックスと感じてるのは、他人と比べてできる、できないという比較を無意識にしているからだし。

できる自分は人よりすごいんだ、という薄っぺらいジャッジを自分が他人にもしているんだよね?

このネバネバとしたダークサイドも私の一部よね〜と受け入れつつ、感情的なコンプレックスという苦味は、パワーにしよう!

他者との比較による嫉妬を感じられたら、そこには自分の才能ややりたいことのヒントが見つかるのだ。

20年前の過去の日記を読み返すと、
大胆にも「世界に通用する女になりたい」と書いていました。

通用するという言葉は、今読むとちょっと微妙ではありますが。

その言葉の深堀りすると、
どんな場所でも自分らしい在り方でいたいというのが、私の望みでした。

現実では、他人の中にいる私を意識して、いい人を演じてしまったり、必要以上に頑張ってしまう自分がいたりもする。
すぐ人付き合いに疲れてしまいますが…

本当は、分かち合いたいんだね!
さらにいうと、例え分かち合えなくても違う意見だったとしても問題ないと感じるようになりたいんだ。

まずは、感じている怖さや醜いと感じてしまう自分を受け止めてあげよう。

自分が味方にならないで、誰が味方になるのか。

そして、どうせならば
少しずつでもいいから、
こうしたい、こうなりたい、それを心の奥にしまわないで。
少しずつやっていこう。
そこには、年齢や過去の自分は関係ない。

自分の望みには嘘をつかないようにしよう。
誰になんと思われようと、私はこうしたいんだという気持ちを大切にしよう。








いいなと思ったら応援しよう!