どちらでもいいこと
『どちらでもいいこと』
初代のキリスト教会が作られ始めた頃、
伝統的に教えられた事を守り通したい人と、
そうでない人の間でもめ事がありました。
イエス・キリストが復活した、
という事を信じて、救い主と告白する人は、
まず、ユダヤ民族という、
独特の文化を持つ人たちの間に現れました。
それはやがて、ユダヤ民族の文化の背景を、
持たない人たちの間にも広まりました。
ユダヤ民族の人たちの間には、
食べて良いものと悪いものの区別や、
カレンダーの中で、大切な日があって、
その日には決められた行事を行う、
等という習わしがありました。
そして、それを守らなければ、
本物でないとか、いやむしろ、
そんなことにこだわるべきではないとか、
様々な議論でもめている中に、
パウロという指導者は手紙を送り、
「どちらでもいいじゃない」
という事を言っているのです。
戒律にこだわろうが、そうでなかろうが、
大切なのは「神様のために」
やれているかどうか、という事なんだから、
枝葉的なことは、どっちでもいいじゃない、
というのです。
本質的なひとつの事を握っていれば、
いろんな答えがあってもいいのだから、
目的を見失わない事だけ大切にして、
違いを許し合いましょうよ、
という事が語られています。
ごく単純なことですが、
とても深い内容だと思います。
「どちらでもいい」と考える事が、
苦手と思う人は多いのかもしれません。
お手本通りにする事が良しとされ、
問題に対して一つの回答を出すことを、
幼いころから訓練されてきました。
答えが一つでなければ、
なんとなくすっきりしないのです。
しかし、大切なのは、
目的を果たせるという事です。
自分に関わる全ての罪は、
イエス様によって赦されている、
という事を確信しているのなら、
その確信を絶やさないために、
教会の日曜礼拝に通い続ければいいのです。
自分は「らしくない」人だとか、
やるべきことをやってないとか、
そんな事で自分を責める必要はないのです。
どちらでもいい事を、
どちらでもいいと思えるための、
本質を大切に握っていたいものですね。
いつも読んで下さり、
ありがとうございます。