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#君たちはどう生きるか で、宮崎駿は結局、何を描こうとしたのか?【ネタバレあり最速レビュー】


『君たちはどう生きるか』を見て、絶句した。

こんな作品がまさか2023年に見られるとは思っていなかったし、まさか82歳の宮崎駿という監督から出てくるとも思っていなかった。

傑作か傑作じゃないかでいえば、問答無用で傑作である。というか、今年見た作品のなかではぶっちぎりで良かった。ちょっといろいろ吹っ飛ばされる鑑賞体験だった。しかしそれは感動したとか泣いたとかそんな感情ではなくて、私のなかでは、吐きそう、ただそれだけだった。絶句した。

どこに絶句したかといえば――。

ここから先は、この映画がきわめて誠実に避けてきた「ネタバレ」になる。私もその制作陣の姿勢に従おうと思う。

※この先、当記事は『君たちはどう生きるか』の盛大なるネタバレを含んでおります。ネタバレを回避したい方はどうか読まないでいただけますと幸いです。

※ちなみにこの記事は、あくまで私のメモ代わりの最速レビューですので、もっと長い批評はどこかに書けたらいいなと思います! 批評を書かせてくれる媒体さん募集中です!! ご連絡ください!!



この映画の主題は、「僕のヒロインは母親です」である。

――まさかそんな話だとは、誰も思わないじゃないですか。ねえ。そんな本当すぎるくらい本当のこと、宮崎駿くらいしか、今の時代、言わないよ。



1.父親不在のアニメ世界

本作は、いうまでもなく『君たちはどう生きるか』という吉野源三郎が1930年代に綴った小説をモチーフにしている。本書は、主人公の「コペル君」とその叔父さんの対話によって、コペル君が人生の真理に気付いてゆくビルディングスロマンだ。

つまりは父の教訓によって、息子が成長するような話である。

なので、てっきり私は『君たちはどう生きるか』が来た時、「宮崎駿の父と息子の話でもやるのかなー」と思っていた。自分の継承者の問題も含めつつ、未来に託したいメッセージでも描くのかしら、と。

ところがどっこい。映画『君たちはどう生きるか』に、父親なんて、一ミリたりとも出てこない。

……いやもちろん登場はする。するのだが、存在感は皆無である。

映画『君たちはどう生きるか』は二つの世界によって構成されている。ひとつは現実の世界、そしてもうひとつはイメージの世界である。このイメージの世界は、「人間が産まれる前の場所」でありつつ同時に「宮崎駿が描いてきたフィクションの世界」そのものでもある。

主人公は、イメージの世界に迷い込んでしまった義母を追いかけ、イメージの世界に入り込む。そしてそこで、自分の母と出会う。

宮崎駿にとってそれはまさに、自分が作り上げてきた世界そのもののはずなのだ。これだけアニメを創り、日本のフィクションの想像力を牽引してきたこの人の、自分のイメージの世界そのもの。それは子どもの頃に見えていたトトロがいる世界でもあり、天空の城が浮かんでいる世界でもあり、トンネルの向こう側に広がる世界でもあった。

だがそのイメージの世界に、父は入ってこない。

イメージの世界に存在するのは、母だけである。

私はまずこの事実に打ちのめされてしまった。昭和に生まれ、厳しくしつけられたであろうこの世代にとって尚、「父」というのは基本的に「存在しない」ものなのだ。余談だが、声はキムタクであることにも驚いた。それは結局、いつまでも若くかっこよく、自分と張り合う父でもある。

そして、宮崎駿、ではない、眞人がイメージの世界に入り込む理由は――喪われた母を探すこと、なのだった。


2.母とセックスしたいですか?

本作に、眞人の「母」は三人登場する。

母の妹であり義母の夏子。
イメージの世界で母代わりとしてごはんを食べさせてくれ、船を漕いでくれるキリコ。
そして実母であり、ともに旅をするヒロインでもあるヒミである。

全員、眞人にとっては〈母〉のポジションを担ってくれる存在だ。

そしてここが重要な点なのだが、眞人は、彼女たちの境界を少しずつ曖昧にする。たとえば夏子を助けようとする場面で、眞人は夏子のことを「夏子さん」と呼びながら同時に「お母さん」と呼ぶ。あるいは、ヒミのことを「実の母」であると知りながら、初恋の相手のようにも接する。

キリコは、明確な血のつながりは示唆されていない。だが、明らかにキリコとのやりとりには、初体験のメタファーが登場する。魚をさばきながら、「もっと深く」「一気に突く」という発言があるのだが……まあ、何のことを言っているのかは察することができるだろう。その魚は、ある妖精たちの栄養になる。妖精の正体は、人間の卵だった。ここにあるのは人間同士がセックスして子供が生まれる過程そのものだ。

だが何がびっくりするって、その相手がほとんど〈母〉の表象であることである。というか、キリコほどはっきり書いていないものの、夏子ともヒミともほとんど恋愛に近い感情は仄めかされている。

彼女たちは往年のジブリ映画のヒロインそのものだ。美しく、家事ができて、そして主人公を異世界に旅させてくれる。それはまさに、母のことだったのだ。

喪われた母を求めて、この人は、ジブリ映画という巨大な想像力を作りあげてきたのか――というその事実に私は打ちのめされる。

父の不在、母の思慕。その構造だけがここにはある。批評家たちが「そうっぽいとは思っていたから頑張って指摘してきた」構造を、まさかこんな、こんな大々的に描くとは、思わないじゃないですか。


3.現実世界は「バルス」と言っても終わらない

この映画には、端々に「こんな世界にしたのは、ほかでもない自分たちなんだ」という宮崎駿の懺悔が見て取れる。

たとえば人間たちの卵を食ってしまうペリカン。眞人はペリカンをイメージの世界に引き入れてしまう。それはまさに子どもたちの生命力を奪うアニメを自分たちが作ってしまったのだ、という懺悔そのものだ。老齢のペリカンが倒れる場面は、まるで彼自身のことを描いているようで痛々しく、その分迫力がある。

あるいはインコという、イデオロギーしか叫ばない身体性のないフィクショナルな存在たち。インコは現実世界には存在することができない。眞人の周りにいるおばあちゃんたちのように、現実世界で眞人を守ることは、できない。そんなインコ蔓延るイメージの世界を、最後に破壊できるのも自分しかいないことを、宮崎駿はよく分かっている。

だけど現実は、「バルス」と言っても、世界は終わらない。せいぜいTwitterのサーバーが落ちるくらいだ。

私たちは「バルス」と言っても、変わらない世界に生きている。ぐらぐらし続ける積み木を、壊すことなんて、できない。眞人は、新しい世界に生まれ変わらせることはできない。

しかし宮崎駿がアニメをつくることを辞めたとしても、私たちは、扉を開ければ、また宮崎駿のアニメの世界に逃げ込むことができる。だからこそ眞人はこのぐらぐらした壊れそうな世界で生き続けるしか、ない。

父が不在で、母子密着で、卵たちは生まれてくることができず、そしてつるりとしたインコたちが叫ぶ声がバーチャルに響く、世界。

――こんなに的確に現代日本を表象した人が他にいただろうか。吐きそうなくらい的確なメタファーだと思う。

しかし私たちは、こういうアニメがある世界に生きているのだ。それだけが私の救いで、しかしこんな世界でどうやって親殺しができるというのだろう、とも思う。

それはたぶん宮崎駿には描けない。「君たちはどう生きるか?」という、凡庸な、ありふれた、彼からの質問なのだとも、思う。


↓有料部分はそのほか雑感です。春樹新刊との類似点とか。

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