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見えなくても見える見える詐欺?!

視力が落ちてしまってとうとう運転免許を更新できなくなってしまった人に最近目の
具合はどうかと聞いてみた。すると近頃はどんどん見えなくなって視野も欠けてきて
いるような気がすると言う。

よく聞いたら矯正視力0.6くらいで、視野も、欠けている方にいる人が見えなくて、
たまにぶつかるということだった。


亡くなった母も、見えない見えないと言っていたけれど、視力が0.8くらいだった。
私と一緒にいても、遠くのエレベーターは見えるし壁にかかっているカレンダーも全
部見えていた。一体どこがどう見えなかったのだろうか、私には理解不能だった。

母は元来目がめちゃくちゃよくて、若い頃は隣の人が読んでいる本も読めたそうだ。
裁縫や編み物が趣味だったが、80過ぎたら「もう見えないからきれいにできない」と
ぶん投げてしまった。思った通りの作品ができない事は彼女にとっては「できない」
事になる。編み物をやる視覚障碍者なんて母的にはあり得ない存在だろう。
そんな彼女にとって視力0.8はもう「見えない」部類なのである。


一方視力0.06くらいの弱視の知り合い、事あるごとに「私は見えるから」と主張する
ので何かのテキストを読んでほしいとお願いした。
すると何て事はない、画数の多い漢字は全然見えていなかった。しかも歩いていたら
水たまりに突っ込んだりしていた。

視力0.02の人も「私は見えているから」と再三言っていたけれど、階段を降りる時は
手すりにしがみつきながら降りていた。これにはちょっとさすがにびっくり。
歩行に関してはチート全盲の方がよほどスムーズだ。

ちなみに私は足下は白杖の情報で確認し、ほとんど見えない目では周囲の光や人の動
きを感じながら、進む方向を判断している。
視力0.02の人は目に頼りすぎて杖からの情報をキャッチできないのかもしれない。


「見えている」アピールの弱視たちは盲学校出身で大学に行っていない人が多いよう
な気がする。。要するに晴眼者の中に放り込まれたことがない人たちだ。

企業で働いていても、事務職ならともかく、マッサージなら同僚は同じ視覚障碍者に
なる。仕事もその場その場で完結するので見えないゆえの不自由さは少ない。


他にももともとはそこそこ視力があったけれどだんだん見えなくなっていってしまっ
た人、何かの写真だか絵を見て「いいね」なんて言っていたらしいけど、後で目の見
える人に聞いたら逆さに見ていたと言う笑うに笑えない話もあった。
障害の進行を受容できないタイプだ。


コップに水が半分入っているか半分しか入っていないか、客観的にはどちらも同じ分
量だけれど主観が入ると真逆になる。

以前鍼の先生に「問診票が書けないのですが」と言ったところ、「書いてもらっても
自己申告がいつも正しい情報につながるわけではないから書かなくていいよ」と言わ
れた。

ランニングであと少しと言われたので100メートルか200メートルくらいだと思ってダ
ッシュした。なのに行けども行けどもたどり着かない。
声をかけてくれた人にとって「あと少し」は500メートル位の事だったのかもしれな
い。


簡単とか難しい、できるできないの基準もかなり個人差がある。
私などは「簡単だから」と言われたのをうのみにして手を出したものの全然できなか
ったりする(汗)

だからといって500メートルとか視力0.05とかの数値で全てを理解できるかと言えば
そうとも限らない。

例えば視力0.1と言ったら視覚障害者の世界ではかなり見えている弱視ということに
なる。
しかし私は視力0.1で文字処理ができなくなり点字に転向した。

全盲でも階段を段抜かしで上がっていく人もいれば視力0.02あっても手すりにしがみ
つかなければ階段を降りられない人がいる。

ドイツ語ができると言うからどのくらい話せるのかと思ったら挨拶くらいしかできな
かったと言う人もいる。


どうやら自己申告も数値もいまひとつあてにならない。騙すつもりはなくても何でも
盛り気味に話す人なんかは誤解されて嘘つき認定されてしまう事もある。


目の場合、視力だけではなく視野とか暗反応とかコントラストとか多くの要素が加わ
って「生活視力」になる。そしてそこから得た少ない情報を解析するのは頭だ。

私のように0.1で文字処理ができなくなる人から0.01でもアイパットに顔をくつける
ようにして画面操作をしている人もいる。


結局数値も自己申告もあくまで指標、面倒でも都度都度できる事を確認するのがスム
ーズで間違いないやり方につながるのではないだろうか。

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