【旅行記】ウズベキスタン、偉大な未来を持つ国(Oʻzbekiston kelajagi buyuk davlat)
2024年GWにウズベキスタン旅行に行きました。
ウズベキスタンに行ってきたと言うと、周囲からは「なぜウズベキスタンに?」とたびたび聞かれます。強い動機やきっかけがあったというよりも、「漠然と行ってみたかったので行った」というのが実態でしたから、この質問はなかなか回答に窮するところがあります。一方で、シルクロードの中継地として栄え、特徴的な歴史をもち、豊かな文化を育んでいる国を訪れたわけですから、考えたこと・感じたことはあれこれ思い浮かぶものです。こうした場所に身を置いて浸る経験をしたかったというのが、私がウズベキスタンに行こうと思った理由だったかもしれません。
せっかくですから今回は、そうした「考えたこと・感じたこと」を記事としてまとめておこうと思います。
旅程
2024/04/26(金)に日本を出発し、同日中に仁川経由でタシケントから現地入りして1泊、翌日以降はヒヴァ(1泊)→ブハラ(2泊)→サマルカンド(3泊)と周遊し、05/03(金)夜にタシケントから出国、05/04(土)に帰国しました。しめて7泊9日(+機内1泊)。
7泊で4都市周遊するのは相応にハードスケジュールで、私はサマルカンドで体調崩して1.5日寝潰す羽目になりましたが、それでも4都市ともに素敵な土地なので頑張る価値はありました。もう1~2泊できれば、もう少し余裕をもって周遊できたと思います。ヒヴァの宿のお兄さんには「全国周るならほんとは12~13日あるとよかったね」と言われたな。
以下、参考までに、ロジ的な部分の記録です。
諸情報によれば、数年前までは、ビザが必要だったり、超インフレで大量の紙幣を持ち歩く必要があったり、写真撮影が不可能な場所が大量にあったり、白タクとの交渉がマストだったりと、めちゃくちゃ旅行難易度が高い国だったようです。しかしここ数年は、ノービザでの観光が可能になったり、高額紙幣が発行されて支払いやすくなったり、写真撮影の規制もなくなったり、Yandex Go(Uber
のパクリみたいなライドシェアアプリ)でタクシー交渉が完結したりと、ハードルが相当下がったようです。旅行しにくさといえば、後述の都市間移動ぐらいだと思います。成田からはウズベキスタン航空の直行便が週1で飛んでいます(成田発は金曜、タシケント発は木曜)が、いかんせん週1なので旅程の融通が利きにくいことが欠点です。仁川経由のアシアナ航空だと週4飛んでおり、私のスケジュール上も好都合だったのでこちらを選択しました(+今回は価格的にもアシアナ航空の方が確か6~7万円割安だった)。
GWかつ現地のベストシーズンということで、仁川↔タシケント便には日本人が多数搭乗していました。乗客のうちざっと3~4割は日本人だった気がします。
ウズベキスタンと韓国の間にはなかなか強いつながりがあるらしい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/theworldofislam/60/0/60_55/_pdf/-char/ja
国内の都市間移動は、タシケント→ヒヴァはウズベキスタン航空の国内線、それ以外は鉄道としました。ウズベキスタンは広い国土にオアシス都市が散在しており、都市間移動はそれなりに大変です。しかも、飛行機・鉄道ともに便数が限られており、かつ運行時間帯が偏りがちな上、特に観光シーズンは予約が埋まりやすいため、旅程は飛行機・鉄道のスケジュールに大きく制約されることになります。
鉄道は、基本的には45日前からネット予約が可能(というかこのタイミングで取らないと、特に高速鉄道「アフラシャブ号」は速攻で空きがなくなるので、乗りたい場合は予約の動き出しが必須)です。
スケジューリングに悩んだので4travelsで教えを乞うたところ、先人たちがいろいろとご教示くださり、参考になりました。
https://4travel.jp/os_qa_each-81067.htmlヒヴァ→ブハラ間は寝台列車に乗車し、車掌さんや同じコンパートメントだった方々にはずいぶんよくしていただきました。皆様方にとって、狭い車内で言葉が全然通じない人間(=私)を相手にするのが相当にストレスフルだったであろうことは想像に難くないのですが、やさしくコミュニケーションをとってくださり、安心して移動できました。あったけえ国です。ありがたかった。
ちなみに、ヒヴァ→ブハラ間で寝台列車に乗ると、途中でトルクメニスタン国内を通過します。停車はしないのでトルクメニスタンのビザは不要、という建付けです。夕暮れ時、アムダリヤ川を渡りつつ砂漠地帯を爆走していく車窓はめちゃくちゃ印象に残っています(写真をちゃんと撮れてないけど)。
宿泊費はホテルのランクによりますが、1泊5~6千円でも清潔な3つ星・4つ星ホテルに泊まれます。ドミトリーだと1000~2000円で泊まれそう。1~2万円出すともっと贅沢なホテルも射程圏内に入ってきます。
宿泊先でもらわないといけないとされる「レギストラーツィア(滞在登録)」は、結果的には、現地最終日の出国手続きを含めて1度も要求された場面はありませんでした。今はWebシステムで管理されているので紙媒体は必ずしも必要ないという噂もあったりなかったり。ほっとくと紙を渡してくれないので一部もらい損ねたんですが、そもそも不要になったのかどうなのか。まあでも、念には念を入れよで、基本はもらっといた方が良いです。
旅費の総額は飛行機の料金に大きく左右されますが、諸々あわせて20~30万円程度あれば十分に旅行できるのではないかと思います。
各都市の印象
タシケント
首都です。
人口200万人強、観光地はあんまりないとされています。なんか名古屋みたいだな……と思ったら、マジで交流があるらしくてウケました。
https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000116542.html
さて、この街の第1の特徴として、中央アジアに2都市しかない地下鉄が走っています(もう1都市はカザフスタンのアルマトイ)。どの駅も構内は旧ソ連感の漂う重厚な空間になっており、装飾が豊かに施されています。装飾のコンセプトは駅によって異なり、特にAlisher Navoiy駅やKosmonavtlar駅は美しくて素敵で、行ってよかったです。日本の鉄道駅もこのぐらい素敵にならないかと思うなど。
なお、限られた場所にしか訪れてない上での感想ですが、地下鉄の路線や駅の配置はタシケントの都市構造と必ずしも整合していなかった印象を受けました。地下鉄駅の周辺はわりとがらんとしていて、お店やレストランが多くあるエリアは地下鉄駅から結構歩く、というのが割とあった気がします。バスを使いこなせると便利なのかな。
次に、伝統料理のプロフ(=お米と具材(羊肉、人参、ひよこ豆など)を油で炊いた炊き込みご飯)をバカでかい大鍋で調理してくれる映えスポット・プロフセンターも、この街の見どころのひとつです。今はBesh Qozonなる店名にリネームされているようですが、同じ名前の店舗が市内に複数あることには注意が必要です(私は1回別店舗に向かってしまった)。大鍋プロフ調理の様子はYoutubeで見たことがありましたが、やはり実際に目の前にすると迫力がありました。作られているプロフは、もちろんその場で頂けます。
巨大な市場・チョルスーバザールも印象深かった場所のひとつです。ドーム建築のどでかい空間の中で同心円状に店舗が並ぶ風景は一見の価値ありです。特に何を買うでもなく歩き回るだけで楽しい場所だと思います。
市内中心部のティムール広場に向かうと、美しく整備された広場のど真ん中に、古の君主・ティムールの騎馬像が鎮座しています。その背景には、これまた旧ソ連感が満載な建築のホテルウズベキスタンがあります。これらをセットで写すと、なかなかに味があります(冒頭のカバー画像のとおり)。
ここにティムール像が据えられたのは旧ソ連崩壊後の1994年のことであり、旧ソ連時代にはスターリンやらマルクスやらの銅像が据えられていたようです。ティムールは今のウズベキスタンで民族・国家を象徴する存在ですが、旧ソ連時代には否定的な評価が下されてきた存在でもあります。この場所はひとつ、各時点の政体を象徴する空間なのでしょう(なお、旧ソ連時代には娼婦がたむろする場所でもあったらしい。今は相当綺麗に整備されており、その面影は全く感じられませんが)。
広場から通りを挟んで向かい側にはティムール博物館があり、でかい壁画が飾られており、ティムール朝の歴史などが語られています。展示の一部として、ウズベキスタンの初代大統領であるイスラム・カリモフの言葉として下記の文言が示されています。カリモフには独裁者との批判も多くありますが、よくも悪くもソ連崩壊後のウズベキスタンという国を形作ってきた存在であることは確か。その中でティムールがどのように象徴化されてきたのかを、この文言はよく表していると感じました。
ホテルウズベキスタンの最上階17階のカフェ?バー?ではタシケントの市街地を眼下に眺めながらコーヒー等を頂けます。旅先の気分に浸りながら茶をしばくのはなかなかオツなもので、おすすめです。
ヒヴァ
城壁に囲まれた旧市街地「イチャン・カラ(内城)」が世界遺産に登録されています。ブハラやサマルカンドと比べてタシケントから遠く、高速鉄道もないので、行くのはそこそこ大変です(ここに行くことで旅程が一気にヘビーになります)が、行く価値はありました。
※なお、高速鉄道も建設中らしく、通れば少しは楽に行けるようになりそう。宿の人にも「高速鉄道通ったらまた来てよ~」と言われた。
「イチャン・カラ」は中央・西アジアの各都市に存在したようですが、無傷に保たれているのはヒヴァのイチャン・カラのみだそうです。数百メートル四方のエリアが城壁に囲まれ、その内部にモスクやメドレセ(神学校)、ミナレット(モスク等に付随する「塔」)などの歴史的な建造物が多数遺されています。無傷といっても1740年にイランの襲撃で建造物の多くが破壊されたようですが、その後18~19世紀にかけて再建されたのだそう。城壁内部に歴史がぎゅっと閉じ込められた、タイムカプセルのような博物館都市というのがよいでしょうか。伝統的なものがこれほど面で残っている場所も、なかなか珍しいと思います。
街を歩いていると、メインストリート沿いにある未完のミナレット「カルタミノル」が目立ちます。ずんぐりむっくり、青く輝いており、茶色基調の街の風景の中でよく映えます。
そのすぐわきにあるメドレセは、改修されてホテルになっており、宿泊が可能です(オリエントスターホテル)。私は予約取れず泊まれず、中庭だけ昼間に見に行きましたが、予約が取れれば宿泊できると素敵な体験になるだろうと思います。
また、高さ45mの「イスラーム・ホジャ・ミナレット」も同じく街中で目立つシンボル的な存在です。塔上部の見晴台に上ることができ、街中を一望できます。バカなので高いところが好き、ということでしっかり登ってきました。数百メートル四方ということで、手のひらサイズというか、視界に収め切ってしまえる街ですけど、ここまで歴史を閉じ込めきった街もなかなかないので印象深かったです。
街全体として(おそらく国内からの)観光客が多いです。修学旅行みたいな感じで来ている現地の学生さんも多かった気がします。あるいは、宿の朝食会場で相席になったおっちゃんも、サマルカンドから来たと言ってました。
1個謎だったこととして、女性複数人のグループに呼び止められて一緒に写真撮ってほしいと言われたことが何度かありました。年齢層もさまざま。海外で向こうから声かけてくる人は基本的にはろくなもんじゃないと思っているので気を付けながら応対してましたが、「写真撮ってあげるよ」ですらなくて、本当に他意はなく一緒に撮りたいだけらしい。もちろん、何か盗られたりどこかに連れていかれたりするでもなく。ちょっと面白かったです。
古代遺跡「アヤズ・カラ」が日帰りでも行ける範囲にあり、ここで移動式住居「ユルタ」に泊まるのも楽しいらしい。次の機会があれば行きたいな。
ブハラ
サマルカンドと並んで、古代からソグディアナの中心都市として栄え、イスラーム世界の一部となってからはサーマーン朝の首都やブハラ・ハン国の首都が置かれるなど、政治や文化の中心を担ってきたとされる。『医学典範』を著したイブン・スィーナーの出身地らしい。うーむ。
ブハラの旧市街地も世界遺産に指定されており、ヒヴァのイチャン・カラとは趣が異なるものの、歴史を感じられる場所として保全されています。
ざっくり、ラビハウズ周辺とカラーンモスク周辺を行ったり来たりしながら過ごすのが、この街の旧市街地での最も典型的な過ごし方になると思います。多くの宿がラビハウズ周辺にあり、ラビハウズの池のほとりのレストランのテラス席で1度は飯を食い、カラーンモスクとミナレットは昼に1回・夜のライトアップも1回はそれぞれ見に行って、その間にあるメドレセや土産物屋も見てまわる(スザニを見てまわったり、コウノトリのハサミを買ってみたり)、みたいな。あとは、カラーンモスクより向こうにあるアルク城やボロハウズモスクに行ってみたり、ブハラタワーの展望台に行ってみたり、さらにもうちょい頑張ってイスマーイール・サーマーニー廟に足を伸ばしてみたりする。自分がどんな過ごし方をしていたかを書き出すと、まあこんな感じになります。
すごく居心地がよい街でした。際立った何かがあるというよりは全体が、雰囲気として居心地がいい街です。私は2泊でしたけど、3~4泊かけてのんびり過ごしても飽きずにいられる気がします。しっかり滞在期間を確保するのがおすすめです。
旅行ガイド等を見ていると「サマルカンドが京都だとするとブハラは奈良」みたいな、ブハラは派手じゃないけど落ち着いた感じの居心地の良さがある街だという形容がしばしばなされています。この形容はまったくもってそのとおりと思います。スルメ曲じゃないですけど、じんわりと味があって、落ち着いていて、リラックスして過ごせる街だと感じます。
なお、ブハラに鉄道で向かおうとすると、10km程度離れた隣町のカガンにある鉄道駅が玄関口になります。Wikipedia曰く、19世紀後半にロシアがこの地域を征服した際に、ロシア人たちはムスリムたちが多数住まう旧市街地を避け、新市街地としてカガンを新たに建設したために、旧市街地の都市構造や景観が維持されたのだそう。こんな話も頭の片隅に置きながら移動すると、何でもない新市街地の風景も少し感慨深く見えるかも。
サマルカンド
ウズベキスタンに興味を持った日本人の多くにとって、最初にこの国を知ったきっかけは高校時代の世界史の資料集で見かけたサマルカンドの写真なのでは、という気がします。「サマルカンド・ブルー」とも呼ばれる鮮やかな青色のタイルで彩られた建造物群が心のどこかに焼きついて、ウズベキスタンへの旅行に憧れるに至った人はたくさんいるでしょう。私もそうでした。
古代からオアシス都市として栄え、8世紀以降はイスラーム世界の中心都市のひとつとして繁栄をつづけ、13世紀にはモンゴル(チンギス=ハン)によって徹底的に破壊されたものの、14~15世紀にティムール朝によって再興されて大きく発展し、イスラーム世界の建築・芸術の発展に大きく寄与した……というのがざっくりしたサマルカンドの歴史です。「サマルカンド・ブルー」はティムールが「青」を好んだことに由来すると言われます。
サマルカンドの歴史地区は "Samarkand – Crossroad of Cultures(サマルカンド - 文化交差路)" として世界遺産に登録されています。その選定基準は、UNESCOのWebサイトによれば以下のとおり。素敵ですね。
「サマルカンド」という街の名前は「人々が出会う街」("サマル" は人々が出会う、"カンド"は町)の意であるとされています。この街を形容して "Crossroad of Cultures" とは、よく言ったもんだなと思います。
御託はこのぐらいで。とにかく建造物群が美しくて飽きません。この街でもっとも有名な風景であろうレギスタン広場(+周囲のマドラサ)、ティムールの霊廟であるグーリ・アミール廟、ティムールが命じて建造されたビビハニムモスク、ティムールゆかりの人々が眠るシャーヒ・ズィンダ廟群、いずれも装飾を眺めているだけでため息が出てくる美しさです。この空間に自分の身を置くためにこの国に来たんだよな、と思います。ゆっくりと、ひとつひとつに向きあいながら見てまわるのがよいと思います。
ところで、冒頭に述べたとおり、私、無理な旅程がたたってサマルカンドで到着日+翌日の1.5日は丸ごと寝込んでいました。それでも上記のスポットを回りきれたのは不幸中の幸いです。なんとか回復できてよかったです。
幸いにして胃腸はやられなかったものの、あまり負担のかかる食事もできないので、レギスタン広場前のジェラートで糖分を摂ったりしてました。マスターやスタッフが日本人というレストランのお世話になり「病み上がりなんですけど……」と申告して、マスタヴァというトマトリゾットのようなのを頂いたりもしました。私にとってはこれはこれで、サマルカンドの貴重な想い出だなあと振り返っています。
サマルカンドから日帰りで行けるエクスカーション先として、スザニがたくさん売られているウルグットバザールや、ティムールの故郷であるシャフリサーブス(こちらも世界遺産らしい)があります。このうち少なくともどちらかには足を伸ばしたい気持ちがあったのでサマルカンドで3泊にしていましたが、1.5日寝込んだことでサマルカンド市内の周遊だけでも精一杯になってしまいました。バッファのある予定にしておいてよかった、というお話でもありますが。
これらの行ききれなかった場所は、いつかまたどこかでウズベキスタンを訪問できたときの宿題として、取っておこうと思います。
全体を振り返って
私はコロナ禍のうちから「コロナ禍が明けたらウズベキスタンに行きたい」と言い続けていました。まずは、念願かなって訪問できて嬉しかったです。
実際に訪れてみると、想像していた以上に素敵な国だったと思います。サマルカンドが飛び抜けて有名ですが、他の都市もそれぞれ魅力がありました。ヒヴァにも頑張って足を伸ばしてよかったです。どの街が一番好きかと言われると、なかなか甲乙つけがたい。
都市間移動や言葉の問題などのハードルはあるけど、治安はよい気がするし、優しい人が多くて、楽しく旅行できる国だと感じます。食べ物もやや脂っこいけど日本人の口に合う味付けと感じるし、緑茶文化圏なのも地味にありがたい。カリモフ前大統領は親日家だったといいますし、素朴な感想として、もっと日本との関係が深くても不思議でない国のように思えます。日本人観光客も(GWかつ現地のベストシーズンとはいえ)想像以上に結構いたので、実はプチブームなのかもしれない。ビザが不要なのは大きいし、旅行のハードルが下がっているのは確か。
ウズベキスタン、偉大な未来を持つ国(Oʻzbekiston kelajagi buyuk davlat)というのは、カリモフ前大統領が独立直後に掲げたスローガンであるそうです。当時は、国内にさまざまな問題が山積していたことから、このスローガンは国民から大いに懐疑的な姿勢で受け止められたといいます。
現在の社会情勢が自国民にとってどうなのかというと、余所者の私からは伺い知れないところがあります。ただ、穏やかな人・社会の空気感には閉塞的なムードはなく、明るい方向に向かっている国のように思えました。そうであってほしいとも思います。
どうしても行くのが大変な国なので、なかなか再訪できない覚悟で今回訪問しましたが、1度訪れた感想として、やはり今回1度きりではなく再訪したいですね。この国の「偉大な未来」を、また目にできる機会を作れたらと思います。