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掌編小説/マフラーに

 マフラーに見えた。
 帰りのバスのなかだ。隣の席に女性が座ったので、ぼくはバスの窓に額をつけるようにして外を見ていた。街路樹の向こうにクリスマスのイルミネーションがきらめき、光の城に人々が吸い込まれていく。スマホを操作している女性の肩がバスが揺れるたびにぼくの二の腕にふれて、でも気づかないふりをしていた。
 交差点でバスが停車したとき、歩行者用の信号機の下にマフラーが落ちていることに気づいた。マフラーだったと思う。と思うというのは、バスの窓から見つめた立体感に乏しい景色のなかにあり、対象物までの距離が遠かったこと。次にタオルや腹巻きなどの形状が似た衣類の可能性を否定できなかったこと。と、これがいちばん大きな理由なのだが、そのマフラーみたいな何かは動いていたということだった。
 バスの窓には、隣に座る女性が映っていた。すべてではない。間近に迫るぼくの顔が女性の大半を覆い隠して、見えるのはスマホを操作する手元と、割れたコートの隙間からこぼれている足、黒いストッキングを履いた太腿のあたりだった。
 目の焦点を窓ガラス深くに合わせると、そのマフラーみたいな何かはいまも動いていた。眠っている人間の体に電極を刺して皮膚が焦げるような電気を流したら、あんな動きをするのではないかと思った。意識とは別に、筋肉の収縮だけで動いている肉体。毛糸の一本一本に血が通っていて、アスファルトの上でのたうちまわっている繊維。目も鼻も口もない蛇を編みこんでマフラーにしたら、あんなふうに見えるかもしれない。
 しかしバスが動きはじめ、その交差点を遠ざかり、そのマフラーのような何かを肉眼で捉えることができなくなった直後から、ぼくは自分が見た光景に確信が持てなくなった。いまでは自分の記憶のなかにしかないこの光景が、はたして現実のものだったのか? 嘘つきな脳みそが見せる幻影ではなかったか? その証拠と呼べるかどうかわからないが、気づくと、ぼくの隣に座っていたはずの女性が姿を消していた。もちろん、ぼくが気づかないうちにバスを降車しただけかもしれないが。
 という話を家に帰ってから遠距離恋愛中の彼女に話すと、
「歩行者用の信号機」と呟いた。
「それがどうかしたの?」
「歩行者用の標識ってあるでしょ? あれって子どもの連れ去りに見えない?」
「見えなくはないけど」
「誘拐された子どものマフラー」
 彼女は安楽椅子探偵のように、ぼくの話だけで推理を組み立てはじめた。
「誘拐された子どものマフラーだとして、勝手には動かないよ」
「の幽霊だとしたら?」
「それはつまり」とぼくは彼女の話を整理した。「ぼくが見たのはマフラーの幽霊ってこと?」
「そう」と彼女は応えた。「それ以外に説明できない」
 惑星からの未知なる物体のほうがまだしもだった。翌日になって主人公が目覚めたとき、人類のほとんどが感染し、世界は滅びかけている。灰色の空に黒い雪が降っているのを見つめながら、主人公はあのとき自分が何かしらの行動をしていたら? と考えるのだ。
「マフラーの幽霊って?」とぼくはたずねた。「そもそもマフラーは生きてないから、死ぬこともない」
「八百万の神」と彼女は応えた。「百鬼夜行の迷子とか?」
「マフラーの幽霊っていうのが、どうもイメージが湧かない」
「もしもマフラーの幽霊が存在しないんだったら、セーターやズボンの幽霊も存在しなくて」と彼女は言った。「幽霊はみんな裸のはず」
 そもそも幽霊が存在していて、その幽霊は服を着ていると仮定して話しているのだから、マフラーの幽霊が存在しているという論証になるのか、幽霊を見たことがないぼくにとっては腑に落ちない話だったが、しかし、もしもマフラーの幽霊が存在しているとしたら、幽霊を見たことがないと断言することも難しい。靴下の幽霊、窓の幽霊、マンションの幽霊——絶対に見たことがないとは言えない。
 彼女との電話を切って、もしかしたら天井の幽霊かもしれない、の天井に吊るされたランプシェードの幽霊かもしれない、の光の幽霊かもしれない光を見つめながら、とにかく彼女の話にはひとつ真実があって、あのマフラーはたしかに死んでいた。

 目覚めると、地下鉄の座席だった。マフラーはあたりを見まわし、車両には深くキャップをかぶった男が一人、腕を組んで眠っていることを確認した。だれが自分の持ち主だったのか、マフラーは思い出すことができなかったが、あの男ではないと直感できた。自分の周囲にはだれも座っていない。つまり自分は忘れられたのだと気づいた。
 地下鉄が停車し、マフラーは電車を降りて、改札口の下を抜けた。帰路を急ぐ人々に踏まれないように気をつけながら駅前の混雑を逃れると、ドアを開けたタクシーがあったので女性客と一緒に乗りこんだ。
 その女性は運転手に行き先を告げて、車内で化粧をはじめた。その途中で自分のものではないマフラーが座席に置かれていることに気づいたが、一瞬視線を向けただけだった。化粧を終えたあとはスマホをチェックして、タクシーの窓から外を眺めていた。
 女性と一緒にタクシーを降りると、そこは繁華街だった。自分の居場所ではない気がして立ち去ろうとすると、男に掴まれて持ち上げられた。
「マフラー落ちてた」と男が言った。「いる?」
「いるわけないから」と女が応えた。
 男はマフラーを路上に投げ戻した。しばらくして再び動きはじめて、夜の闇に消えたマフラーに気づいた者はだれもいなかった。
 マフラーは夜の町を駆けて、しかし自分がどこに向かうべきなのか、自分が何者かさえもわからなかった。神経を啄まれるような痛みだけがあった。神は自分に目も鼻も手足も与えてくれなかったのに、痛みだけは平等に与える。と考えて、平等? だれと比べて自分が平等だと考えたのか?
 交差点で足を止めると、二度と動けなかった。痛みだけが全身を支配していた。細胞が死に、体内に繁殖する菌が抵抗しているのだと思った。やがてその菌の活動も停止してしまうと、自分のなかに死だけが蔓延りはじめた。

(了)


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