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掌編小説/ドールハウスの夜
「ねえ、知ってる?」と妻は言う。
「知らない」とぼくは応える。
洗濯物をたたみながら、妻は微笑む。
「昔の人ってね、キャベツ畑から赤ちゃんが産まれてくると思っていたんですって」
そう言って、自分の下腹部を愛おしそうに撫でている。
寝つけない夜だった。
寝室のカーテンが少しだけ開いていて、その隙間から射しこむ光がぼくの顔を照らすからだった。目を閉じていても、街灯の白い光は瞼を透かして、ぼくの眼球に突き刺さった。カーテンを閉めればいいのだが、体はすでに眠りはじめていて、起き上がるのが面倒だった。
「起きてるの?」と妻の声が聞こえた。
「ああ」
「眠れないの?」
「まあね」とぼくはため息混じりの返事を返した。
「まだ怒ってる?」と妻の声は、ぼくの神経を逆撫でするようだった。
仕事を終えて家に帰ると、ピッピが台所の流しで死んでいた。
黄色に緑色の羽根が混じった典型的なインコ。
妻と付き合いはじめた頃だ。
公園を歩いているとき、黄色いインコが枯れ葉のなかで踊っていた。地団駄を踏んでいるように見えたし、楽しげにタップダンスしているようにも見えた。羽根が切られているらしく、飛ぶことができないみたいだった。
どうしようか? とぼくは妻にたずねた。
空を見上げると、雪を含んだ灰色の雲が重そうに横たわっていた。インコはぼくたちの後ろをついてきた。
妻は何も言わず、優しくインコを(その光景を、ぼくはいまでも思い出すことができる。しゃがみこんだ妻が手を差し出すと、インコの方からその掌に飛びこんできたのだ)持ちあげると、着ているコートのポケットに入れた。そのまま連れて帰った。
そのピッピが台所の流しで死んでいるのだった。
ティッシュに包まれているわけでもなく、死んだまま、硬直したまま、放置されているのだった。
ぼくがまず初めに思ったのは〈死の認知〉だった。飼いはじめたときから、ピッピがいつか死ぬことは理解していた。しかし、それは知識としての理解であり、本当の意味での〈死〉に直面したとき、思考回路の一本が切断されたように画像が乱れた。
ピッピは、もうこの世界に存在しない。これから何千年、何億年と続いていく永遠のなかで、ピッピがふたたび誕生することはない。明日、ぼくが剥いたアボカドが硬過ぎす柔らか過ぎず、ちょうどよい食べ頃だと喜ぶとき、ピッピが小さな嘴を擦り合わせて話しかけてくることもない。
存在しないとは、どういうことなのか?
「どうしたの?」と妻はリビングから声をかけてきた。
妻は最初、買い物から帰ってきたときにはすでに死んでいたのだと説明した。しかし、よくよく訊いていくと、自分が処分した(殺した、とは言わなかった。処分した、と言った)と告白した。
「呼吸器疾患を起こす可能性があるらしいの。羽毛とか糞とかが原因で。アレルギーやオウム病の危険性もあるみたい」と妻は自分のお腹を見つめた。
「これから産まれてくるこの子のことを思うと、やっぱりね」
まだ怒ってる? とたずねてきた妻の声を、ぼくは無視した。
怒っているのか、悲しいのか、自分の感情が判断できなかった。
ただ、妻の声を聞くたびに、欠落した穴から液漏れするような不快感が蔓延していくのを感じた。
「ねえ」と妻は話しかけてきた。「幸せ?」
ぼくはこたえる代わりに寝返りを打って、妻に背を向けた。
「わたしは幸せ。これ以上ないぐらい毎日が充実しているの。ああ、わたしはこのために……この子のために生きてきたんだなあって、自分を誇らしく思えるの」
それから、加湿機能付きの空気清浄機が欲しいだとか、除菌できる洗濯機や冷蔵庫が必要だとか、そういうことを楽しげに話した。ぼくはそのたびに、あくびともため息ともつかない生返事を繰り返した。
「残念ね」と妻の声色が変わったので、ぼくは背を向けていた体を起こして、妻の方に向き直した。思っていたよりも、妻の顔が近くにあった。薄暗闇のなかで、妻の小さな目が二つ、濡れているように光っていた。
「男の人にはわからないのよ」と妻は言った。
寝室がトラックの排気音で震えた。
家の前に都市高速の入口があって、物流センターから吐き出されるトラックが行き来した。そのたびに寝室は余韻を残して震えた。
カーテンの隙間から射しこむ光は、その都市高速を照らす道路灯だった。
「出会ったとき……」とぼくは言った。
「また、その話!」
妻の声が遮った。
「出会ったときが何なの? ヒギンズ教授にでもなったつもり? わたしがいなくなったら、あなたはきっと言うわ。ぼくのスリッパはどこ? って!」
「違う」
「違わないわ。あなたはあれよ。あの旅行にいくらかかった、食事代はいくらだった、あのプレゼントはいくらだった、って几帳面にメモして、気に食わないことがあると、急にそれを言い出すのよ」
「違う」とぼくは繰り返した。
そのときには残酷な虫が、ぼくの心を巣食っていた。後悔することになるかもしれない。そんなことも考えなかった。ただ、妻を傷つけたかった。
「出会ったとき」とぼくは言った。「君は旧型だった」
「だから何?」と妻は言い返してきた。
「あなたが新しいチップに取り替えてくれた。覚えてる、覚えてるわ。でも、だからって、ずっとあなたに感謝して生きていかなきゃいけないの?」
「違う」
「だから、何が違うの? 感謝はしてる、してるわよ。でも、わたしにだって意志があるの! 考えてることがあるの! あなたの操り人形になんてなりたくない」
「だから」とぼくは言った。
「ぼくたちはアンドロイドなんだ。だから……」
「だから?」
「だから……」とぼくは悪意をこめて言った。
「だから、ぼくたちに子どもはできない」
薄暗い寝室に、妻の絶叫が響いた。
息の続くかぎり、妻は喉の奥から声を絞り出し、過呼吸の荒々しい息づかいを繰り返すと、ふたたび泣き続けた。それは泣き声というよりも、咆哮に近いものだった。
ぼくは妻に背を向けて、青く浮かびあがる寝室の壁をじっと睨んでいた。
トラックが通過するたびに、古いフィルムを透かすような淡い影が映った。
黄色い何かが羽ばたくのが見えた。