伝説のソムリエール 8
「いまだに受け入れらんねぇんだよなぁ、チバさんがいいねぇなんて。もうさ、チバさんのことを思うとすぐに涙が出てくるんだよね。」
「そうなの、この人ね、月命日には今も献杯してるの。ボロボロ泣きながら。」
ヤツの言うチバさんとは、少し前に亡くなったTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTのチバユウスケだ。自分の親兄弟が亡くなったかのように、ヤツはチバさんのことを語る。「あんな人二度と出てこねえよ。俺は世界で1番チバさんを尊敬してる。あの人がいなかったら今の俺はここにいねぇからな」
店内にはミッシェルのポスターが貼ってある。BGMもいつの間にかUAやAJICOからミッシェルに変わっていた。
正直に言って、あの頃、俺はミッシェルにハマらなかった。彼らが爆発的に売れたのは、俺が大学生のころ。彼らはモッズスーツでガレージパンクのような音楽をやっていたのだが、そのスタイルが、俺にはピンとこなかった。その少し前、高校時代の俺はUKに憧れ、ロンドンに渡り、モッズスーツを仕立てて帰って来て、それを着てパンクバンドをやった。そんな風にティーンエイジャーが、音楽やファッションのクラシックなスタイルを追いかけたり模倣したりするのは、まぁよくある話だし、たいていみんなそこから始めるものだ。だから、プロのミュージシャンの音や容姿が、あからさまにどこかのジャンルのものだと分かってしまうと、なんだかそれは違う気がしまった。
シンプルな高速ビートはわかりやすくノリやすい。ライブハウスやフェスでそれは盛り上がるだろう。だが、あの頃も俺はもっと音楽に多様性を求めていたし、何にも似ていない。どこにも属さない、そんな音楽を作り出すミュージシャンこそが、その頃の俺の興味の中心にあった。だから言葉は悪いが、音楽番組で初めてミッシェルを見たとき、なんだか子供っぽいな、いまさらだな、と思っていた。俺らより少し上の世代のミュージシャンであったゆえ、その彼らが60年代UKのようなスタイルでテレビに出てくることに違和感を覚えていた。
ちゃんと聴かなかった人間にどうこう言う資格はないが、それが当時の正直な印象である。
そのあと、アベフトシが急逝した時も、スラムダンクが映画になり、あのオープニングソングでBIRTHDAYSとしてのチバユウスケの声を久々に聞いた時も、俺は同じことを思い出していた。
そんな俺の個人的な思い出話など知る由もないヤツは、チバユウスケにとことん酔心している。ソムリエールは言う。
「この人、ほんとうに、このまま死んじゃうんじゃないかっていうくらい、ずっと泣いてたんですよ。」
血の繋がっていない他人の死で、人はそこまで長い期間、泣けるもなのか。気持ちが吹っ切れたり、諦めがついたり、時が癒してくれたりするものではないのか。この初対面の声のデカい、無神経にしか見えない男が、そんなふうにボロボロ泣いているななんて、嘘だとは思わないが、そこにはちょっと違和感があった。
ただ、それと同時に、その対象が日本人アーティストであったというところに等身大の安堵感を覚えたのも事実だ。これが例えばカート・コバーンが死んでから俺は毎年墓参りに行ってるぜ、みたいな話だったり、俺の知らないアメリカのラッパーの名前が出てきたりしたら、ヤツとの距離はもっと広まっていたかもしれない。俺らの世代は洋楽を聞いていることががかっこよかったし、インポート物の洋服やブランドしか認めなかったし、とにかく海外嗜好が強い。そんな中で堂々と、大人になってもチバユウスケが好きだと大きな声で叫び、店にポスターを掲げ、彼の死を悼み、泣き続ける。なんて清々しい人間なんだと思ったのもまた事実。
だが、同時に1つの疑問が。
そんなヤツがイタリアワインに精通するこのソムリエールと出会い、結婚するに至ったストーリーはいったいどんなもののか。謎が深まるばかりだ。
だが俺の頭は、チバの歌とヤツの声とテキーラと、それに店の暑さでもう飽和状態だった。おまけにあと1時間もすると夜の営業、すなわちヤツがバーテンダーとしてカウンターの中に立つ時間がやってくる。ちょうどいい。ここらで線を引いてそろそろ帰ることにしよう。もう1人の女性客と俺はほぼ同時に「じゃあそろそろ」というような素振りをし、2人とも会計をした。
値段を知らないテキーラを飲んだり飲まされたりを繰り返していたので、正直なところ金額を見る瞬間は緊張したのも事実。だが大丈夫、とても良心的な金額だった。本当である。
店を出て、オイスターパーペチュアルをはめた女性客となんとなくインスタを交換し、また機会があれば飲みましょうと別れた。とても文化的な匂いのする落ち着いた女性だった。帰りの電車で彼女のインスタを見ると、やはりそんな人だった。たいてい、人は見かけによるのだ。
そして、声のデカいあの男の正体を知るまでには、それから数ヶ月後を要する。