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私服とはなんだろう【閑話休題】

私服とはなんだろう。

 ふとこんなことを思った。いや、なんとなくの意味は分かるのだ。休日に着る、個人の趣味が反映された服のことだろう。逆に、平日に着るのはスーツだったり、制服だったり、なんとなく「ルール」や「コード」が定められた服だ。

 ただ、スーツにおいては生地だったり、ネクタイをするorしない、靴の色は?、など「個人の趣味」は反映されそうだ。
 学生の制服だって同じで、詰襟のホックを外したり、学ランの第一ボタンをわざと外したり、(靴までは細かく指定されていないことが多いだろうから)好きなスニーカーに合わせたり。
 つまり、スーツや制服にだって個人の趣味は反映できるのだから、私服の定義を「個人の趣味」に同定することはできなそうだ。

 通常、「制服」と「私服」は対照に定義される。前者が「制定された被服の総称・ユニフォーム」のことを指すのに対して、後者は「個人の立場で着る衣服」を指す(コトバンク)。でも、それでは不十分な気もする。

 制服には一般的に「帰属」や「個人の性質」、「(立場や地位の)提示」、あるいは「社会の秩序」などが要素としてあると思うが、それは私服でも言えることだろう。私服には着る人の人となりや価値観が現れるものだし、我々は人の服装を見て、その人の性質を判断してしまうことがあるはずだ。例えば、清潔な白いシャツを着ている人には一般的に良い印象を持つ。もしくは、高級ブランドのアイテムを身につけた相手にはそれなりの地位と富を見出す。
 あと、これは最も重要なことだと思うが、服装はコードと切って離すことができない。ある一定の条件下では「着て行ける」服は限られてくるだろう。我々がよく言う「着ていく服が無い」なんてその一例で、服自体はあるはずなのだ(所有している全ての服を洗濯している、という場合を除いて)。でも着ていく服が無いというのはつまり、「そこにふさわしい服が無い」ということを示す。「これを着て行ったら浮くな」、「これはもう好みじゃない、着て行きたくない」。
 服の可能性は有限だ。トップス10着、ボトムス10着あれば、100通りの組み合わせが楽しめる!というのは実はそうではなくて、アイテム同士の組み合わせがチグハグだったり、季節外れだったり、着ていくイベントの性質にそぐわないものだったり、そういうことは大いに起こり得るのだ。もちろん、そこを含めて楽しむのもアリなのだが、その服装を周りの人がどう思うかまではコントロールできない。自分一人だけで生きているわけではないのだから。

 次に、私服の視点から。私服は「個人の立場」という要素が大きいらしい。たしかに、私服は何を着ても自由だ(ただし、前段の内容の通り、コードからは完全には自由になれない)。でも、それはスーツや制服にも言える。(会社にもよるが)どんな色のスーツを着たっていいし、あえてスニーカーに合わせたっていいのだ。
 もともとスーツ(の原型)は、フランス革命下における庶民(それも特にブルジョワジー)たちの「自由の象徴としての制服」だ、みたいのをなんかの本で読んだ気がする。貴族たちの無駄に華美で大仰なドレスに対する、シンプルで合理的なユニフォーム。まさにスーツは自由を求める我らの象徴なのだ!てな具合に。ただ、現在その「自由」の部分は薄れ、ユニフォームの「拘束性」や「帰属性」の部分が肥大化してしまった感があるが。
 話が逸れた。まあつまり、スーツや制服でも個人の趣味は反映できる、ということ。

 ここまで考えてきて、実は私服と制服にはそこまで大きな差はないのではないかと思えてきた。どちらにもコードと趣味はつきまとうものだ。あえて言うなら、私服は趣味の部分が、制服はコードの部分が、割合(優先度?)としては大きいというところか。

 結論としては、私服でも制服(スーツ)でも、コードを意識はしながら、個人の趣味、つまり「私は何が好きか、何を着ると楽しいか」を常に考えておきたいものだ。服が好きで休日はこだわった服装をしてるが、スーツはテキトーです、とか、スーツがビシッと決まってるのに私服がダサい、とか(そんなコピペがありましたね)、そういうことにはならないように。
 可能な限り好きな服を着ていきたいね、というそんなことを考えた日曜日でした。ちなみに、この土日はずっと家にいたので完全な部屋着だったのだが。いつか、部屋着にもこだわりたいと思う。でもそれはまだ、先の話。

 見出し画像は土井縫工所のストライプドレスシャツ。ストライプのシャツはとても好きだ。

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